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第72話

 見えない矢を(つま)んでいた指を、開く。音も無く形の無い矢はまっすぐに、月に吸い込まれていく。  ああ、あ――。  仰け反り、身悶えそうになるほどに気持ちがいい。唇から、ほろりと熱い息が漏れる。体の芯が疼いて、矢が的に到着するのを待ちわびている。  ぱぁ……ん――――。  見えない矢が、月に当って粉々に砕けた。  月のしずくが、舞い落ちてくる。  ゆっくりと手をおろし、細く長い息を吐き出す。ひとつになっていた近貞と私はふたりに戻り、遠ざかっていた周囲の視線やざわめきが戻ってくる。顔を見合わせ、呆けたような笑みを浮かべあい、それと意識せずに互いの顔を近寄せて唇を重ねた。  わっと歓声が上がる。  太鼓を打ち鳴らす音が聞こえる。  萩が、懸命に何かを叫んでいる。  それらすべてがどうでもよく、近貞と共に立っていられる事を、触れあっていられる事だけを、受け止めていた。 「かぐや殿」  見つめ合い、体を向き合わせる。 「月のかけら、たしかに受け取りました」  微笑む近貞の瞳に、幸せそうな私が映っている。寄り添い、彼の肩に頭を預けると抱きしめられた。  歓声の渦の中、私と近貞の心は再び重なりあう。  これで、ずっと近貞と共にいられる。  誰にはばかることも無く、堂々と傍にいることが出来る。だって、これほどの聴衆が見届け人となっているのだもの。異を唱える事なんて、出来るはずは無い。 「近貞」  歓声の中でも、はっきりと聞こえる声に顔を上げる。抱きしめてくる近貞の腕が、緊張をした。 「兄上」  私を渡すまいと、少し痛みを感じるほどに力が込められる。これだけの聴衆がいる中であるというのに、近盛様が何かを仕掛けてくると思っているよう。  笑みを浮かべた近盛様は、私に顔を近づけてきた。近貞の体がこわばる。 「我が弟が、恋しく思っていた相手がよもや、曽我の朔姫だったとは思いもよらなかった」  顔を離して近貞と私を見比べるように首を動かし、喉の奥で笑う近盛様は、いたずらを仕掛ける悪童のように見えた。
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