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俺、もう腹ぺこなんだけど

 仕事を終えて帰り支度をしながら腕時計を見てみると、もう十八時を過ぎていた。まずはスーパーへ立ち寄り食材を買い求めなければならない。ビルの外に出ると、もう雨は止んでいたけれど、もう一雨落ちてきそうな気がした。  職場の近くにあるスーパーは、品ぞろえはいいけれど少々お高い。しかし惣菜が安いものだから、いつもはそこでおかずだけを買って帰っていた。しかし今日はおかずを買うわけではない。煮魚の材料を買うのだ。だから、結婚していた当時利用していたスーパーへ向かうことにした。  そのスーパーは最寄り駅のひとつ前にある。そこで食材を買い求め、一駅分歩いて帰ったものだった。彼の帰りが遅いから、定時に上がって買い物してそれから作れば問題はなかった。しかし、そのときからもう五年が経っている。もしかしたらその間にスーパーがなくなっているかもしれないし、違う店になっている可能性もある。そんな不安を抱きながら地下鉄に乗って向かうと、無事にそのままの名前で残っていた。しかし、お値段はどうだろう。そこそこ質が良く、安いスーパーは貴重だから。  鮮魚コーナーに行ってみると、旬の食材がクーラーの中に陳列されていた。しかし時間が時間だ。種類も数もかなり少なくなっている。赤い魚をチェックしてみると、値が張るキンメダイの切り身がひとつ置かれていた。念のため他に煮魚の材料になりそうなものを探してみたが、残念なことに見当たらない。少し考えたあと、仕方なくキンメダイのパックを手に取った。切り身のそれは丸々としていて、煮付けにしたらおいしそうだった。  どうせ一度きりだ。食べたいものをたらふく食べさせて、部屋から追い出せば、いつも通りの毎日が戻ってくる。そう自分に言い聞かせ、それを買うことにした。そして魚以外にも幾つか食材を見繕い、会計を済ませ外に出てみると、そのうち雨が降ることを予感させるような湿った風が吹いていた。  地下鉄を乗り継いでマンションへたどり着くと、二十時になろうとしていた。それから大急ぎで下ごしらえを済ませ、鍋に入れて煮始める。やがて醤油と出汁が混ざった匂いが漂ってきた。あとはできあがりを待てばいい。  煮魚ができあがるまでの間に、幾つかおかずを作り始めた。やがて煮魚ができあがり、同時に幾つかのおかずができあがった。部屋の壁に掛けていた時計を見上げると、既に二十時半になっている。ここ数年、まともに料理をしていないせいで、どうも段取りが悪くなったような気がする。  一人になってから、料理に関してはかなり手を抜いている。平日はもっぱら惣菜で済ますことが多く、週末に作る料理はかなり簡単なものだらけ。結婚していた当時はそうではなかった。もともと料理は苦手だけれど食べてくれる人がいたから、仕事で疲れて帰ってきても料理を作れたのだ。  付き合い始めた頃、彼が煮魚が好きだと言っていた。だかそれを上手に作ってあげたくて頑張った。最初は下ごしらえに時間がかかったけれど、作る頻度が多くなれば自然と手際がよくなるものらしい。結婚したあとも努力した。彼においしい食事を作ってあげたくて。  あの電話が掛かってくるまで、私は確かに幸せだった。出張が多いけれど、彼は必ず私のところに帰ってきてくれる。そのことになんの疑いも持っていなかったし、そんな毎日が続くと信じていた。でも、幸せなんかいつまでも続くものではない。五年前突然掛かってきた電話は、平穏だった毎日を壊した。そのときのことを思い出し、思わず目を伏せた。正直あの夜のことは、もう思い出したくない。  するとタイミングを見計らったかのように着信があった。彼だ、どうやら最寄りの駅に着いたらしい。すぐに出ると、スピーカーの向こうから、が吹く音とともに、かすかな雨音が聞こえてきた。思わず窓に駆け寄って外を見ると、ぽつぽつと雨が降り出している。彼にマンション名と駅からの道のりを教えると、スピーカーの向こうからため息が聞こえてきた。 「つまり、俺たちが住んでいたマンションにいるんだろ?」 「う、うん……」 「なら、そう言えよ。あと五分ほどで着く。じゃあな」  着信はぷつりと切れた。スマホの画面を眺めながら、ため息をつく。そしてそれからきっかり五分後、来訪をつげるチャイムが部屋に鳴り響いた。 「ただいま」  まるで結婚していたときのように、彼がさりげなく帰宅の挨拶をする。それを聞いた瞬間、勢いよく言い放った。 「ちょっと、たんま!」 「は?」 「いい? ここはあなたの家じゃないの。私の家なの。分かるわよね、この意味」 「じゃあ、どうしろって言うんだよ。俺、もう腹ぺこなんだけど……」  四十五にもなるおっさんが、玄関先で腹に手を当て文句をたれる。その姿を目にしたとき、がっくりとうなだれた。 「じゃあ、お客さん用のスリッパはいて!」 「はいはい」 「あと、コート脱がないで!」 「はいはい、って、おい。嘘だろ。少しくらい寛がせろよ」 「あなたを寛がせる為の部屋は、もうここにはないの!」  そう言い放つと、彼が寂しそうな顔をしたような気がした。だけどそれが現実だ。そう自分に言い聞かせ、彼から目をそらしダイニングへ案内した。すると彼が急に立ち止まる。 「お、いい匂い。この匂いはキンメダイだろ。懐かしいな」  振り返ってみると、彼が嬉しそうな顔をした。どうやら匂いで分かるらしい。 「キンメダイしかなかったのよ。だから仕方なくそれにしてあげたの。早く食べて、そして帰って。疲れているの私」 「はいはい。じゃあ、早速」  彼がゆっくりとした動作で、ダイニングテーブルの椅子に腰かけた。コート姿のまま食事をとる姿を見ると、違和感しか抱けない。だけど、コートを脱ぐことだけは許したくない。食事をとったあと、すぐに帰って欲しかったから。  席に腰かけた彼に背を向けて、コンロから鍋を下ろす。おいしそうにできあがった煮魚を皿に盛り付けようとした、そのとき。 「にーざかな、にーざかな」  子供のように、彼が催促し始めた。振り返ると、にやにやとしながら私を眺めている。 「うるさいわ。何よ、それ」 「早く食べたい、美咲の煮魚」 「分かったわよ。今出すから」  急いで煮魚を皿に盛り付け、彼に差し出した。すると彼が嬉しそうな顔をする。そのときコートに、雨でできたと思われるシミが付いていた。 「もしかして、傘ないの?」  おいしそうに食べ始めた彼に尋ねると、「ん」と短い言葉で返された。 「どこに住んでいるか分からないけれど、帰るとき、傘貸してあげるから」 「ん」 「ん、じゃなく、はいでしょう?」  短い返事ばかり繰り返す彼に苛ついて、ついきつい口調で言い放っていた。すると予想外のことが起きる。 「俺さ、お前をイライラさせるようなことばかりしてただろ、結婚していたとき」 「えっ!?」  彼から告げられた言葉の意味が分からず、改めて彼を見た。だが、彼は何事もなかったかのように平然と食事をし続けている。けれど、表情は沈んでいるように見えた。  電話でもそうだが、彼から告げられる言葉は意外なものが多かった。素っ気ない態度などとったつもりがないのに、そうではなかったと言う。それに今の言葉だってそうだ。確かに目の前でのんきに振る舞う彼に、腹が立ったことはある。しかしそれを見せないようにしていたはずなのに、どうやら気づいていたらしい。  あの頃は誰にも打ち明けられなかった悩みを抱えていた。そんな私の前で、のほほんとしている彼に怒りを覚えたことも一度や二度じゃなかった。でも、悩みを誰にも話さなかった私も悪いのだ。それなのに、一人で抱えた気になって鬱々となっていた。その頃の自分の姿を振り返ったとき、急に不安が襲いかかってきた。もしかしたら、彼は私が一人で抱え続けたものを知っているんじゃないかと。そう思ったとき、急に体がこわばった。 「じ、じゃあとっとと食べちゃって。私リビングでテレビ見てるから、食べ終えたら声かけて」  無表情のまま黙々と食べ続ける彼に、そう告げたあと、私は逃げるようにそこから離れたのだった。 『私、御主人と恋愛してます』  五年前突然掛かってきた電話は、それまでの幸せな日々を粉々に砕いた。その言葉も衝撃的だったが、次の言葉の方が私にとってはショックだった。 『妊娠しているかもしれないんです』  その言葉は、私の心をかき乱した。「努力は必ず実を結ぶ」そう信じて疑わずにいたから、私は努力し続け小さな成功を掴んできた。しかし、たったひとつだけ実を結ばなかったことがある。それは子供ができなかったことだ。  結婚したら子供ができて当たり前という気持ちでいたし、疑いもしなかった。しかし、いつまで経っても子供ができず、次第に焦り始めたのが結婚して二年目のこと。その頃になると、おなかが大きくなっていく妊婦さんの姿を見るのが辛かった。うらやましい気持ちと同時に、妬ましい気持ちになってしまうから。  私はどろどろした感情が苦手で、負の感情が心を覆い尽くそうとするたびに、そんな感情を抱いてしまう自分が嫌になる。だから、なるべくそのような気持ちを抱いてしまうものを避けていたし、そんな自分の姿を誰にも見せたくなかった。  だが、どうしたって避けきれないこともある。でも、どうにか心に折り合いをつけて、やり過ごすようになっていた。でも、実はやり過ごしたつもりでも、心の奥にずっとため込んでいただけなのだ。そしてそれは時間が経てば立つごとに、密度を増してマグマのようになっていく。それに私自身全く気づかなかいまま時間が過ぎた。  五年前に告げられた言葉は、積もりに積もったマグマを勢いよく溢れさせた。そして一気に押し寄せた負の感情は、あっという間に私を押しつぶす。  私以外の女とのあいだに子供を作った彼が許せなかった。  そして裏切られたことも悲しかったし、辛かった。  電話を切ったあと、何もする気になれなかった。いつもなら、彼が帰宅するまでに夕食の準備をしたり、部屋の片付けをしたりと忙しいはずなのに。暗闇の中そうしていると、どんどん不安と焦りが広がっていった。  不安はあっという間に心を覆い尽くしただけでなく、心にしみこみ根を生やす。その根は急速に広がって、気がついたときには心をがん字がらめにしていた。暗くなっていく部屋の中で床に座り込んでいると、仕事を終えた彼がいつもの様子で帰ってきた。部屋のあかりをつけたとき、私の様子がおかしいことに気がついたのだろう。私の側に近づいて、何があったと尋ねられた。  私は掛かってきた電話のことを彼に話した。そこで告げられた言葉を一言一句間違えないようにして。すると彼の表情が急にこわばっただけでなく黙り込んでしまったものだから、その姿を見たとき確信したのだ。私は裏切られたのだと。そこから先は修羅場だった。彼が話すこと全てが信じられなくなってしまい、私は泣きながら手で耳を塞ぎながら、一方的に責め続けた。  彼ははじめの頃こそ、どうにか説得しようとしてか根気強く話していた。でも、私がそんな状態だったから、次第に口数が減っていき、最後には何も話さなくなっていた。そして、吐き出すだけ吐き出した私に、彼は離婚を切り出した。もう疲れたという言葉とともに。  そのときのことを振り返っているうちに、いつの間にか窓辺に立っていた。キッチンへ目を向けると、彼はおいしそうに食事をし続けている。その光景は、結婚していたときと何ひとつ変わっていない。ただ二人の関係が夫婦でなくなっただけだ。それを思うと、胸の奥がしくしく痛む。その痛みから逃げるように窓の外に目を向けると、大粒の雨が降っていた。
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