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第九夜(1)

 オフィスが入っているビルへ向かう途中に大きな神社がある。そこを通りがかると、境内では|茅の輪(ちのわ)を組み立てていた。六月の末日に行われる神事・夏越しの|大祓(おおはらい)が近づいているのだろう。  人の形を模した白い紙で体を拭い、穢れを祓う。そして神前に設けた|茅(かや)や|藁(わら)を束ねた|茅の輪(ちのわ)を三回くぐり抜け無病息災を祈るのだ。もうそんな時期かと思いつつ、夏の気配を感じさせる風が吹く中オフィスが入っているビルへと向かう。  ようやくビルに着いて中に入ると、ひんやりとした風がブラウス越しに触れた。それまで肌を湿らせていた汗がすっと引いていく。広いエントランスは、私と同じようにオフィスへ向かう人間達で溢れかえっていた。ビジネススーツを着込んだ人間達の群れに交じってオフィスに向かうと、部屋の扉の向こうから男の話し声がする。 (この声は、高見?)  私より早くオフィスに来ているのは、ほぼ御堂だ。と言っても彼の場合は、オフィスに寝泊まりしているからなのだが。高見はいつも九時間際にやって来て、そのまま朝の打ち合わせに入り一日がスタートする。それなのに、なぜこんなに早く来ているのだろう。  腕時計を見ると、まだ八時三十分だった。昨日の夜は会っていないから、彼の行動の理由が分からない。そんなことを思案しているうちに、手が勝手に動いていた。ドアノブを掴んで、そっと扉を押し開く。するとそれまで聞き取りにくかったものが、はっきり聞こえてきた。 「ああ、分かった。午後一時にそこに行く」  やはり高見だ。予定を決めているようだが、仕事の予定ではないようだった。まるで親しい人間に話しているかのようなものだったから。 「それが終わったら、学級懇談会か。分かった。それも出る。いや、気にするな。こういうときくらい頼れ。お前と別れたからといって、サヤの父親でなくなるわけじゃないし、俺は父親としての義務を果たしたい」  その言葉を聞いたとき、驚きすぎて何も考えられなくなった。高見が過去に結婚していて、しかも子供までいたとは知らなかったからだ。だが、ただ抱き合うだけの二人には関わり合いのないことだ。 「リンコ、もし良かったら三人で食事をしないか?」  するとしばらく間が空いた。 「ありがとう。サヤの誕生日も近いから、何か贈りたいんだが、何を欲しがっているか教えてほしい。必ず用意するから」  よかった。どうやら親子三人の食事会が決まったらしい。つい自分のことのように喜んでしまう。ただ抱き合うだけの二人の過去など必要ない。だけど度々体を繋いでいるうちに、情のようなものは生まれていたから。しかし、それは恋愛感情ではないけれど。 「じゃあ、終わったら連絡する」  その言葉が耳に入った次の瞬間、思いがけないことが起きた。扉の陰に隠れて話を聞いていたのだが、その扉がいきなり開いた。それに驚いてしまい、体を竦ませる。扉を開いたまま高見が苦笑する。 「水琴だったのか……」 「お、おはようございます。来たら話し声がしたので、つい……」  高見はドアを開いて、立ったままだった私に中に入るよう促した。 「いや、そろそろ来る頃だろうと思ってたから、気にしなくていい。それに聞かれても、差し支えない話だ」 「でも、プライベートな内容よ?」  そう聞き返すと、高見は何も答えないまま薄い笑みを向けてきた。その表情を目にしたとき、理由もないのに胸の奥がいたんだものだった。  その後御堂がやって来て、いつも通りの一日が始まった。ただ、この日は二人ともオフィスから離れることがなく、三人で他愛ない世間話をしながら各々の仕事をしていた。  向かい合わせに座っている御堂と高見が、新しいサイトについて意見を出し合う。その姿がとてもまぶしく見えて、彼らとともに仕事をしている自分自身が誇らしかった。  だけど高見に目を向けたとき、今朝聞いてしまった話を思い出した。そしてその後の表情も。なぜ彼は問いかけに答えずに、あんな表情をしたのだろう。それが気になった。するとそのとき何かに気づいたのか、高見が席を立ち上がる。そして身支度を調えだした。 「じゃあ、俺は帰るから。何かあったらメールをくれ」  ああ、そうか午後からは……。帰り支度を終えた高見がそこから去ろうとしたとき、御堂が声を掛けた。 「高見、これ」  そう言って御堂はなにかを高見に放り投げた。それをキャッチした高見が、苦笑する。 「ごまベア、サヤが好きなやつだ」  高見を見ると灰色の熊のぬいぐるみを持っていた。赤い帽子と洋服を着た熊が、ピンクのハートのクッションをぎゅっと抱きしめている。あれは確か……。 「だろだろ。この前店に行ったときノベルティでもらったんだ。確かサヤが好きなやつだから」 「娘を呼び捨てにするな、女たらしめ」  ごまベアは、ごまのクリームが一杯詰まったシュークリームの店のオリジナルキャラクターだ。そのぬいぐるみは、顧客でさえもなかなか入手できないものとして知られている。それを高見に渡したあと、御堂が得意げになって話すと、渡された男が釘を刺すように言い放つ。その光景は彼らに初めて会ったときと同じだった。 「サヤ、大きくなっただろうな」 「だから呼び捨てにするなっていってるだろ。じゃあ俺は出る。あと御堂」  高見の呼びかけに御堂が短い返事をした。 「これ、ありがとな。サヤに御堂のおじちゃんからだって伝えとく」  高見はもらったばかりのぬいぐるみを掲げて、御堂に笑顔を向けた。御堂はちょっと嬉しそうな顔で部屋から出て行く高見を見送っている。彼らの姿を見ているうちに、私は知らず知らずのうちに笑顔になっていた。
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