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人はパンのみにて生くるにあらず

「みずき、みずきってば!」  翌日のお昼休み、会社の近くにあるカフェでランチを取っていると、麻音子から呼びかけられた。どうやら昨日の出来事を考えているうちに、ぼうっとしていたらしい。向かいの席に座る彼女を見ると、不安げな表情で私を見つめていた。 「ごめん、ちょっとぼうっとなってた。それで麻音子はどうしたいの?」  記憶の残像から目をそらし尋ねると、彼女は苦笑しながら目線を下げた。その先には旅行用のパンフレットがあって、テーブルに置かれたままになっている。 「クリニックが忙しいから、新婚旅行は行かないことにしんだけどね。お父さんがそんなもん、どうにでもなるから行ってこいってうるさくて……」 「そんなもん、って……」  一年前に結婚した彼女はとても優しい。そして彼女の夫となったひとは、彼女よりもっと優しいのだ。だから自分達のことを、後回しさせることがとても多い。それまで一人で切り盛りしていたクリニックに、ようやく新人の医師を雇い入れたけれど、まだまだ一人前ではない。それを二人は案じていた。  しかし彼女の夫だって、もっと二人の時間を増やしたいから、そうしたはずだ。だがなかなかうまくいかないらしく、そんな二人を気に掛けていた彼女の父親は、どうにか旅行にいかせたいらしい。 「お父さんの気持ちも分かるわよ。ここは周りに甘えて、行ってきたらいいんじゃない?」 「でも、入院している動物たちもいるし、それにアンナとリンダもいるし」  彼女たち夫婦が飼っている子猫たちは、我が子と同じ存在らしい。入院している動物たちは、クリニックのスタッフに頼めばどうにかなるけれど、二匹の子猫たちもとなると、少々難しいかもしれない。でも――。 「あのね。クリニックには、龍之介先生の他にもドクターもスタッフもいるでしょ? 子猫たちなら、私が預かってもいい。だから行ってきなさい。そしてハネムーンベビーを仕込んできなさい!」 「ちょ、ちょっと、みずき……」  あわあわとなりながら、彼女が顔を真っ赤にさせてあたりを見始める。大学を卒業してから出会った友人だから、付き合いこそ短いけれど、大事な友人だ。それに大事にしたい。だから心を鬼にして彼女に向き合った。 「いい? 今度の連休、箱根でも伊豆でもいいから、龍之介先生とハッピーハネムーンしてきなさい! 連休が無理なら、一日も早く旅行の予定を立てなさい、いいわね」  そう言い放つと、彼女は困り果てた顔になっていた。  仕事を片付けたあと、彼の部屋へ向かうと、どうやら会社に呼び出されたようでいなかった。彼の匂いがかすかに残る部屋に一人でいると、気持ちがどんどん沈んでいく。それに追い打ちを掛けるように、昨夜の出来事が蘇ってきた。  手を伸ばせば触れられる距離にいるはずの彼が、遠いところに居るような気がした。だから触れて安心したくて抱きつこうとしたら、思い切り顔を背けられただけでなく、抱きつかれないように体を押さえ付けられていた。 (あれは、どう考えても、拒絶、よね……)  そのときのことを思い出せば虚しさしか感じない。恋人だと思っていた相手から、そんな風にされたら誰だってそう思うはずだ。泣きたい気持ちになりながら、それでもどうにか我慢して、何でも無いようなフリをしたけど、心は傷ついた。やはり彼は私を紹介した友人の手前、仕方なしに付き合っていたのだろう。だから触れもしないし、求めないのだ。  初めてのセックスのせいで、行為そのものが嫌になっても、好きな人と肌と肌を触れあわせることは嫌じゃない。ぎゅっと抱きしめられるたび、胸がじんとなるし、幸せな気持ちになれる。そのあとの行為は未だに慣れないままだけど。でも結婚し幸せ一杯の友人の姿を目にするたびに、母親から聞かされた言葉を思い出す。そして、彼となら母が教えてくれた喜びを感じ合えるかもしれないと、思うようになっていた。  付き合い始めた頃こそ、よそよそしさを感じていたけれど、少しずつ関わるうちに、彼がとてもナイーブな人間だということに気がついた。そして人見知りなところもだ。少しずつ彼を知るごとに、二人の距離が縮まっているような気がして、気がついたときには好きになっていた。だけど、彼は私をどう思っているんだろう。 『ここで俺と一緒に住めば問題ない』  昨日彼はどんなつもりで、そんな言葉を言ったのか。少なくとも一緒に暮らしても気にならない程度には、好意を持ってくれてると思うけれど。  別に考えていること全部を知りたいわけじゃない。ただ私をどう思っているのか知りたいだけだ。麻音子と彼女の夫からは「大丈夫」と言われているけれど、拒絶のような態度をされては不安ばかりが増していく。  フランス人の母からすれば、キスやセックスをしないと分からないことがあるらしい。そしてそれでしか感じることができないものも。だけど彼は触れあうことを拒んでいる。そんな相手にどうしろというのだろう。ソファで一人膝を抱えたまま、そんなことを考えているうちに、私は涙を流していた。
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