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第七夜(1)

 あの感触を思い出すと、何も考えられなくなる。  それを押しつけられたとき、柔らかなマシュマロのようだと思った。とてもふっくらとしたそれは、心地よさをもたらし、いつまでもこうしていたいと思わせた。だが、甘美な時間はすぐに終わりを告げる。部屋の外から聞こえた足音が、オフィスのドアのあたりでピタリと止まったから。  それに気がつき、慌てて御堂の体から離れたと同時にドアが開いた音がした。すぐに振り返ると、着替えを済ませた高見が部屋に入ってきて、いつも通りの毎日が始まった。 「水琴、どうした?」  御堂の声が耳に入り、現実に引き戻された。声がした方へ目を向けると、御堂が窺うような目つきを向けている。どうやらキーをたたいていた指が止まっていたらしい。多分それに気づいたから、声を掛けてきたのだろう。向かいの席にいる、彼に笑みを浮かべて見せた。 「すみません、ちょっとぼんやりしてたみたいです」 「疲れてるんなら休めばいい。べつに急ぎの仕事じゃないんだし」  ぼんやりしていた理由を作った張本人が、しれっとした顔をする。あのとき彼はぐっすり寝ていたはずだし、キスしたことなど覚えていないだろう。そちらの方が気が楽だ、無駄に意識せずに済む。そう思いながら、ラップトップの横に山積みになっている書類に目を向けた。 「でも、この書類の山をどうにかしないと……」  御堂を見ると、ばつが悪そうな顔をした。その表情の理由は、目の前に積まれた書類にある。これらはみな、すべて御堂が作ったものだった。その大半は書類というよりメモに近い。彼はいいアイデアが浮かんだら、取るものも取りあえずとにかくメモに書き残す。だからこの書類の山には、彼のアイデアがたくさん詰まっている。  しかしそこに書かれている文字は、お世辞にも読める物ではなかった。殴り書きと言っても過言でないほど読みづらい。それをひとつひとつ確かめながら、テキストに落とし込むのが私の仕事だ。私が来るまでは、高見が時間を見てやっていたらしい。だが、彼も忙しくなってきたから、アシスタントを雇い入れることにしたのだろう。日々高さを増していく書類の山を眺めていると、向かい側からせき払いが聞こえてきた。 「悪いな、とは思ってる」 「せめてテキストにしてくれたらいいんですけどね。読めますし」 「それって、つまり、俺の字が読みにくいって言ってないか?」 「ようやく判読できるようになったので、以前ほど苦労はしてませんけどね」  あえて否定はしない。だって本当のことだから。御堂は、見え透いた世辞が嫌いだ。高見もだが。だが、本当のことを言えば、御堂は子供のように拗ねてしまう。高見は、軽く受け流すけれど。  一見すれば、高見の方がメンタルが強そうに見えるけれど、そうではない。心に幾重にも薄い膜を貼り付け、傷つかぬようにしているだけ。意外にも御堂のような男が、心が強かったりする。だからこれくらい言っても平気なはずだ。だが予想に反して、御堂はふてくされた顔をした。 「悪かったな、字が汚くて」 「自覚があるのでしたら、いまのうちにお習字習いませんか?」 「断る! 俺、ジッとしてるの苦手なんだよ!」 「じゃあ、タブレットのメモアプリに書けばいいじゃないですか。それなら書いたものをクラウドにいれたら、あらふしぎ。すぐに高見さんの意見も聞ける」  にっこりほほ笑んで言い返したら、突然御堂の表情が曇りだした。何か、まずいことでも言っただろうか。御堂に告げた言葉をふり返っていると、急に彼が席から立ち上がった。そして部屋から出て行こうとする。 「み、御堂さん?」  呼び止めたら、御堂はチラリと振り返った。 「悪い。用事を思い出したからちょっと出てくる。多分戻らないから、時間になったら、いつも通りに帰っていいからな」 「あ、はい……」 「ああ、もしかしたら、高見が戻ってくるかもしれないな。最近、お前が帰る時間までには戻ってくるから」  御堂の言う通りだった。近頃私が帰る時間までに、高見はオフィスに戻ってくる。そして、そのまま連れ出されてしまうのだ。まるで御堂を意識しているとしか思えない高見の行動に、嫌な予感しかしなかった。 「じゃあな」  高見のことを考えているうちに、御堂は別れの言葉を告げて背を向けていた。向けられた大きな背中を目にしたとき、体が勝手に動き出す。無意識のうちに声を掛けようとしたそのとき、御堂が向かった先のドアがいきなり開いた。
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