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煮魚が食べたい

 春の雨は優しくて温かい。  霧状の細かな雨がしとしとと降ってきて、乾いた大地をしっとりと濡らしていく。大地だけでなく新芽だってそうだ。雨に洗われ、みずみずしさを取り戻し、更に葉を生い茂らせていく。細かな雨が外の景色を濡らすたび、彼と出会ったときのことを思い出してしまう。きっとあのとき雨が降っていなければ、彼とは出会っていなかっただろうと。  午前の仕事を終えて、窓の外を見てみると、灰色の雲が空を覆い尽くしていた。そして霧のような雨が降り注ぐ中庭を見下ろすと、わずかにもやが掛かっている。何か予感めいたものを感じ、昼食を取ったあと中庭に出てみると、温かく湿った風が頬に当たった。  無機質なコンクリートに囲まれている庭には、芝生が敷かれている。庭の真ん中には桜の木が植えられていて、その真下には木製のベンチが置かれている。ベンチの向かいには、小さな花壇があって、そこに腰かける人々の目を楽しませていた。とはいえ、ここを訪れる人間はかなり少ない。  傘を差しながらしゃがみこみ、雨のおかげでみずみずしさを取り戻した花びらを指でちょんとつつく。するとピンク色の花びらがふるんと揺れた。愛らしい花は、仕事で疲れた心を和ませてくれる。それと同時に、懐かしい思い出が蘇ってきた。その思い出があるから、ここは私にとって特別な場所なのだ。  ここは彼と九年前に出会った場所。春の雨が降る中、今と同じように雨に濡れた小さな花を眺めていたとき、声を掛けられた。そのときのことを思い出すと、切ない気持ちになってくる。別々の道を歩き始めた日からもう五年が経っているというのに、思い出は色あせないまま蘇り、私の胸を締め付ける。  花を眺めながら感傷に浸っているうちに、昼休みが終わる時間になっていた。過去を振り返り、気弱になりかけた自分を奮い立たせ、眺めていた花に別れを告げて立ち去ろうとしたときだった。 「ここで、何してるの?」と、背後から尋ねられたとき、心臓が大きく跳ね上がっただけでなく、切ない痛みを伴ってどくどくと脈打ち始めた。まさか、そんな。こんなことって本当にあるのだろうか。九年前掛けられた言葉を、そのときと同じ人間から掛けられるなんて。突然の出来事のせいで動揺を抑えきれないまましゃがんでいると、芝生を踏みしめる音がした。その音はどんどん近づいている。  はやる鼓動を押さえながらゆっくりと立ち上がり、声がした方へ振り返る。すると、腕を伸ばせば振れられるところに傘を差した彼が立っていた。彼は別れた五年前と、ほぼ変わっていなかった。背が高く、男らしい体をダークグレーのスーツで包んでいる。懐かしそうに目を眇めながら、私をまっすぐ見つめていた。無言のまま見つめ合っていると、彼がゆっくりと口を開く。 「美咲(みさき)……」  名前を呼ぶというより、つぶやきに似ていた。その声ではっと我に返り、思わず視線を逸らしてしまった。頬だけでなく全身が熱い。彼の視線を感じる。 「ただいま」  彼と結婚していたときは、そう言いながら彼は私のもとへ帰ってくるものだと思っていた。だけど、もうその言葉を掛けられる立場ではない。私たちは五年前に離婚した元夫婦だ。懐かしい言葉を聞いたとき、あふれ出そうになった温かいものをぐっと押しとどめる。胸の奥が痛い。無理やり感情を押し込めた場所が痛くてたまらない。まるで針の先でつつかれているかのよう。しかしそれは気づかれたくない。だからぐっと息を飲み込み、気持ちを引き締めた。 『ここで何しているの?』  突然掛けられた声は、とても優しい声だった。その声がした方へ振り返ると、彼が傘も差さずに立っていた。幾ら細かな霧雨とはいえ、雨は雨だ。着ている黒いスーツが濡れてしまう。私はそこから立ち上がり、彼へと近づいた。そして差していた傘を少しだけ差し出した。 『花壇の花を見に来ていたんです』  そのとき私はどんな表情を浮かべていたのか、もう思い出せない。だけどそのときの彼のことは、今でもはっきり覚えている。傘を差し出しながら見上げると、彼ははにかんだような笑みを浮かべていた。撫でつけられた少し長めの髪に、涼しげな目。鼻は少し高い。そして形のいい唇。雨で湿った空気に混じって、かすかに柑橘系の爽やかな匂いがした。そして仕立てのよさそうなスーツを纏う体には、しっかりとした厚みがあって、十分男らしさを感じさせた。  見た目は若く見えるけれど、漂う雰囲気が落ち着いているところから、年上だろうと思った。恐らくこのビルに入っている企業でも、そこそこいいところの社員だろう。仕立てのいいスーツを着ているし、チラリと見えた時計も高級なものだった。何せ初対面だ、外見だけで相手を推し量るしかない。  大きなオフィスビルには、たくさんの会社や事務所が入っている。だからそこで働く人間同士の繋がりは、とても薄い。同じ階で働いていたって、会社が違えば同じことだ。同じ建物の中にはいたけれど、お互い顔見知りだったわけではない。もしかしたら、一度や二度通り過ぎたこともあったかもしれないけれど。だがそのときまで見覚えがない以上、一年後には夫になる彼とは、そのとき初めて顔を合わせたことになる。法律事務所で働く私にとって、訪れるクライアントの外見は大事な判断材料だ。とはいえクラス分けをしているのではなく、相手の経済状況を推し量るひとつの要因として大事なのだ。  彼は私の言葉を聞いたあと、「ああ」と言いながら、肩越しに花壇へと目を向けた。そして突然花壇へと歩き出した。そのとき彼が着ていたダークグレーのジャケットに、雨でできたと思われるシミが目にとまった。それを見たとき、無意識のうちに声を掛けていた。 『スーツが濡れますよ。霧雨は意外と生地に染みこみますから、これ使ってください』  傘を差し出すと、彼は意外そうな顔で私を見た。 『あなたは? もう戻るの?』 『え、ええ。そろそろ戻らないと……』  すると彼が、なぜだか落胆が滲んだような顔をした。 『残念だな。これも何かの縁で、そこの喫茶室に誘おうと思っていたのに』  彼が指さした方を見ると、喫茶室の窓が見えた。このビルの一階には無料で利用できる喫茶室がある。かつて喫茶店を経営していた男性が、淹れてくれるコーヒーはとても評判がいい。このビルで働く人間たちは、無料でおいしいコーヒーが飲めるから、そこをよく利用していた。  そしてそのときと同じ場所で、元夫婦が向かい合っている。私と彼が元夫婦だということを知っている人間は、ここにはいないだろうけれど、なんだか落ち着かない。だけどそんな私を気にすることなく、彼は話し始めた。 「さっき帰国したんだ」 「そう……。どこに行ってたの?」 「インド」 「へ?」 「インドにできた支社に五年いたんだよ。おかげでこれだけ黒くなった」  そう言って彼は白いシャツの袖をまくって見せた。確かにしっかりと日焼けをしている。近くで見ると、顔もしっかり日に焼けていて、精悍な顔が更に引き締まっていた。まるで別人のように見えなくない。 「やっと、これからはまともな和食が食えるよ。あっちでも日本食レストランはあるけどさ……」  彼が左手で持っていたカップをテーブルに置いた。そのとき偶然あるものに目がとまる。左手の薬指に指輪のあとだ。指の付け根に残された白い線は、指輪のあととしか思えなかった。きっと私と別れたあと、あの女性と交わした指輪のものかもしれない。だが指輪ではなく、あとというのが気になった。 「美咲が作ってくれた煮魚が食べたかった」  するとつぶやきにも似た言葉が耳に入ってきた。そのとき気持ちがあの頃に引き戻されそうになったけれど、それをどうにか押しとどめた。気持ちを切り替えようとして、テーブルに置いたままだったカップに手を伸ばし、熱いコーヒーを口に含む。香り高いアロマを放ちながら、ほろ苦いコーヒーが喉を滑り落ちていく。  「で、なんで「ただいま」? 私たちはもう五年も前に離婚したはずよね、違う?」  向かいの席に座っている男をにらみ付けると、彼は苦笑した。 「いや、普通に日本に帰ってきたからだ、ついさっき戻ったんだよ」 「そんなに煮魚が食べたいなら、どこぞの彼女にでも作ってもらったら?」 「そういう相手がいたらいいんだが、残念なことに五年前からいたことがない」 「え?」  どういうことだろう。五年前から彼女がいないなんて。私達はあの彼女のせいで、別れたというのに。五年前の出来事を思い出していると、彼が長いため息を吐き出した。 「どういうことだ、って思ってるんだろ? でも本当のことだ。俺はあとにも先にも浮気なんかしたことがない」 「だって相手から電話がきたのよ? あなたと浮気をしているって」  すると急に彼が黙り込んだ。そしてしばらく経ったころ、彼が私に真剣なまなざしを向けてきた。 「五年前、俺の話をまともに聞こうとしなかったのはお前だよな、美咲」  確かに彼の言う通りだ。裏切られたことが許せなくて、彼の話を聞く気にはなれなかった。 「確かに、そうね」  五年前、私のもとに一本の電話が入った。夫が海外へ出張中のことだ。電話を掛けてきた相手は彼の同僚で、その上浮気相手だと言っていた。彼は海外事業部にいて、月の大半は海外へ出張に行っていた。彼女が言うには、その出張の半分は嘘で、自分と旅行に行っているのだという。それにそのあと告げられた言葉は、張り詰めていた糸が切れてしまうほど衝撃的な言葉だった。その事実を電話越しに聞かされたとき、急に目の前が真っ暗になった。そして嘘をつかれていたことがショックで、その夜帰宅した彼に怒りをぶつけたのだ。  あの頃は幸せだったけれど、どうにもならない悩みを抱えていて、しかもそれを誰にも打ち明けられないでいたものだから、人知れず鬱々としていた頃だった。その鬱憤が溜まっていたところに、突然浮気を告げられたのだ。それがきっかけとなって、積もりに積もった鬱憤をぶちまけていた。そのときのことを思い出すと、心の古傷がしくしく痛む。だが、彼は浮気などしていないという。妙に心に引っかかるような言葉を告げられて、落ち着かない気持ちになってくる。 「それ、どういうこと?」  すると彼は私を見ながら、苦笑した。 「ここで話せってか? お前も大概酷いヤツだな……」  あたりを見渡しながら彼が言う。喫茶室には数人のビジネスマンが、ひとときの憩いを求めてやってきていた。その中に知り合いはいないけれど、かといってここで話すべきことではない。モヤモヤとしたものを抱えながらも、気持ちを切り替えようとしてコーヒーに手を伸ばした。するとそのとき。 「聞きたいなら、交換条件だ」  突然彼が真面目な顔を向けてきた。 「交換、条件?」 「煮魚が食べたい」 『煮魚が食べたい』とは、そのままの意味ではない。 『今夜煮魚食べたい』イコール『今夜セックスしたい』  煮魚が大好きな彼が言い出したのがはじまりのサインは、いつしかそういう意味を持つサインになっていた。真実を教える代わりに、セックスしたい。もしも彼がそのときのサインを覚えていたなら、そういう意味になる。  答えはノーだ。自分の身体を差し出してまで聞きたい話ではない。うんざりしながらにらみ付けるが、彼は特に気にもせず私をじっと見つめている。自分のなかでとっくに答えは出ているのだし、サインのことなど忘れたふりして断ればいい。それなのに、彼から向けられる瞳を見ているうちにできなくなっていた。  それは多分私の心の中に、まだ彼がいるからだ。離婚してから五年のあいだ、ずっと気づかぬふりをし続けていたけれど、とうとう突きつけられてしまい心の中でため息をついた。だがそれを表情に出さないようにしながら彼を見つめ返していると、ぽつぽつと雨粒が窓ガラスをたたく音が聞こえてきた。どうやら、それまで霧雨だった雨が本降りになったようだった。
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