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第68話

 胸に抱きしめ瞳を閉じて、初めて出会った日の事を思い出す。  『俺は、近貞と言う。そなたの名を、教えてくれ』  『私が誰でも、かまわないのではないのです?』  『それも、そうだな』  『あの、近貞様――?』  『近貞でいい』  『では、近貞。何を思って私を宴の席より、ここまで運んだのですか』  『話を、しようと思ってな』  『話って、何の?』  『先ほど、月を射抜いておったろう』  『あまりにも、見事な月でしたので』  『俺も、射抜いた』  私が誰かも知らず、ただ弓の話をしたいがために宴席から(さら)った人。あの時の近貞は、自分と同じように月を射た者がいたことを、ただただ子どものように喜んでいた。何の含みも無い笑み。たくましい腕に抱きしめられ、胸が高鳴った。  愛らしいウサギのような丸い目で私を見つめた近貞は、陽だまりのような香りがした。  くすり、と胸の奥がくすぐられて笑みがこぼれる。  新月の名を持つ姫をウサギのような瞳をした公達が浚ったなんて、御伽話らしくて素敵じゃない。なよ竹のかぐや姫は月に帰ってしまったけれど、新月のかぐや姫はウサギの傍で暮らし続ける。 「きっと、大丈夫」  近貞は気付いてくれる。あの日の事を思い出して、必ず月のかけらを私にくれる。 「大丈夫」  文を抱きしめ、月を見上げる。  見上げた月には、ほんの少しだけ、餅をつくウサギの姿が見えていた。 ◇◆◇  観月の宴の夜。  別邸の周りには、誰が何を届けるのかを、私が何を受け取るのかを見届けようとする人々と、私の望むもの――月のしずくだと思ったものを手にした公達が集まって、かがり火の多さに昼間のように明るかった。月を愛でるどころじゃない騒ぎと明るさに包まれた別邸を、素知らぬ顔で満月が見つめている。
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