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第29話

「うそです。そんなの」 「でなきゃ、選ばない」  顎をつかまれ上向かされた八重子は、見た事もないほど真剣な眼差しの義英に息を呑んだ。 「柏木先輩」  零れた八重子の声は、かすれ震えていた。体中が心臓になったかのように、鼓動が響いている。それなのに四肢は石像のように硬くなり動けない。 「八重子」  息の中に自分の名前があると気付くと同時に、唇に柔らかなものが押し当てられた。義英の瞳に自分の目が映っているのがわかるほど顔が近い。 「せ、んぱ……い?」  唇を動かせば、あたたかな息が口内にこもった。自分に何が起こっているのか把握できない八重子の指を、義英の大きな手が包み、目の高さに持ち上げる。 「こんな事をしても、礼司はお前に振り向かない」  こぼれるほど開いた八重子の目に、指先に口付ける義英が映る。 「俺を見ろよ。八重子」  いつもとは違う呼び名と声音に、八重子は怯えた。小さく震える八重子を、義英の腕がしっかりと捕らえている。身じろぎすらも出来ずに、八重子は与えられる言葉に打ち震えた。 「俺のものになれ」  再び唇を寄せられて、八重子は義英の顎を押しのけた。 「や、ぁあ」  詰まった喉から声を絞り、必死に義英から逃れようとする。けれど彼の腕はびくとも動かなかった。 「ううっ」  渾身の力を込めて逃れようとする八重子は、ふいに腕を解かれ、倒れそうになった。あっと思った瞬間、背中に木の幹があたる。 「俺も、礼司と同じくらい、いい男だと思うんだけど」  八重子の頭上に腕を着き、義英が見下ろしてくる。八重子は胸の前で祈るように手を握り、義英の視線から逃れるためにうつむいた。
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