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第九夜(3)

 オフィスを飛び出して向かったのは、自分の家だった。  退職を機に引っ越したマンションの部屋に入ると、室内は薄暗かった。出かけるときカーテンを閉めたせいなのだが、その暗さにほっとした。  久しぶりに感情を吐き出したせいもあるだろうけれど、ずっと目をそらし続けてきた過去と向かい合ったせいで疲労感が半端ない。それにあのとき切り裂かれた場所がずくずくと疼き出し、痛みが全身へと広がっていった。  私はこんなにも弱い人間だったかと、こんなとき思い知らされる。幾ら時間が経っても、ふとしたときにあの日のことを思い出し胸の奥が痛み出すし、深い後悔に苛まれ深い闇に吸い込まれていく。  不倫して相手の妻に責められたと言えば、それは当たり前だと誰だって言うだろうし、私だってそう思う。でも、恋する気持ちは止められなかったし、求められたら抗えなかった。でも不倫したことに変わりはない。その事実から目を背け続けていた五年間は、過去として残るのだ。  そしてあの言葉を聞いたとき感じた衝撃は、言葉にできないほど大きかった。あのとき、はっきり分かった。彼は私を求めているわけじゃなく、男に戻れる場所を求めていただけだったのだと。だから最後の最後にあんな言葉が出たのだ。  あの言葉は、それまで私に言い続けてきた愛の言葉を、みな偽りのものにした。それ以来私は好意を寄せてくれる異性からの言葉が怖くなり、全てはね付けてきた。だが、御堂から告げられたとき、心のガードが緩んでしまったのだろう。その言葉は不倫していた過去とともに、私の心をがんじがらめにした。  過去は消せない。むしろ自分に跳ね返ってくるのだ、こんな形となって。  好きな人からの言葉を、そのまま素直に受け止められなくなってしまう。  これが不倫の代償なのだ。私はもう誰も愛せないし、誰かを愛することが怖くなった。  愛しているからと、彼との関係以上のものを何も求めていないはずだったのに、実際私は相手に求めていた。彼から掛けられる偽りの愛の言葉は、不倫をしている事実から目を背けるために必要だったから、それを暗に求めてしまっていたのだ。それが分かったあの日から、私は自分が浅ましい女のように思えて仕方がない。あの日の記憶が頭の中でぐるぐると渦を巻く。それに吸い込まれるように、私はベッドに倒れ込んでいた。  ワンルームの部屋の隅に置かれているベッドに体を横たえさせているうちに、どうやらそのまま寝てしまっていたらしい。スマホの電子アラーム音で起きたときには、すっかり暗闇になっていた。 『いつものホテルにいるから来てほしい』  届いたメールを確かめてみると、高見からだった。スマホに表示されている時間を見ると、もう二十二時になっている。今日は確か娘の参観日だったはずだ。その後懇親会、親子三人で夕食と予定が入っているはずなのに、どうして高見はこんなメールを送ってきたのだろう。  そのとき、高見がなぜ恋愛感情を伴わない関係を私と続けているのか、その理由が分かったような気がした。それに気づいたあとの行動は早かった。急いで身支度を調えて、部屋を飛び出していた。先ほどまで過去にとらわれていたことなど、すっかり忘れて。  いつものホテルの部屋に入るなり、腕を掴まれ抱きしめられた。そしてキスされる。いつも強引に舌を差し込まれるが、それよりもっと強引で。無理やり唇をこじ開けられた上に、ワンピースの裾をめくり上げられストッキングを下ろされる。そしてショーツの端から手を差し込まれ、まだわずかに湿り気を帯びているだけの場所に触れられた。何かを探るようにほっそりした指が這い回る。 「ん……っ!」  いつもなら焦らすだけ焦らすくせに、今日に限ってそこを狙い撃ちされた。鋭い快感とともに痛みが走る。容赦なくそこを弄られているうちに、どんどん痛みが快感にすり替わり、暴力的なほど強烈な快感になっていった。快感はやがて熱に変わっていく。キスをされたままだから、思うように声が出ない。だからその熱は体の中に溜まる一方で、息苦しくなってくる。押しつけられるたくましい体を撥ねのけようとするけれど、快感は体の力を奪っていく物らしく、やがて抗う気力とともに消えうせた。そのままなだれ込むようにベッドに押し倒される。そして体からすっかり力が抜けたからか、高見がゆっくりと体を起こした。  そのとき私は見てしまった。いつもなら、肉食の獣のような目をしているはずの彼の目が、どこまでも悲しげなものになっていた。それを見た瞬間、確信した。彼もまた私のように、虚しさや寂しさを埋めてくれる存在が欲しかったのだと。それが分かったとき体に溜まっていた熱がすっと消えていく。そして気づけば体を起こし、彼の頬に手を添えていた。 「やめましょ、こんなこと」  陰りを帯びた高見の目を見つめながら諭すように告げると、高見は一瞬目を大きくさせたが、すぐに苦笑した。そしてベッドの端に面倒くさげに腰を下ろしたあと、彼は深いため息を吐き出してうなだれる。 「そうだな。そろそろやめないと、こんなこと」  肩を落とした男の隣に近づいて、大きな背中を撫でる。すると高見は大きく息を吸ったあと、胸に溜まったものを吐き出すように話し始めた。 「別れた妻から再婚すると言われた。娘と会うのも今夜を最後にしてほしいと」 「そう、だったの……」 「ああ。その話を切り出されて、もう二度と元に戻れないことを思い知らされた。幾ら努力しても、決して取り戻せないのだと」  そう言ったあと、高見はベッドに寝転がった。天井を見つめているであろう目は、それよりもっと遠い場所を見つめているような気がする。その姿がどこかもの悲しくて、見ているのが辛かった。そして気づけば、彼に寄り添うように体を横たえさせていた。高見の大きな手が私の頭を優しく撫でる。 「別れた妻とは大学時代に結婚したんだ。大学を卒業したあと、俺は証券会社で、妻はデザイン会社で働いていた。そして娘を授かって。忙しかったけれど、家に帰ればいつでも妻と娘がいると思っていたから、頑張れた。だが、それが当たり前のことのように思い始めていたんだろうし、態度にも出ていたんだろう。別れる一年前から口論が絶えなくてね。それでもっと妻や娘と接する機会を増やそうと、仕事を辞めて櫂のところに行こうとしたんだ。ずっと来いと誘われていたからな。しかし遅すぎたんだ、行動するのが。会社を辞めて櫂のところにいくことを話そうとしたら、妻から離婚を切り出されたよ」 「話し合わなかったの?」 「何を?」 「何をって……。これからのことをよ。これからは、もっと努力できるって奥さんに話した?」  高見の腕枕で寝転がりながら尋ねると、彼は黙り込んだ。 「それができていたら離婚しないよ」 「なぜしなかったの?」  思わず体を起こして問うと、彼は自嘲気味に笑っていた。 「今までなんの努力もしてこなかった夫が、ある日突然態度を改めますと言っても、それに見合う実績がないと信じてくれないものだと思うがね」  手で目を覆っていた高見が、わずかに空いた指の隙間から私を見た。高見の言うことも理解はできる。でも高見が話した言葉は、私には言い訳にしか聞こえなかった。 「その自覚があるなら、死に物狂いですがりなさいよ。本当に失いたくなかったら、そこまでやるものでしょうが」 「そのときの俺はできなかった。そして、今夜こそもう一度やり直そうと言おうとしたが、ずっと言えなかった。そうしているうちに、彼女は再婚を決めた」 「……なぜ、ずっと言えなかったの?」  こちらの問いかけに事実だけを述べた高見に尋ねると、またも彼は黙り込んだ。重苦しい空気があたりに漂いだし、息苦しさを感じ始めた頃、彼が頼りなげな声でつぶやいた。 「彼女の心がもう自分にないと分かったからだ。娘のことがあるから、一緒にいるだけなのがね。それを認めるのが怖かったんだ。でも、それが明らかになったから、ようやく諦めがついた」 「諦め?」 「ずっと彼女のことだけを愛してた。いや、今でも愛してる。でも、もうそれを過去にしないといけない。時間は掛かると思うが、彼女が幸せに暮らせること、娘がつつがなく成長することを祈りながらね」  天井を見つめながら話す高見の姿を見ていると、彼が見つめているものは天井ではなく、彼の元妻や娘が幸せそうに暮らしている遠くない未来ではないかと思った。それを彼はこれから傍観者として見続けなければならない。それが余りにも悲しくて寂しくて、気づけば涙を流していた。
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