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ほかほかの作りたてが食べたいの!

 彼と別れて職場に戻ると、スタッフ達はみな忙しそうに仕事をしていた。  私が働いている法律事務所は、そう大きくはない。十人の弁護士と、その倍の数の人間が管理・業務・法務といった部門に分かれ、彼らをサポートしている。職員用の出入り口から、ぐるりとフロアを見渡せば、それぞれのグループには友人たちがいる。彼女達は、各々忙しそうに動き回っていた。  管理は総務、業務は弁護士秘書、法務は書類作成が主な仕事で、アルバイトだった四人は今それぞれの部門のリーダーになっている。十年前、所長が父親から事務所を引き継いだとき、こぞって古参の事務員たちが辞めたらしい。それで新規のスタッフが必要になったのだが、なかなか集まらなかったものだから、困り果てたボスは自分の大学時代の恩師に相談したのだとか。  それでその恩師は、驚くべき行動に出た。なんと大学構内で、スカウトしまくったのだ。大学には法学部もあったけれど、先生はそこ以外の学部からアルバイトを集めていたらしい。そこで私たちは出会った。そして同い年である気楽さもあって、三人の友人たちとは今でも関わり合っている。  九年前、私が結婚するとき、友人達は驚いていた。突然の結婚に驚いていたのは、何も彼女達だけではない。私のボスである所長と、その親友もまた大いに驚きながらも祝福してくれたものだった。その五年後離婚したときも驚いていたけれど、一人になった私に、彼らは手を差し伸べてくれた。きっと彼らがいなかったなら、一人の寂しさに押し潰されてしまっただろう。そのときのことを思い出しながら、自分の席につくと、机の上にはたくさんのメモが残されていた。そのいずれもボスからの指示で、ひとつひとつ確かめていると、スマホがぶるぶると震えだした。  早速手に取り、画面に表示されている名前を見ると、ついさっき再会した彼からの着信だった。雨がガラス窓を打ち付ける音と、そのとき向けられたまなざしが蘇ってくる。そして切り出された言葉もだ。ようやく仕事を再開させようと気持ちを切り替えた矢先のことだっただけに、舌打ちしたい気分だった。  彼の名前を眺めながら、どうしたものか思い悩んでしまう。このまま出ずに仕事をしたいところだが、そうさせてはもらえないだろう。何せ彼は相手が出るまで何度でもしつこく電話をかけ直す男だからだ。それを思い出し、うんざりしながら応答ボタンを押すと、スマホのスピーカーから彼の大きな声が聞こえてきた。 「煮魚が食べたいってのは、セックスしたいって意味じゃないぞ!」  その言葉が耳に入った途端、ぎょっとした。スピーカーを手で押さえ付けながら、慌てて周囲を見渡すと、スタッフたちは我関せず仕事に没頭している。いつもと代わり映えしない景色に、ほっとしたのは言うまでもない。よかった、聞かれていなければそれでいいのだ。  だが怒りが湧いた。電話の第一声にそぐわない言葉を発した彼に対して。大きく息を吸い込んで、まずは動揺した気持ちを落ち着かせた。そして腹に力を込めて、彼に言い放つ。 「一体何なの? あんたバカなの? いきなり、せ、セックスって……」  セックスのところだけ、小声になったことは言うまでもない。 「え? ああ。一応誤解のないように言っておかないとまずいと思って。だって煮魚は俺たちの合図というかサインだったから」  二人だけの秘密を、覚えていてくれたことが、なんか嬉しかった。だけど、だからといっていきなり大声でセックスと言っていいことではない。 「で、何が言いたいの? 忙しいんだけど」 「俺はただ単に美咲の作ったカレイとか赤魚の煮魚が食べたいの! インドからやっと帰ってきた元夫を労えよ、元嫁!」  スピーカーの向こうでふてくされている彼の姿が、容易に想像できる。そういえば、彼は時折子供じみた振る舞いをすることがあった。十も年上の男が、まるでだだっ子のようにわがままをこねるのだ。誰もこんな彼を知らない。自分の前だけでそんなふうに振る舞うことに、喜びを感じたのはもう昔のことだ。そのときと変わらぬ様子でまくし立てた彼に心底呆れてしまい、深いため息が出た。 「浩樹(ひろき)、あなたねえ……」 「せっかく頼んでるのに、おまえって本当に昔から素っ気ないよな」 「ちょっと!!」  聞き捨てならない言葉を耳にして、気が付けばスマートフォンに向かって叫んでいた。離婚するまで、彼が言うような素っ気ない態度など、ただの一度だってとったことなどないはずだ。それなのに、彼にはそう見えていたらしく、それが不満だった。  だが、気づかなかっただけなのかもしれない。した方は気にしなくとも、された方はいつまでも記憶に残るものだと言われているし。もしかしたら知らず知らずのうちに、彼にそんな思いをさせていたのかもしれない。  でも、それが今更なんだというのだろう。私と彼は離婚して別々の道を歩いているのだし、仮にそう思われていたって関係ないことだ。そう思っても、何か引っかかる。喉に魚の小骨が引っかかって、取れないときのもどかしさに似たものを感じた。  だが彼は元妻がそんなことを考えているとは思わずに、落胆を滲ませた声で話し続けている。機械越しとはいえそれが分かってしまうのは、元夫婦だからというわけではないだろう。それだけ分かりやすい声だった。 「あーあ、久しぶりに煮魚食べたかったのに……」 「……用件がそれだけなら電話を切るわよ。じゃあね」  振り切るように電話を切ろうとしたとき、彼がいきなり私の名を呼んだ。 「美咲」  聞き慣れた懐かしい声で名を呼ばれたとき、心臓を握りしめられたような圧迫感と痛みが走った。その痛みは肌のしたにしみこんで、心の奥に閉じ込めた感情を揺さぶった。 「昨日あの場所で見かけたとき、夢じゃないかと思った。と言っても俺にとって都合のいい夢だけどさ」 「どういう、こと?」 「だって、帰国するまでのあいだ、何度夢に出てきたか分からないんだ。お前が作ってくれた煮魚。それが食いたくて食いたくて、でも食べられなくて辛かった。お前が作ってくれた煮魚ほどうまいものはないから」  ただいまと言いながら彼が帰ってきて、私は慌てて煮魚を皿に盛り付ける。それをテーブルの上に出したら、席に腰かけた彼が嬉しそうな顔で食べ始める。その姿を見ているうちに、幸せな気分になっていた。  そのとき二人を取り巻いていた暖かな空気や、心に広がった満ち足りた気持ちが勢いよく蘇り、温かなものが心を満たしていった。しかしその温かなものは、風に舞い上がる砂のように心の中から消えていく。舞い上がった砂は、柔い場所を擦って細かな傷を作っていった。 「もう一度美咲が作ってくれた煮魚を食べたい。日本に戻ってきたことを実感したいだけなんだ」  心の柔らかな部分に次々できる痛みに耐えていると、彼が深刻な声音で頼み込んできた。長い海外勤務を終えて、ようやく帰国したのだから、それくらいしてあげてもいいじゃないかと言う声が頭の中で響く。  同じビルの中で働いている以上、これから彼の存在を意識せざるを得ない。そのたびにこんな痛みを感じるくらいなら、今度こそこれが最後と自分の中でけじめをつけて、過去にした方がいいのかもしれない。そうすれば中庭に出たときに、出会ったころを懐かしむだけで済む。そう思った。 「分かったわよ。煮魚食べさせてやるわよ……」  言い捨てるように告げると、スピーカーの向こうから安堵したようなため息が聞こえてきた。 「じゃあ、二十一時には帰れるから」  昔のように、のんきに彼が話す。その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になったけれど、すぐに我に返りまくし立てた。 「はあ!? どういう意味よ、帰れるって」 「え? だって食わせてくれるんだろ? 煮魚」 「ええ、食べさせてあげるわよ。明日お弁当にして持っていってあげる。それでいいでしょ?」  すると今度は、彼が勢いよくまくし立ててきた。 「なんだよ、それ! 俺はほかほかの作りたてが食べたいの!」  その言葉を耳にしたとき、体から力が抜けた。スマートフォンの向こうで子供のような駄々をこねているのは、もう四十を過ぎた男だ。 「あんたって、本当に……」  昔とちっとも変わってない。その言葉はどうしても口にできなかった。私が知っている彼のままでいてくれたことが嬉しかったけれど、その喜びに浸っている場合ではない。作り立てが食べたいということは、当然家に彼を迎え入れることになる。しかも今私が住んでいる家は、結婚していたとき二人で暮らしていたところだから。そこに招き入れてしまったら、ずっと抑え続けてきた思いが溢れてしまうかもしれない。そしてそれを彼に見破られてしまうかも。それが怖かった。 「あのね、作り立てが食べたいっていう話なら断るわ。冗談じゃない」 「なんでだよ!」 「作りたてが食べたいってことは、つまりあんたが私の自宅に来るってことでしょう?」 「そうなるな、それが?」  きっぱりと言い切られ、次の言葉が出なかった。彼はもう割り切っているのかもしれないけれど、私はまだ割り切ることができないから、ずっと過去を抱えている上に心の奥にしまい込んでいるのに。 「だから! なんで別れた男を自宅に入れなきゃならないの?」 「あのなあ、俺を連れ込んだところで何もあるわけじゃなし。構わないだろ?」 「嫌よ! 絶対に嫌!」  呆れたような口ぶりで話す彼に、きつい口調で言い放った。するとさすがにまずいと思ったのか、今度は同情を誘うようにしおらしく話し出す。 「なあ、頼むよ。美咲の煮魚が食べたいだけだ。食ったらすぐ帰るから」  煮魚を作ってあげると言ったことを、心の底から後悔した。彼は物分かりのいい男ではないし。きっと私が根負けするまで、こうやって駄々をこねるつもりだ。心の中であきれ果てながら、渋々答えた。 「分かったわよ。じゃあ二十一時に連絡して」 「ああ、楽しみにしてる」  ふて腐れながらそう言うと、明るい声で返された。そして言いたいことだけ言ったあと、気が済んだのか電話を切られてしまう。しばらくスマホの画面を睨んでいたのだが、そのときボスに話しかけられた。 「あ、あのね。机の上にペタペタ貼っといたメモ、読んでくれた?」  視線を決して合わそうともせずに、ぎこちなく話す姿を見て嫌な予感しかしなかった。こういった態度をとるとき、ほぼ間違いなくボスは大量の仕事を押しつけてくる。すぐさま机の上に貼られたメモを見てみると、予想通り大量の仕事の指示が書かれていた。  ただでさえ少ないスタッフで仕事を回しているのに、突発的な仕事が入ると皆残業確定だ。部下を残して帰るわけにも行かないから、当然私も残業することになる。今日はまずい。今夜は残業なんかできるわけがない。だから少々威圧的にボスに訴えた。 「これ、全部一人でやれと?」  そう言ってにらみ付けると、ボスは顔をこわばらせた。 「い、いえ。これとこれとこれとこれだけで結構、です……」 「もう就業時間も終わって居ますし、明日グループのなかで仕事を割り振りしてみます。それでいいですよね?」  するとボスは育ちがいいお坊ちゃんのような顔を青ざめさせて、こくこくと勢いよく頷いた。
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