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第九夜(2)

 高見がオフィスから出て行ったあと、私と御堂はそれぞれ仕事を再開させた。キーを叩く音と紙にペンを走らせる音だけがする室内はいつも通りの光景だった。しかし突然御堂が話しかけてきたことにより、その時間は終わりを告げる。 「知ってたのか」  急に尋ねられ、向かいにいる御堂を見ると、彼は私のことなど見ることもなく何かを紙に書いていた。 「知ってたって、何のことです?」  何についてのことなのか思い当たる節があるけれど、あえて聞き返す。すると御堂が顔を上げ、私を見た。 「高見のことだよ。娘がいること知ってたのか?」 「いえ、今朝知りました。出勤したら、高見さんが元奥様と電話で話していましたので、そのときに」  事実を述べると、御堂が苦笑する。 「元奥様、ねえ……。で、お前、それを聞いてなんとも思わないのか?」 「……おっしゃられている言葉の意味が分かりません」  御堂が何を言いたいのか、想像はつく。だが、それは多分違っている。高見と私の関係がどんなものか、御堂から尋ねられたら正直に答えればいい。恋愛感情が存在しない体の関係だけだということを。そう思いながら御堂から向けられた目を見ると、胸の奥がずくずく疼くように痛み出した。 「お前、高見と付き合っているんじゃないのか?」  やはり勘違いしているようだ。まあ、高見の行動を見れば、誰だってそう思うかも知れないけれど。高見は御堂と私が一緒にいると、必ず私の体を引き寄せる。まるで自分のものだと言わんばかりに。だから御堂にそう思われていても仕方のないことだとは思う。しかし事実は違う。 「付き合うっていうことは、互いに恋愛感情を抱いている人間の間にしか存在しない関係です。そういう意味では、私と高見さんは付き合ってませんよ」  すると御堂が怪訝そうな顔をした。 「どういう意味だ? お前らセックスしてるんだろ?」 「御堂さんだって、恋愛感情がそこになくてもセックスしてるでしょう?」  自らのことを棚に上げたような言葉を、御堂が言い放つ。すぐさま聞き返すと、御堂は悔しそうに顔を歪めた。一体何が悔しいというのだろう。しっとりとした艶を放つ黒髪を苛立たしげに掻き毟りながら、向かいの席に座る男は黙り込んだ。  ただ抱きたいがためにゲームのような駆け引きをして、女を口説くような男に言われたくない。口説いた相手が、自分の存在を誇示するかのように持ち込んだ観葉植物を迷惑がるような男には。それが自然と表情に出てしまっていたのだろう。気づけば御堂をにらみ付けていた。目の前で不満げな表情を浮かべる男が、何か言いたいことでもあるのか私をじっと見つめている。そのまなざしが妙に癪に障る。 「なぜか、分かります? 持ってくるなと言われても、これらを持ってくる女性の気持ち」  御堂に問いかけながら、私たちの机の間に並んだ観葉植物に目を向けた。 「そんなもの分かるわけねえだろが。俺はあいつじゃないからな」 「自分という存在を忘れて欲しくないからですよ。あなたはそんな気がなくても、相手の方は多少なりともあなたのことが好きだから、自分の存在を誇示したくて持ってきてるんです。それを……」  知らず知らずとはいえ、まるで当てこすりのような言葉を口走っていた。ここまで言うつもりはなかったのに、胸の内側から勝手に溢れてくる感情を抑えきれなかった。 「男性は大変ですね。セックスしたいがために、好きとか愛してると心にもないことを言わないとならないんだから」  胸に渦巻く感情を吐き出すようにそう言うと、御堂の目つきが変わった。まるで矢のように鋭いまなざしを向けられて、いたたまれずに顔を逸らし席から立ち上がった。そのままオフィスから逃げるように去ろうとして、扉のノブに手を掛けたときだった。バンと大きな音がしてそちらを見上げると、扉を押さえ付けられていた。背後に御堂の気配がする。 「セックスしたいがために、好きとか愛してると心にもないことを言ってるだって? 誰がそんな言葉言うかよ。その言葉はそんな軽いもんじゃない」  背後から聞こえてきた声には、怒気が含まれているような気がした。それだけ低く迫力がある声だった。冷水を頭から被ったように、全身が一気に冷たくなる。するとその次の瞬間、御堂に背後から抱きしめられていた。 「水琴、好きだ」  その言葉を耳にしたとき、まるで過去の影のようなものが、足下から絡みついてきた気がした。好きだ、愛してる、その言葉は私にとって重い鎖のようなものだ。それがするする伸びてきて、過去の影とともに私の心に巻き付いていく。 「い、や……」  好きな人から嬉しい言葉を聞かされているはずなのに、心がギシギシときしみ始める。 「やめて……」  あのとき、目の前で私を切り捨てた男の声が聞こえてきた。 『水琴、愛してる』  その言葉に何度も絆され、体を許していた。不倫という事実を見ないようにして。でも、その先にあったものは裏切られたという事実だけ。心を切り裂かれた私のことなど気にすることもなく、彼は妻のもとへと戻っていった。そのときのことが昨日の出来事のように蘇ってくる。そして、周りの風景があっという間に暗くなってきた。私は真っ暗闇の中、体を動かすこともままならない状況に陥っている。体を抱きしめているのが御堂だと頭では分かっていても、過去に捉えられてしまったような気がしてたまらなかった。 「やめて! 離して!」  声を振り絞り、ありったけの力で体を抱きしめる腕を振りほどいた。思わず振り返ったとき見えたもの、それは御堂の驚いた顔。それを目にした直後、私はその場を逃げ出した。
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