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第十夜(2)

 朝が来て高見と別れたあと、オフィスに行くと御堂がいた。  机の上は昨日私が飛び出したままになっていた。しんと静まりかえったオフィスの窓から朝日が差し込んでいて、寝ている彼を照らしていた。御堂はソファに横たわり、ぐっすりと寝入っている。彼がオフィスに泊まり込む理由は仕事だと思っていたが、高見に言わせるとそうではないということだった。 『あいつは女が自宅に押しかけてきたら、抱くか逃げるかの二択で、逃げる場所はほぼ会社。そしてそれから間もないうちに、その相手を切る。つまり連絡を絶つんだよ』  その言葉だけを聞いたならば、御堂は最低な男だ。だが、高見から御堂が恋愛を避けるようになった理由を聞いたあとだけに、最低な男とは思えなかった。  御堂を起こさぬように、すぐ側まで近づいた。ソファの座面に顔を向けながら、体を丸くさせて眠っている。その姿は羊水の中に浮かぶ胎児を思わせる。  物音を立てないように静かにしゃがみ込み、御堂の寝顔をのぞき見る。ふだん無造作に流しているつややかな黒髪はすっかり寝乱れていて、顎にはわずかにひげが生えていた。着ているものは昨日と同じだし、自宅に戻った様子もない。ということは、私がオフィスを飛び出したあとからずっと、彼はここにいたのだろう。  昨日御堂の過去を聞かされたあと、オフィスでのやりとりを全て高見に話したら驚いた顔を向けられた。そしてその表情がみるみるうちに安堵の表情に変わり、その変化に今度は私が驚いた。 『ようやく、誰かと向かい合うことができるようになったんだな。櫂は』  その言葉を言ったときの高見の表情は、とても穏やかなものだった。御堂が恋愛を避けていた理由を知っているからこそ、その言葉がすんなり出たのだと思う。  仲が良かったはずなのに、やがて口論ばかりを繰り返すようになり、最後はお互い罵り合う両親の姿を見続けた結果、御堂は絶対壊れないと思っていたものが壊れることを知ったらしい。それだけでも十分トラウマになりそうなのに、大学時代に付き合った女性が追い打ちをかけたのだと高見は教えてくれた。  大学時代に付き合った女性は、御堂の繊細すぎる一面に触れて、ふだんの彼とのギャップに戸惑っていたらしい。彼女が恋したのは、明るく豪快な御堂であって、その裏に隠れていた人一倍繊細な彼ではなかったのだ。  誰かを好きになったら、自分のことを理解してほしいと誰しも思う。そして相手のことも理解したいと思うものだ。だが、それぞれ異なる価値観を持つ人間同士が完全に理解しあうには、お互いのあいだを信頼だったり愛情で埋めるしかない。  それを彼女はできなかっただけなのだが、若い二人はそこまで考えが至らなかったし、努力ができなかっただけなのだ。やがて二人のあいだはギクシャクし始め、些細な言い合いが増えてきたらしい。そんな自分達の姿が、離婚するまでの両親の姿と重なって見えたのだろう。御堂はその後すぐに自ら別れを切り出して、それ以降恋愛は面倒なものとして避けているのだという。  高見はそれらすべて御堂本人から聞かされた訳ではないが、断片的に聞かされたものを繋いでいくと、そうとしか思えないと話していた。 『櫂は来る者拒まず、去る者負わずは気楽だと話していた。真剣に相手に向き合わなくて済むからと。だが、相手はそんなことお構いなしにより櫂に近づこうとする。そして大やけどを負って去っていくが、また新しい女が近づいてくる。その繰り返しだ』  その話を聞いたとき、イカロスの翼の話を思い出した。鳥の羽を蝋で塗り固め、できあがった羽で大空を駆けたはいいが、太陽に近づきすぎたためそれが溶けてしまった。そしてイカロスは、海に真っ逆さまに落ちてしまい非業の死を遂げる。  初めて御堂と高見に会ったとき、彼らの容姿を見て思った。御堂は太陽、高見は大地のようだと。それが図らずも当たっていたことに私自身驚いた。  高見と抱き合うことで、随分癒やされた。他人には不適切な関係に見えるかもしれないけれど、彼はいつも必要以上に関わらず一定の距離を置いてくれたから、安心して体を預けられた。そしてずっと抱えたままだった孤独と罪悪感を、一時的に忘れさせてくれたばかりでなく、少しずつ埋めてくれていた。本人はそのつもりはないだろうけれど。  御堂に惹かれているのは隠しようがないし、その事実から目をそらせなくなっている。だけど、彼と向き合うことは、即ち不倫していた過去と向き合うことになる。不倫が終わった日から、私は男の言葉が信じられなくなった。皆セックスがしたいがために、好きだとか愛しているという言葉で相手の気を引くのだと思うようになったのだ。  でも、その言葉はそんなことで使って良い言葉じゃない。そんなことで使ってほしくない。その言葉は心から思う相手に告げるべきものだし、とても重い言葉なのだから。  昨日の出来事で、御堂とならその価値観を共有できるかもしれないとは思う。だけど、かつて負った痛手は、過去から一歩踏み出すことをためらわせた。そして、高見から御堂の話を聞いたあと、それを乗り越えられるか否か、私は随分な時間悩んだのだ。そして出した答えは、御堂と向き合うことだった。  私がそんな決心をした一方で、御堂はどんな思いで夜を過ごしたのだろう。彼にとってあの言葉は軽々しく口になどできない言葉なのに、それを告げた相手が逃げ出してしまったのだ。きっとひどく傷ついたに違いない。何も知らなかったとはいえ、申し訳ない気持ちにさせられた。  眠る御堂の横顔を見ているうちに、大分時間が経っていたようで、突然電子音が鳴り響いた。するともぞもぞと御堂が身じろぎし始め、やがてけだるげに寝返りを打つ。そして目を覚ました。 「水琴……」  起き抜けの声は掠れていた。わずかにひげが伸びている頬に手を添える。そして彼の目をまっすぐ見つめたあと、私は――。 「話したいことがあるので、仕事が終わったら二人きりになれる場所へ行きませんか?」  そう告げると、御堂は驚いたのか目を大きくさせたのだった。
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