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第7話

 全身で飛び込んだ真彩を、グラペウスはおどろきながらもしっかりと抱きとめた。彼の腕に包まれた真彩は、安堵とよろこびに目を潤ませて彼を見上げる。言葉にならない声が、吐息となって真彩の唇からこぼれ落ちた。  手を伸ばして、真彩は彼の頬に触れた。紫の瞳に向かって、心の中で「やっと会えた」とつぶやく。胸が押しつぶされそうなほどの愛しさに、呼吸も忘れてひたすら見つめた。 「真彩」  おそるおそるといった声に、真彩はほほえんだ。グラペウスの手が真彩の髪に触れる。撫でられた髪は、短かった。 「怖い思いをしたな。だが、もう大丈夫だ……もう、大丈夫」  ちいさな子どもをあやす声音でなだめられ、真彩はコクリとうなずいた。 「グラペウス」  胸の奥から彼の名前を取り出して、音にする。うなずいたグラペウスの首に顔を擦りつけ、うっとりと目を閉じた。体に塗り広げられた花蜜の香りが肌をざわめかせる。望まぬままに引き出された官能が、真彩の奥でくすぶっていた。それが安堵と恋しさを燃料にして燃え上がる。 「は、ぁ」  なやましい息を吐いた真彩に、グラペウスが緊張した。 「真彩」  硬くなった彼の声に顔を上げた真彩は、グラペウスの困惑顔に首をかしげた。 「グラペウス?」 「すぐに湯を用意させよう。体を拭って、服を着て……すこし、眠るといい」  首を振って、真彩はグラペウスにしがみついた。すこしも彼と離れたくない。体の奥がうずいて、胸の先が切なくて、唇が恋しくて、彼の愛撫が欲しかった。 「グラペウス」  呼び声に求めているものすべてを込めた真彩は、首を伸ばした。紫の瞳が揺れている。迷う目を見つめたまま、真彩はそっと唇を押しつけた。彼の唇は逃げることなく、真彩のキスを受け止める。  小鳥が果実をついばむように、真彩はキスを繰り返した。ときどき角度を変えながら、グラペウスの唇をちいさく味わう。グラペウスの手は真彩の背にあるまま、ピクリとも動かなかった。 「はぁ……グラペウス……ねぇ」  夢のなかでは望みをはっきりと口に出せたのに、いまの真彩はもどかしい思いを言葉にできなかった。体の隅々が、彼が欲しいとさざめいている。ふつふつと湧き上がる情欲が、グラペウスになぐさめられたがっていた。 「真彩」 「お願い」  逡巡する瞳にうったえると、グラペウスは困り顔のまま真彩を抱き上げた。ベッドに運ばれ、寝かされる。 「これはあくまで、妖精のいたずらをなぐさめるためだから……治療のようなものだ」  真彩に聞かせているようにみせかけて、自分に言い聞かせているのだとわかった。どうしてグラペウスは、真彩に触れることをためらうのか。 (というより、おびえてる?)  怖がっているのではないかと、真彩はグラペウスの消極的なキスを受けながら考えた。唇をすこし開いて、グラペウスの舌を受け入れる。そろそろと侵入してきた彼の舌は、真彩の心をたしかめるように動いた。頬裏や上あごを舌先でくすぐられ、真彩は彼の舌をくすぐりかえした。目をまるくしたグラペウスにクスクス笑うと、彼の目元がなごむ。それがうれしくて、真彩はもっとたっぷり舌を動かした。 「んっ、ふ……ぅ……んんっ、ん……む、ふぅ」  口内のダンスは、真彩の意識を心地よく酔わせてくれた。口のなかがとても気持ちよくて、ずっとこうしていたかった。けれどほかの部分が、こっちにも刺激が欲しいと言っている。自分の体なのに、あちこちがそれぞれに主張してグラペウスの愛撫を求めていた。 「ふはっ、は、ぁ……ああ」  唇が離れると、真彩は息をあえがせてグラペウスの首に顔を寄せた。首筋にキスをして、ローブの留め具を外す。シャツのボタンにも手をかけると、手首をやんわりと掴まれた。  どうして? と真彩は目顔で問うた。やわらかなまなざしが注がれる。身を起こしたグラペウスは、自分でシャツを脱いだ。白くなめらかな、たくましい上半身があらわになった。うっとりと息をこぼした真彩が手を伸ばすと、グラペウスは指先にキスをした。うやうやしい態度に、真彩はクスクス笑って身をよじった。 「真彩」  心にポッと明かりが灯る。彼の声は、やさしさに満ちていた。はにかんだ真彩は両腕を広げて、グラペウスを待った。グラペウスの体が真彩の上にかぶさる。額に、頬に、まぶたに、鼻に、唇にキスをされて、真彩はほろ酔いの心地よさを味わった。  唇が顎を滑って喉に落ち、鎖骨のくぼみに落ち着く。舌でそこをくすぐられて、真彩はグラペウスの肩から二の腕にかけてを撫でた。その先にもキスが欲しいと、指先で伝える。  キュッと鎖骨を吸われて、鋭い感覚に真彩は声を上げた。グラペウスの頭が乳房の間に入り、心臓のあたりもまた強く吸われた。 「は、ぁ……っ、グラペウス」 「真彩」  熱っぽく変化したグラペウスの息に、彼も興奮をしているのだとうれしくなった。グラペウスの唇が乳房を上り、頂に到達する。ツンと尖った箇所を舌ではじかれて、真彩はちいさく啼いた。 「あっ、ぁ……ああっ、あ、あ」  乳房の根元をおおきな手のひらで支えられ、乳頭を口に含まれる。チロチロと舌でもてあそばれて、真彩はよろこびの声を上げた。 「ふぁ、あっ、ああ……グラペウス、ああ……あっ、あ」  吸われると、愛おしさが彼に流れた。もっともっと吸ってもらいたくて、真彩はグラペウスの頭を抱えた。もう片方の乳房は、芯を揉みこむようにやわやわとこねられる。そちらもまた、気持ちがよかった。指の腹で乳頭を転がされ、つままれ、撫でられると、唇での刺激とは違った快感が生まれる。 (私、いまグラペウスに奏でられているんだわ)  彼のための楽器になっているのだと、真彩は顔をほころばせた。なんて幸福な時間なのだろう。ずっとずっと、この時間が続けばいい。そう望むのに、体の奥……女の部分がさらなる刺激を求めている。 「はぁ、あっ、んぅ……ふっ、ぁ、ああ……グラペウス……ああっ、あ」 「わかっている。真彩……怖くは、ないか?」  なにを確認されているのかわからなくて、真彩は首を持ち上げて胸に顔を伏せている彼を見た。紫の瞳に不安が揺れている。 「してほしいの……グラペウスに……私を啼かせて……あなたの手で」  ゼーロテュピアーは真彩を「俺のためだけに啼く鳥」と言った。真彩はグラペウスのためだけに啼く鳥になりたかった。心がどうしようもないほど、グラペウスへと流れていく。どうしてこんなに愛おしいのだろう。 「ああ、グラペウス」  狂おしいほどの想いを乗せて、真彩は彼を呼んだ。グラペウスはすこしかなしげな目でほほえむと、真彩の下肢に手を伸ばした。 「あっ」  内ももを撫で上げられて、真彩は可憐な悲鳴を上げた。グラペウスの指先が秘裂に触れる。そこはたっぷりと濡れていた。裂け目を上下に擦られて、真彩は脚を広げた。奥で彼を受け止めたくて、たまらない。 「真彩」  想いが通じたのか、グラペウスはそろそろと指を沈めてヒダを広げた。 「ああっ、あ……は、ぁあ……っ、グラペウス」  彼の指に広げられるよろこびに、真彩は啼いた。彼の指はやわらかな肉ヒダをかき分けて隘路にさしかかる。奥から蜜をあふれさせるそこを愛撫されて、真彩は首をのけぞらせた。 「は、ぁあ……ああっ、グラペウス……ああっ、あ……ああっ」  彼の指は、泳ぐような動きで真彩の繊細な部分を愛撫する。真彩はさらに脚を広げて、グラペウスを求めた。指ではなく、グラペウス自身が欲しい。彼と、ひとつになりたい。 「ねえ、グラペウス……お願い……ああっ、はやく……グラペウス」  腰を揺らして求めれば、グラペウスは悲哀をたたえた瞳を伏せた。与えられないのだと悟って、真彩の心臓はギュウッと苦しく絞られた。 「どうして」 「大丈夫……きちんと、終わらせるから」 「そうじゃない……そういうことじゃな……ああっ!」  裂け目の上部にひっそりと隠れていた女核をつままれ、真彩は腰を跳ね上げた。グラペウスの指は容赦なく、そこを責め立てる。目の奥がチカチカするほどの快感に、真彩はシーツの海に泳ぎながら涙を浮かべた。 「んぁあ……ああっ、だめ……グラペウス……違うの、違……ああっ、あ、ああ」  嬌声の合間に伝えても、グラペウスの指はすこしも動きをゆるめなかった。よろこびと困惑に挟まれたまま、真彩は淫靡な極まりに連れていかれた。 「っあはぁああ――っ!」  多量の蜜が真彩の奥からあふれ出て、グラペウスの手を濡らす。ビクンビクンと痙攣する真彩から、彼の指が抜けた。目に溜まった涙がこぼれて、グラペウスの唇に拾われる。 (どうして……こんな)  グラペウスは自分の欲を示してくれなかったのか。真彩は唇をゆがめて、嗚咽に喉を震わせた。 「真彩……もう、大丈夫だ。怖かっただろう。妖精のいたずらは、これで消えるから。すぐに体をキレイにしよう。疲れただろう? ゆっくりと眠ればいい」  離れようとするグラペウスの腕を、絶頂の余韻で気だるい手を持ち上げて掴み、ゆるゆると首を振った。 「真彩?」 「行かないで」  ふっとグラペウスの目元がなごむ。 「あの妖精は、ここまでは追いかけてはこられない。ここは、妖精の過ごせる場所ではないからな。ここにいれば、安心だ」 「違う」 「ん?」 「グラペウス」  怖いのではなく、ただグラペウスといたいだけ。  真彩は瞳でうったえた。グラペウスはじっと真彩を見下ろしている。やさしい紫の瞳に、真彩の心は愛おしさと切なさに揺れた。 「お願い……ここにいて」 「すぐに戻る」  グラペウスの腕が、真彩の指から離れる。真彩は身を起こして、ベッドの上を這った。グラペウスが部屋の影に向かって、なにかを言っている。目を凝らした真彩は、影にひそんでいるものが人ではないと気がついた。 (なに、あれ)  犬の頭をした人間が、うずくまってグラペウスの言葉にうなずいている。もっとよく見ようとして、真彩はベッドからずり落ちた。 「あっ」  硬い床に打たれる予想をした真彩は、やわらかなものに受け止められた。とっさに閉じた目を開けると、真彩をここまで運んできたものが床に広がっている。 「真彩」  戻ってきたグラペウスに抱き上げられ、ベッドに戻されながら彼の肩越しに影を見た。そこにはもう、なにもいなかった。 「危ないだろう」 「ねえ、グラペウス……いまの」 「目が覚めたら、教える。だからいまは、ゆっくり眠れ」  そっと頭を撫でられて、真彩はしぶしぶ目を閉じた。スルスルと睡魔が近づいてきて、真彩の意識を取り囲む。誘われるままに、眠りの世界へ連れていかれた。  * * *  目が覚めたら、房飾りのついた布が視界に入った。  むくりと起き上がった真彩は、天蓋つきの広いベッドに寝ているのだと認識し、髪に手を伸ばす。 (短い)  真っ白いドレスみたいなネグリジェを身につけているのに、髪は短いままなのが不思議で、真彩は周囲を見まわした。  石造りのバルコニーが見える。その向こうにあるのは星空だった。ベッドから下りると、石造りの床に足裏がヒヤリとした。肌寒さを感じて、両手で自分を抱きしめつつ、バルコニーに出る。手すりを掴んで目を凝らすと、夜のずっと向こうに、淡いオレンジの帯が見えた。その先に、青空らしきものが見える。 「あれって」  真彩は目をこらして、あの先にあるものを見ようとしながら、いままでのことを思い出した。  夜の公園から昼の森に連れていかれた。紳が自分を妖精だと言い、ゼーロテュピアーと名乗った。逃げようとして捕まったこと。すんでのところで得体の知れない、水の袋のようなものに包まれて運ばれた。それが開くと、目の前にグラペウスがいた。 「グラペウス!」  気がついて振り向いても、室内に彼の姿はなかった。広い部屋を歩きまわり、名前を呼んでも彼はいない。彼どころか、人の気配すらもしなかった。  体だけでなく心も寒くなり、身震いをしてバルコニーに戻った。星空の下は黒々とした森が広がっている。この景色のどこかにグラペウスがいるはずだ。  真彩の体の隅々から感情が胸に集まり、肺を通って喉を震わせた。  妖精の歌を体中に響かせて、真彩はグラペウスを求めた。朗々とした歌声が星々と共鳴して、夜の世界を駆け巡る。  どのくらい歌い続けたのか。  おおきな羽音がしたかと思うと、漆黒の羽をはばたかせたグラペウスが現れた。 「真彩」  歌声を響かせたまま、真彩は両腕を広げた。バルコニーに降り立ったグラペウスを抱きしめて、口を閉じる。 「グラペウス」 「真彩」  そっと背中を撫でられて、真彩は心を震わせた。寒かった心があたたまる。ギュッとしがみついて、グラペウスの体温を味わった。間違いなく、彼はここにいる。 「目が覚めて、だれもいなかったから怖くなったのか? なにか飲み物を用意させよう」  抱き上げられてベッドに戻された真彩は、離れようとするグラペウスのローブをつかんだ。ポンポンと安心させるように手の甲を叩かれて、しぶしぶ手を離す。  グラペウスは扉を開けて、だれかに指示をした。扉はすこししか開かれなくて、向こうにいるものの姿は見えなかった。 「真彩の服や荷物は、近いうちに取り戻せる。そうしたらもとの家に帰れるから、安心していい」 「どうして」  ぽつりとつぶやいた真彩は、隣に座ったグラペウスを見上げた。 「真彩のものが妖精の手元に残っていたら、それを手がかりにまたさらわれるかもしれないからな。それに、取り戻しておかないと困るだろう」  財布や携帯を思い浮かべてうなずいた真彩は、ふたたび「どうして」とつぶやいた。 「聞きたいことは、違うことだったのか?」  真彩は目を伏せて髪に触れた。どう質問していいのかが、わからない。 「ああ、そういうことか」  ちいさくこぼれたグラペウスの息に顔を上げて、真彩は紫の瞳を見つめた。グラペウスの手が真彩の頬に触れる。 「こうなったのも、俺のせいだな。――すまない、真彩」 「どうして?」  うん、と言葉を呑んでから、グラペウスは泣き出しそうな顔で笑った。 「俺は、真彩の歌が聞きたかった。また、聞かせてほしかったんだ。だから夢を渡って、真彩をここに連れてきた。夢のなかでなら、かまわないと考えたんだ。夢として忘れてしまえば、真彩が歌を思い出すこともないだろうと」 「どうして」  グラペウスはかなしい笑顔のまま、深く頭を下げた。 「すべて、俺が原因だ。怖い思いをさせて、すまなかった」 「そうじゃないわ。そうじゃないの……私、そういうことを言っているんじゃなくて」  どう言えばいいのかわからずに、真彩はもどかしくグラペウスの頬を両手で包んで顔を上げさせた。 「会いたかった」  想いを込めて伝えれば、グラペウスは息を止めた。 「会いたかった……会いたかったの、グラペウス。私、あなたに会いたかったのよ。歌いたかった、すごく歌いたかったの。あなたの前で、歌いたかった。ずっとずっと、歌うことを忘れていたけれど、でも私、忘れていたけど歌いたかったの。会いたかったの」  自分でも、おかしなことを言ってると思う。しかし言葉にすこしもウソはなかった。 (そうよ。私、ずっと……忘れていても、歌いたかった。グラペウスに会いたかった)  歌えないから、会えないから忘れていた。いつのまにか、記憶に蓋がされていた。それをグラペウスが開けてくれた。 「ありがとう」  心を込めて告げれば、グラペウスの瞳が揺れた。 「思い出させてくれて、また歌わせてくれて……会いたいと望んでくれて、ありがとう」 「真彩……だが、俺は」 「いまは、よろこんで。会いたいって、歌を聞きたいって、思ってくれたのよね? だったら、それがかなったことを、よろこんで。ねぇ、グラペウス」  熱っぽく見つめた真彩は、グラペウスに唇を寄せた。 「とても、うれしいよ……真彩」  ささやきが唇に触れて、真彩は目じりをとろかせた。彼の首に腕をまわして抱きしめれば、グラペウスも真彩を抱きしめ返す。彼の広い肩に頭を乗せて甘えていると、ノックが聞こえた。名残惜しみつつ腕を離せば、グラペウスが扉をほんのすこしだけ開けて、ポットやカップの乗ったワゴンを部屋に入れた。運んできたものの姿は見えない。 「さあ、真彩」  ワゴンを押して、グラペウスがベッドに戻る。お茶を注いだカップを渡されて、真彩は口をつけながら扉を見た。あの向こうには、だれがいたのだろう。 「ねえ、グラペウス。ここには、どのくらいの人がいるの?」  質問に、グラペウスは手を止めた。 「グラペウス」 「人はいない」 「え」 「ここに、人間はいない。真彩だけだ」 「それって」  ゼーロテュピアーの言葉を思い出す。 「魔物しかいない……と、いうこと?」  どちらともとれる笑みを浮かべたグラペウスは、苦しそうだった。真彩はカップを置いて背筋を正す。 「グラペウスも魔物なの?」 「そうだ」  言って、グラペウスは漆黒の羽を広げた。 「人間に、こんなものはないだろう」  うなずいた真彩は、この状況を受け入れている自分を不思議に思った。 (いろんなことがありすぎて、感覚がマヒしているのかもしれない。でも、なんだろう。昔……そう、子どものころに、こんなことがあった気がする) 「私、グラペウスと会ったことがあるのよね。夢のなかじゃなくて、きちんと」 「ああ」 「紳さ……ゼーロテュピアーとも、会ったことがあるのね」 「真彩は、あの妖精から歌を教わったんだろう」  受け止めるためにうなずいて、真彩は記憶を探ろうとした。 (子どものころ、山で迷子になって、だれかに助けられたことは覚えているわ。そこで歌を教わったのも。それがゼーロテュピアーで、だから彼が私を知っていたのも、なんとなくなつかしかったのもわかる。だけど)  真彩は視線を上げた。 (グラペウスとは、いつ会ったんだろう)  大切なことのはずなのに、思い出せない。顔をしかめた真彩に、グラペウスは苦笑した。 「忘れているのなら、そのまま忘れていればいい。どうせ、また忘れることになる」 「どういうこと?」 「もう、妖精の歌は歌わないことだ」 「どうして」 「また、あいつが来るぞ」  ブルッと震えて、真彩は自分を抱きしめた。 「でも、ここにいたら安心でしょう?」 「ここにいる間はな」  立ち上がったグラペウスが、バルコニーに向かう。 「どこに行くの?」 「真彩の荷物を取り戻してくる」  呼び止めるよりもはやく、グラペウスは飛び立ってしまった。走ってバルコニーの手すりから身を乗り出したが、グラペウスの姿はもう見えなかった。 「グラペウス」  ため息をついてベッドに戻り、カップを手にして飲んだ真彩は扉に目を向けた。おそるおそる近づいて、そっと扉を開けてみる。扉の向こうは真っ暗で、なにも見えなかった。 「だれか、いませんか」  声をかけても返事はない。
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