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酒の栓が抜かれたら飲まねばならない

 仕事帰りに行き着けのランジェリーショップに立ち寄り、ドアを開いた瞬間足が止まった。  繊細な糸で織られたレースで飾られたマネキンが、すぐ目の前に置かれている。それを見たとき、すぐに彼の姿が浮かんだ。抱き合うとき、身につけたランジェリーを丁寧に体から外す彼の姿が。  彼はランジェリーを外す行為さえも、前戯だと思っているらしい。焦れったくなるほどゆっくり時間をかけて、しかも私の目を見つめながら嬉しそうな顔で脱がすから。  そのときのことを思い出した途端、体の芯が火照りだした。もしもこれを身につけたなら、彼はどのような表情でこれを脱がすのか。私はその表情を見たいと思った。  女にとって繊細なランジェリーは究極の自己満足だと思う。それと同時に恋人を喜ばせるために身につける人もいるだろう。確かに自分の体をより美しくさせるために選ぶ方が楽しいけれど、恋人のことを思い浮かべながら選ぶことはそれよりも楽しいものだ。  私は今あの雑誌をもらった店で、自分の為ではなく、恋人を誘惑する為のものを選んでいる。ガラスケースに並べられた色とりどりのランジェリーを選んでいると、なじみのスタッフの女性から声を掛けられた。 「今日はどのようなものをお探しですか?」 「男がその気になるやつ」  まるで条件反射のように応えると、彼女は急に黙り込んだ。いつもと違う返事に驚いたのか、それともあけすけな言葉に呆れたのかは分からない。だけど今日は、彼がその気になるようなやつが欲しいのだ。それ以外のことなど気にしてなんかいられない。セクシーなものといえば黒いレースのものだろうか。いやいや、赤もいいが、紫もなかなか捨て難い。裏地のない一枚レースのランジェリーは、バストやヒップの丸みをきれいに見せてくれるだけでなく、肌が透けて見えるからセクシーだ。頭の中で眺めているものを身につけた自分自身を想像しながら選んでいると、傍らにいたスタッフさんが控えめに話し出した。 「どのランジェリーもセクシーなデザインになっておりますが、もうちょっと遊び心があるものもあるんですよ。店頭には出していませんが」 「遊び心って、つまり……」 「エロいです。エロすぎるから店頭に出してないんです。御覧になられますか?」 「是非!」  勢い余って身を乗り出して応えると、彼女は私を店内の奥へ連れて行ってくれた。  キスしてからというもの、彼の唇が気になって仕方がない。食事をするときや、会話を交わすときについ形のいい肉厚な唇に目がいってしまう。そしてキスされたときのことを思いだし、急に恥ずかしくなってしまうのだ。  キスなんか、セックスの前に行われる通過儀礼だと思っていた。過去の恋人たちは、セックスする前の最終確認のためにキスをしていたようなものだから。もちろん体を許す前にしていたキスは、ロマンティックなものだった。だけど体を許した途端、キスは違うものへとなってしまい、ついにはただの確認行為になっていた。  夕食を食べ終えたあと、彼はいつものように半袖短パン姿で、ソファに寝そべりながら雑誌を読んでいる。もしかしたら、今夜が二人だけで過ごす最後の夜になるかもしれない。そう思うと、なんだか切ない気分になってくる。やりきれない気持ちを抱えながら、彼が作ったデザートをガラスの器に盛り付けていた。 (本当に器用な人だなあ……)  ガラスの器に盛り付けたゼリーがぷるぷると揺れている。桃缶のももを食べやすい大きさにカットして、牛乳とゼラチンを混ぜたものに入れたあと、冷蔵庫で冷やす簡単なものだった。簡単なわりには、とてもおいしくて、それを食べながら彼といろんな話をしたものだった。  ただでさえ口数が少ない人だ。それが物足りないと思ったときもあったけれど、半年付き合っているうちに慣れていた。昔の私なら、短い言葉でしか返さないことが不安でたまらなかっただろう。そして不安で不安で、でもそれを言えない私が嫌いだった。  でも大学を卒業したあと出会った友人は、私よりずっとずっと内気な人だった。彼女と出会っていなかったら、きっと昔のままでいただろう。彼女が余りにもシャイだから、その背中を押し続けているうちに、今の自分になっていた。友人の背中はぐいぐい押すくせに、自分のことになると弱気になってしまうのは、つまりは自信がないからだ。恋人に不安をため込んでいたときの自分が、影となってすぐ足下まで近づいてくる。それを振り払うように、あえて明るい声を出した。 「康平さん、デザート、食べよ」  キッチンから声を掛けると、彼は読んでいた雑誌をテーブルの上に置いたあと、のっそりと立ち上がった。 「その前に風呂の準備してくる」 「うん、今日は泡風呂がいいな」 「分かった、ジェル入れとく」  そう言って浴室へ向かう彼の大きな背中を眺めながら、私は自分自身に言い聞かせた。今夜が最後のチャンスだと。そして彼と会わずに読みあさった小説に書かれていたことを、頭の中で繰り返し思い浮かべていた。
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