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真実がどうであれ

「あー、美味かった。満足満足」  そう言いながら彼は、満足げに腹を撫でながらリビングへとやって来た。その姿を見たとき、今更ながらリビングへ立ち入るなと言っていなかったことを悔やんだ。なぜなら結婚していたときのように、ソファに腰かけたと思ったら、ごろんと寝転がったからだ。その姿は結婚していたときと同じだった。それを言い咎めようとしたら、体を横たえた彼から柔らかな笑みを向けられる。 「食い終わった食器は片付けておいた」 「あ、ありがと……」  出鼻をくじかれてしまったせいで、咎めの言葉が出なかった。のんきにテレビを見始めた彼は、約束通りコート姿のままだった。その姿が妙に気になるところだが、何せ言い出したのは私だ。長居させないために。  だが、そろそろ釘を刺さなければなるまい。だって結婚していたときと同じように、寝てしまうかもしれないからだ。彼は夕食を食べ終えたあと、テレビを見るためリビングに移動して、私が淹れたお茶を飲む。それからソファに横たわり、いつの間にか寝入っていた。結婚したときは眠る彼の横顔を眺めながら、幸せを噛みしめていたけれど、今とそのときとは事情が違う。 「寝ないでくれる? そうしていると、いつの間にか寝てるんだから」  わざと不機嫌そうに言ってみるが、彼は全く動じなかった。 「三時間だけ寝かせてくれよ。起きたら帰るから」 「嫌よ。夕食だけって言ったわよね?」  すると彼がソファに肘をつき、私に目を向ける。 「俺的には夕食と夕食後のごろ寝はセットなの。あとは、お前のお茶さえ入れば完璧」  そう言って、彼は再びテレビを見始めた。元夫婦というだけで、ここまで甘える彼にふてぶてしさを感じてしまうけれど、その反面嬉しかった。裏切られたことは確かに許せなかった。だけど嫌いになれなかった。そして今も、まだ彼は私の心の中にいる。悔しいけれど、認めたくなかったけれど、そうなのだからどうしようもない。  でも、できるならば今すぐにでも、ここから出て行ってほしい。彼と関わる時間が多ければ多いほど、そのあとが辛いから。だから私はあえて不機嫌を演じたまま、今にもあふれ出してしまいそうな感情を、ぐっと心の奥へと押し込んだ。 「お茶、淹れてあげるから、飲んだら帰って頂戴」  そう言った後ソファに横たわる彼を見ないようにして、私はそこから離れたのだった。  熱いお茶をテーブルに置いたときには、予想通り彼は目を閉じていた。よほど疲れていたのだろう、全く起きる気配がない。眠る彼の側にしゃがみ込み、寝顔を眺めてみると、離れていた五年のあいだにできたのか、幾つか年相応のしわができていた。それに気づき、彼を起こさぬよう静かにため息をつく。  彼は一度寝入ってしまったら、よほどのことがあっても起きない人だ。時計を見ると、もう二十二時を過ぎている。最寄りの駅の最終は確か二十三時だ。このままここに泊めるわけにはいかないし、どうにか彼をたたき起こして帰ってもらいたかった。でも、穏やかな寝息を立てながら、眠る彼を起こすのが忍びない。彼を起こすのを諦めて立ち上がりかけたとき、テーブルについた手を急に掴まれた。思わず横顔を見ると、彼は目を閉じたままだった。だが唇が固く引き結ばれている。しっかり掴まれている以上動けなくて、どうしたものかと思っているうちに、彼が掠れた声で話し始めた。私の腕を掴んだままで。 「そういえば忘れてるだろ、交換条件」  そういえばそうだが、本音を言えばもうどうでもいい。真実がどうであれ、私達はもう別れているのだし。 「もうどうでもいいわ。別れたんだし。それより……」  帰ってと言いかけたら、彼が勢いよく飛び起きた。 「俺は嫌なの!」  今まで見たことがないほど必死な表情で見つめられて、思わず息を飲み込んだ。 「俺は浮気なんかしてない。する気もなかったしな」 「どういう、こと?」  彼に尋ねると、みるみるうちに表情が曇っていった。そしてしばらく黙り込み、視線を落とした。ただならぬ雰囲気を感じながら、次の言葉を待っていると、静かに彼が話し出した。 「実はお前には話してなかったことがある。心配させたくなかったし、怖がらせたくなかったから」  向けられた表情とまなざしは、今まで見たことがないほど真摯なものだった。それらがすべて、これから彼が話す内容の深刻さを、暗に示しているような気がした。 「心配って、どういうこと?」 「美咲に電話してきた女性は、クライアントの娘で秘書だ。あの頃、その彼女から一方的に好意を持たれてしまって、付きまとわれていたんだよ」  その当時のことを思い出したのか、彼は苦笑した。 「それで、その女性があんな電話を掛けてきた理由ってなんなの?」  尋ねたあと、彼から聞かされた「真実」は驚くべきものだった。 「お前にプロポーズして結婚が決まったあと、それとなくその話をクライアントにしたんだ。そうすれば諦めてくれると思って。でも逆効果だった。それからは、仕事が手に着かなくなるほど連絡が来始めてね。仕事の用事だからと言われれば断れない。それをいいことに、彼女は個人的に俺を呼び出すようになったんだ」 「何よ、それ……。いい迷惑じゃない。会社の人間は何も言わなかったの?」 「そういった呼び出しがあったとき、上司には報告した。だがそこと大きな取り引きをする予定だったから、それが終わるまで、なんとかしのいでくれと言われたよ」  手で顔を覆いながらため息を吐き出す彼の姿を目にしたとき、胸に鋭い痛みが走った。彼の立場になって考えたら、そんな状態で仕事に打ち込めるわけがない。もしも、ボスがそんな態度を取ったなら、私は断固として訴え続けるだろうけれど、それは積み重ねた信頼関係があるからだ。しかし、彼の場合は違う。数年おきに変わる上司に訴えたところで、会社の利益と自分の評価を合わせたものと秤に掛けられてしまうだけだ。そんな状況にいながらも、彼はそれを私に見せることなく、いつも通りに振る舞っていた。 「あんたも大変だったのね……。ごめん、ずっと気づけなくて」 「いや、あえて隠していたんだ。お前に心配掛けさせたくなくて。でも、お前だってあの頃一人で抱えていただろ?」 「え?」 「子供のことだよ。結婚して二年目をすぎたあたりから、基礎体温付けてたろ。お前が決まった時間に起きて、体温計を銜えたままジッとしてたことくらい分かってた。でも、思い詰めていたなんて知らなかったし、気づけなかった」  夫婦といえど、突き詰めれば赤の他人だ。親子や兄弟ですら、家族の悩み全てを把握できるわけがない。それなのに、数年一緒に暮らしただけの相手が抱えているもの全てを、分かるわけなどないのだ。だから限られた時間の中で交わす会話の中から、それらを拾い上げる努力をし続けることが大切なのかもしれない。それを思い知らされるとは思いもしなかった。しかも別れたあとに。そんなことを考えていると、彼が再び口を開いた。 「そして結婚したあと、指輪を見れば今度こそ止めてくれると思ったが……」  その先の話は聞くに堪えないものだった。結婚したから、指輪を見せれば今度こそ諦めてくれると思ってたら、彼女は私たちをどうにかして別れさせようと画策していたらしい。 「会社を出たあとから誰かに付けられているような気がしたんで、調査の人間に頼み込んで調べてもらった。そうしたら彼女が俺のあとをつけていたんだよ。それが分かったから、両親に事情を話し、一度実家に戻るようにしていたんだ。そして彼女がいなくなった頃を見計らい、こっちに戻ってた」 「家を突き止めたって、何も……」  そう言いかけたとき、あることに気がついて、ぞっとした。彼女の狙いはもしかして……。 「自宅を突き止めたら、そこに誰がいるか分かるだろ? 彼女の狙いはお前だったんだ。俺じゃなく」 「で、でも、私働いてるし。あんたと同じビルの中で……」 「そのことを知られていたら、さすがにいろいろやばかったな。それが分からないから、そういう手段に出たんだろ。そしてお前のことを散々調べ上げ、どう言えばお前が傷つくか、俺と別れるか知った上で電話を掛けてきたんだよ。恐らくな」  彼はそう言ったあと、ソファの背もたれに体を預け、深いため息を吐き出した。その姿を、私はただ眺めていることしかできなかった。そしてしばらく経った頃、それまでずっと握っていた手が離れたと思ったら、ぽんぽんと軽くたたかれた。 「といっても、所詮は今更、だよな。お互いに」  確かめ合うような言葉と重なって、なんとも言えない寂しいに似たような物を感じた。 「お前に浮気や子供のことを聞かれたとき、順を追って説明しようと頑張ったつもりだ。だが俺が思っていた以上に、お前は一人で重いものを抱えてきたから、許せなかったんだと思う。たとえそれが嘘であっても。それを気づけなかった俺の責任だ。それに……」  そう言って彼は再び手を握りしめた。 「正直言って、俺も疲れてた。幾ら会社に訴えても、実績が欲しい上司に跳ね返され続けていたから。でも、お前を守らなきゃならない。それが俺の、夫としての役目だったのに……」  ふだんこそ調子がいいことを言うけれど、時折見せる真面目さが好きだった。彼は本来とても真面目な人で、だからこそどうにもならないことに、やり切れない気持ちを抱え続けていたのだと思う。結局は似たもの夫婦だったということだ。 「私も同じよ。と言っても私の方は、自分のことしか見えていなかったけれどね」  自嘲気味に笑ってみせると、苦笑で返された。そのとき彼の肩越しに時計が見えた。最寄り駅の最終は、既に出てしまっている。 「それで、どうすんの?」 「どうすんの、って?」 「もう終電行っちゃったわよ。話をしているあいだに」  彼が驚いた顔で、腕時計で時間を確かめた。そして悔しそうな顔をする。もう用事は終わったのだし、タクシーを呼んで帰せばいい。それなのに切り出せなかった。 「始発は六時よ。それで帰って。雨もそれまでにあがるでしょうし」  すると彼の表情が驚いたものへと変わった。 「と、泊めてくれるのか?」 「仕方ないでしょ? このまま追い出したら、一生あんたに恨まれる羽目になるもの、そんなのごめんよ」  わざと不機嫌そうに言い放つと、彼は突然私を抱きしめた。 「ちょ、ちょっと! 何してんのよ! 離して!」  言葉こそ冷たくしたが、内心では驚きつつも嬉しかった。柔らかい体温にもう一度包まれていることが。触れているところから彼の体温が伝ってくる。そして懐かしい香りがした。心が、気持ちが、あの頃に引き戻されていく。無意識のうちに、腕を彼の背中に回しそうになったけれど、それに気づいて腕を下ろした。 「こんな時に言うことじゃないかもしれないが、もう一度やり直したい。夫婦として」 「はあ?」 「もしも、まだお前の中に俺の居場所があるのなら、やり直したいんだ。あの頃になんか戻れないのは分かってる。でも―― 「やり直せるわけないじゃない! 真実がどうであれ、私たちは別れたの!」  未だ彼のことを思っていても、それを口にすることはできなかった。もしもそれを口にしてしまったら、二度と一人で立ち上がることができなくなりそうで怖い。でもそんなことなどお構いなしに、彼は抱きしめる腕の力を強くした。どうにか体を捩って逃げだそうとするけれど、男の本気の力に抗えるはずもない。だが、どうしても逃げたかった。 「別れたさ。でも、それがなんだ。別れても、また一緒になればいい」 「勝手なこと言わないで!」  勢いよく言い放つと、彼がいきなり体を離した。そして真剣なまなざしをまっすぐ向けられる。心の奥に潜ませている感情を見抜こうとするかのように。 「今度こそ、言いたいことを言い合える二人になれると俺は思ってる。もし失敗したって、そのたびにやり直せばいいんだから。違うか?」  余りにも思い詰めた表情でそう言われてしまい、今度こそ本当に何も言えなくなった。
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