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人生は一度だけ

「ねえ、みずき。何かあったの?」  麻音子から尋ねられて、我に返った。ランチを終えた彼女が、向かいの席でコーヒーを飲んでいるのだが、心配そうな表情を浮かべながら私をじっと見つめている。そういえば一年前、立場こそ逆だったけれど、同じような場面があったことを思いだした。  あのとき彼女があまりにも思い詰めたような表情ばかりしていたから、何があったのか気になった。声を掛けるといつも通りに振る舞っていたけれど、ふとしたときに見せる不安げな表情が、不安を募らせたものだった。そんな毎日を送っているうちに、彼女の顔から不安の影は消えたけれど、あのときの彼女は、今の私のように誰にも打ち明けられないような悩みを抱えていたのだと思う。 「康平さんがロンドンに明日行ってしまうので、寂しいんだと思いますよ」  他人事のようにわざとおどけてそう言うと、彼女は苦笑した。 「ため息の理由はそれもあると思うけれど、違うものだと思うんだけどな……」  彼女が自信なさげに目線を下げる。その姿を見て、申し訳ない気分になった。 「それ以外あるわけないじゃない。毎月月末に帰ってきてくれるだけでも、ありがたいなーとは思うわよ。でもそれだって、会社への報告があるからだし」 「そうなの? 会社への報告があるから帰ってきてるだけ? 私たちは、てっきり……」 「てっきり?」  妙に心に引っかかる言い方をするものだから聞き返すと、彼女は真面目な顔でゆっくりと口を開いた。 「みずきに会いたくて帰ってきてると思ってたの。龍之介さんは、それで間違いないって」 「はあ?」  予想外の返事がくると、人間は思考が追いつかず、その言葉しか出ないものらしい。事実、思いがけない言葉を聞かされ、私の頭の中は混乱している。すると麻音子が急に身を乗り出した。真剣な表情を浮かべて。 「と、とにかく。彼が言ってるってことは、それで間違いないって思うの」 「どっちでもいいわよ。帰国しても、また遠いところに戻るんだから」  昨夜ようやくキスをしたはいいけれど、その先へと続かなかった。多分龍之介先生は勘違いをしているに過ぎない。それを目の前にいる彼女に言えるわけないし、思い出してしまった昨日の出来事を頭から追い出した。そして目の前に置かれたままになっていたマグカップに手を伸ばす。ちらりと向かいの席にいる彼女を見ると、しゅんと肩を落としながらコーヒーを飲んでいた。 (あれは一体なんだったのかしら……)  昨夜の出来事を振り返ると、その言葉しか出てこない。いきなりキスをされたあと、突然体を抱き上げられて寝室へ連れて行かれたけれど、彼は私をベッドに下ろしたあと、背中を向けて寝てしまった。おかげで私は一人悶々としながら眠れぬ夜を過ごしたのだ。それでも明け方睡魔に勝てず、うとうととしていると彼に起こされた。  睡眠不足でぼうっとしている私の目に映る彼は普段通りの姿だった。人が眠れない夜を過ごしたというのに、何をそんなに爽やかにコーヒーなんぞ飲んでいるんだと腹立たしく思いながら、やけっぱちのように彼が作ってくれた朝食を食べたのだった。  昨日からの出来事を振り返っていると、急にあることに気がついた。突発的なアクシデントにも見えるが、一応キスをしたことに。しかも唇だけのものでなく、舌を絡めた深いものだ。  肉厚で弾力のある舌が入り込み、有無を言わさず私の舌を絡めとって巻き付いた。そのときの彼の体が一気に熱くなり、それに呼応するように私の体も熱くなっていた。鋼のようなたくましい体に抱きしめられて、その上あんな情熱的なキスをしたんだもの。もしかしたら、もう少し頑張れば、その先へ進むことができるかもしれない。  多分彼は私を寝室に連れて行く途中にリビドーが切れたんだ。ならばそのリビドーを途切れさせなきゃいいだけのこと。そう思ったら彼と過ごす最後の夜に、やるべきことが次々と頭の中に浮かんできて、今夜最後の勝負を仕掛けることを私は決意した。考えてみれば、やり残していた計画がまだ残っている。  もしもそれが失敗に終わったら、潔く負けを認めて彼と別れよう。  そしてキスしたときの思い出を糧に、ひとりで強く生きていこう。  彼は明日の夜の便でロンドンへ戻る予定だ。一か八かの大勝負、もし駄目であっても彼は翌日日本から離れるし、しばらく顔を合わせることがないから、その間気持ちを落ち着かせよう。そう決意したとたん、あれほど心を煩わせていたものが、きれいさっぱり消え失せた。おかげで仕事がはかどって、いつもなら締め切りギリギリまで苦戦する伝票の入力を、数時間のうちに終えていた。
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