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第62話

 古ぼけた橋にさしかかると、大きな湖の中に建つ東屋が見えた。そこに、人影がある。 「――ッ!」  名を叫んで、私は走り出した。人影は、私に気付かない。懸命に走っているのに東屋までの距離は縮まらず、着物がどんどん重くなって走れなくなっていく。 「――ッ!」  名を呼んでも、東屋の方は私に気付かない。それでも必死に走っていると、ぐんと背中から大きな力に包まれて引きずられた。 「ッ――」  歯を食いしばり、手足をどれほど動かしても、私は背後に引き寄せられていく。橋の上にあった足は浮き、ぐんぐんと空に連れて行かれる。  いや――ッ!  叫びは声にならず、振り向けば月が恐ろしいほどに私に迫っていて。  はっと目を開けば、天井が見えた。 「夢」  つぶやいて、確認をする。動悸が早くて、息苦しい。深く息を吸いこみ、吐き出して心を落ち着け体を起す。周囲はまだ暁闇(ぎょうあん)に包まれていて、虫の声すら聞こえない。  どうして、あんな夢を見てしまったのだろう。月に無理やり引き寄せられるなんて、ちょっと強引な竹取物語みたい。  起き上がり、掻取(かいとり)を羽織って庭の見える場所に出る。夢に見た池と橋、東屋は暁闇の中に沈んでしまっている。それをじっと見つめていると、闇の中から久嗣がにじみ出てきて近貞からの文を渡してくれるのではないかと思えて、周囲を見回した。その時ふと、二つの久嗣の言葉が脳裏によみがえった。  ――新月の姫君も、かぐや姫のように珍しかな物を求めて来い、と自分に焦がれる男に言うのかな。  ――俺様は、近貞様の陰なんだよ。  久嗣は近貞も気付かぬ心情に、先に気付くこともあると言っていた。ということは、あの夜の事は……私の肌に触れて接吻の真似事をしたのは、私という人間が、どういうものなのか探っていたということになるんじゃないかしら。私が、どう反応するのかを確認したということに、なるんじゃないかしら。去り際の言葉は、古くからの公家の名家である私が、近貞が武家だと知って軽んじ、無理難題をつきつけるのではないかと危ぶんだものだったとしたら?  そうだ――。
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