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第5話

 改札前に紳がいて、真彩に手を振っている。真彩は胸元でちいさく手を振り返し、紳に近づいた。なんだかすこし照れくさいというか、落ち着かない。うれしいのでもなく、嫌悪でもなく、慣れていないことによるとまどい、と言えばいいのだろうか。  とにかくそんな心地で、真彩は紳に連れていかれた店で食事をおごられ、コンビニに連れていかれてペットボトルのドリンクを買い与えられ、日の暮れた公園に連れていかれた。  遊具のある場所のほかは、おとずれる人もすくないからか、外灯が申し訳程度しかない公園は、深閑として暗かった。周囲に家はあるのだが、木々が家の明かりを遮って、街中にいることを忘れてしまう。  見上げると高い建物に切り取られていない星空が、のびのびと広がっていた。  この場所に立つのは、三度目だ。  紳とはじめて出会った日と、昨日と、今日と。  ペットボトルは、歌が聞きたいという紳からのメッセージだ。食事は前払いのコンサート代。彼は真彩の歌を聞きたがっている。ふつうの歌ではなく、妖精の歌を。  どうして妖精の歌というのか、真彩は知らない。けれどその呼び方がとてもしっくりきている。あれは、どこか抽象的で、つかみどころがないくせに、はっきりと存在を感じられる、不思議な音だ。  真彩はふうっと街中の空気を吐き出して、夜の木々の息吹と入れ替えると、それを音楽にした。  細く高い旋律が星空に吸い込まれていく。真彩はまたたく星の向こうに、紫の瞳を見ていた。歌を紡ぐときは、夢のなかで出会った人が自然と心に浮かぶ。自分は彼のための楽器なのだと、真彩は思った。  なんてしあわせな心地なのだろう。  あの人のために奏でられる楽器。あの人の視線や想いが、真彩から旋律を引き出している。 (グラペウス)  名前を想うと、旋律はいっそうやさしさを増して夜気に響いた。  想いのしっぽが揺れながら天に上る。余韻が消えると、拍手が聞こえた。夢中で歌っていた真彩は、紳の存在を思い出して赤くなる。 「すばらしかったよ、真彩」 「ありがとう」  はにかみながら、真彩は差し出されたペットボトルを受け取った。お茶を飲んで喉を潤す。渇いた喉を滑るお茶の冷たさが、歌に湧きたっていた体の芯をやわらかく静めてくれた。 「やっぱり真彩は俺のために、俺のそばで歌うべきだね」 「え?」 「ずっと、俺といっしょにいようよ。ねぇ、真彩」  耳を指先でもてあそばれて、真彩は困った。告白ともとれる言葉を、そのまま告白として受け取ってしまっていいものか。あるいは紳は、ステージつきのお店――たとえば生演奏のジャズを売り物にしている飲食店――を経営していて、そこでの歌い手を探している……なんてこともあるかもしれない。 (どっちも、なんだか現実味はないけれど)  夢のなかでロングヘアーになって、白いドレスを着ているよりはリアルだ。  返答をしかねた真彩は、紳が次にわかりやすい言葉を発するのを待った。 「真彩」  艶めいた気配を宿した声に、肌が粟立った。奇妙な感覚が骨の奥からふつふつと湧きだして、毛穴から緊張が抜けていく。耳に触れる手はそのままに、もう片手で腰を引き寄せられた。 「ずっと、俺のそばにいて歌ってよ。俺のためだけに、歌って。ねぇ、いいだろう?」  静かな紳のほほえみは、ゾッとするほど透明でうつくしかった。体から力が霧となって消えていく。ガクリと膝を負った真彩の体は、紳に支えられた。 「紳さん」 「その歌は、俺が教えたものだ。だから、俺に返してよ。ずっとずっと、これからずうっと、真彩は俺のために歌い続けて。だって、俺が真彩を見つけていなかったら、真彩は山で迷子になって、あそこの木や草に食べられちゃっていたんだもん。助けた俺は恩人で、歌を教えた師匠でもある。ね? そうだよね」  細い糸のように、紳の言葉はスルスルと真彩の耳に入りこんで、意識の芯に絡みついた。茶色の瞳が、また夜の星空みたいに見えて、真彩はまばたきをした。見間違いではなく、紳の目は深い藍色に変わっている。 「真彩……ただひと言、うんって言ってくれればいいだけだよ。それで君は、俺のものになるんだ。ねぇ、真彩。俺に誓って。星々が証人になってくれる。俺のものになるって……ずっと俺のそばにいてくれるって、そう言って」  木の根元に座らされ、両手で頬を包まれた真彩は、紳の瞳の夜空を見つめた。星空は好きだ。けれど彼の目にあるものは、なにかが違う。真彩が求めている星空ではない。 (グラペウスを待ちながら見ていた空じゃない)  この星空は、やさしくもあたたかくもなかった。 「わ、私」  期待に満ちたまなざしの紳に違和感を覚えて、浅く胸をあえがせた。心の奥が疼いている。  ふいに、耳の奥で声が聞こえた。 ――これからの君の、人としての人生を奪ってしまいたくはないんだ。  グラペウスのかなしげな微笑が心にぶつかって、真彩は紳の手から顔を振って逃れた。 「真彩?」 「私……そんなことを言われても、困る」 「どうして。真彩は、俺が嫌い?」 「嫌いじゃないけど」 「じゃあ、好きなんだね。だったら、いいでしょう」 「嫌いじゃないから好きだとは限らないわ」  ムッと紳が眉間にしわを寄せて、唇を尖らせた。 「真彩は、俺のために歌い続けなきゃいけないんだよ」 「紳さんが教えてくれたものだから?」 「そう。真彩は俺のそばで、ずっと、ずうっと歌い続けるんだ。なにもかもを捨てて、俺のところに来るんだよ」  紳の瞳の奥にある星のきらめきのひとつが、かがやきを増して真彩を呑み込もうとする。そらした視線を戻されて、真彩はおびえた。 「やだ、紳さん……なんか、怖い」 「怖くなんてないよ。ねえ、真彩……俺と真彩は、これからずっと、ずうっと一緒に過ごすんだ。とっても素敵な場所で、真彩は歌い続けるんだよ。真彩もきっと気に入るさ。だって真彩、森のなかが好きだろう? 都会よりも、こういう木がたくさんある場所で過ごしたいよね。だから、再会した日、歌うために、ここに来たんでしょう? こういうところじゃないと、気持ちよく歌えないから」 「そ、れは……ええと……それって、地元に戻って暮らそうってこと?」  鳥肌を立てながら問う。おだやかなはずの紳の笑顔が、とてつもなく怖かった。別人になってしまったかのようだ。 「地元……地元……うん、地元だね。俺の地元。俺の故郷。俺の住む場所。俺の居場所。そこに真彩を招待するよ」  背後の大木がざわめいて、真彩の肌から血の気が引いた。得体の知れないものが近づいてくる予感に、心臓が硬くなる。 「真彩」  毒を含んだ甘い声に、真彩の喉奥で悲鳴が生まれる。それが音になる前に紳の唇で口をふさがれ、舌で悲鳴を潰された。 「んっ、んんっ、ん……ふ……んぅうっ」  紳の肩を押したり叩いたりしても、なんの抵抗にもならなかった。背後で木の葉の擦れる音がしたかと思うと、体になにかの蔓が巻きついた。 (なに、これ)  絡みついてきたものが紳の肩越しに見えて、真彩は目を見開いた。木の葉をたっぷりとつけた細い枝が、蛇のように揺れている。 「っ!」  地面を蹴って身をよじり、逃れようとしたが無駄だった。しなやかな木の枝は、真彩をしっかりと捕らえている。 (なにこれ、なにこれ……なにこれ!)  おなじ単語が脳内で旋回している。まったく状況を理解できない。 「怖がらなくてもいいよ。俺の故郷に、真彩を招待したいだけだから。痛くもかゆくもないからね。移動のあいだは、目を閉じていて。でないと、視界がグルグルしちゃうよ?」  ほら、と手のひらで目隠しをされ、真彩はさらにパニックになった。 「いや……なに? ねえ、紳さん……これ、なんの手品? それとも、催眠術かなにかなの?」 「どっちでもないよ。ああでも、そうだなぁ。人間にわかりやすい言葉で言うと、魔法……あるいは奇跡、かな?」 「なにそれ! そんなもの、あるわけない」 「あるんだよ。すぐに、あるんだって信用することになるから。ねえ、真彩……俺の本当の名前を教えてあげる」 「本当の名前?」  恐怖に押しつぶされまいとしながら、真彩は震える声を出した。 「そう。本当の名前。それを呼びながら結ばれれば、真彩は永遠に俺のものだ。だから、大切に扱ってよね――俺の名前は、ゼーロテュピアー。君たち人間が、妖精と呼んでいるものだよ」  背中から幹の感触が消え失せて、後ろ向きに倒れた……はずが、グングンと落下している。錯乱しすぎて声も出せなくなった真彩を、紳の両腕が包んでいた。 「怖がらなくていいよ。すぐに到着するからね」  その言葉どおり、落下の感覚はふんわりとしたクッションに受け止められて、すぐに終わった。ボフンとなにかに包まれた真彩の目から、紳の手が外される。 「ようこそ、俺たちの森へ」  ニッコリした紳が両腕を広げる。真彩はおそるおそる身を起こして、まずは自分を受け止めたものを見た。白い、綿のかたまりが広がっている。手触りのいいそれを撫でると、牛とも羊ともつかない鳴き声がした。 「ひゃっ」 「怖がらなくてもいいよ。おとなしいから」  紳の手に引かれて降りると、異様にモコモコした巨大な羊がそこにいた。牛ほどもある羊など、聞いたことがない。 (でも、世界には私の知らないことなんて、山ほどあるだろうし)  こんな品種がいたって、おかしくはない。それよりも、どうして夜の公園に巨大な羊がいるのだろう。 (ていうか、なんか……すごく明るい)  昼間の日差しが降り注いでいる。  真彩はゆっくりと首をめぐらせた。空から、春みたいにうららかな光が振ってくる。それを受ける木の葉はキラキラとかがやいて、木々は枝をのびのびと広げていた。背の高い木の隙間から、腹のあたりが紺色の、ほかはあざやかな青色をした鳥が現れた。もう一羽、ほかの枝から姿を現し、二羽は連れだって飛んで行った。  視線を下げて足元を見る。こぼれ落ちる陽光を浴びた草が、真彩の重さを受け止めていた。顔を上げて、ぐるりと周囲を見まわす。実家のある山のなかよりも、ずっとあかるい森が広がっていた。草木の匂いが空気にたっぷりと含まれている。 「ここ、どこ?」  どう見たって、あの公園じゃない。 「俺の故郷」  呆然とする真彩は、うれしそうな紳の笑顔を不気味だと感じた。 「そんな顔をしないでよ、真彩。きっとすぐになじむから。大丈夫だよ。真彩は人間だけど、妖精の歌が歌えるんだから、森は真彩を歓迎するよ。だから、心配しないで」  はげますように両手を握られて、真彩は身を硬くした。 「なんなのよ……どういうこと? 冗談よね」 「冗談でも夢でも幻でもないよ。ここは、妖精の森。人間の世界の隣にある、君たちがいつの間にか見ようともしなくなった国だよ」 「紳さん」 「忘れたの? ああ、呼びなれていないだけかな。俺の名前はゼーロテュピアー。さあ、言って」  ほらほらとうながされて、警戒しながら、ゆっくりと彼の名前をつぶやいた。 「うん、そう! それが俺の本当の名前。これからは、その名前で俺を呼んでね。ふふ……うれしいなぁ。やっと、真彩をここに連れてこられた。これからは、俺とたのしく過ごそうね。ねぇ、真彩」  はしゃぐ紳――ゼーロテュピアーの無邪気な様子に、真彩は気が遠くなった。 「あっ、真彩」 (私、どうなっちゃうの? ……ああ、グラペウス)  気を失う直前、思い出した紫の瞳に助けを求めた真彩は、胸元をにぎりしめた。  * * *  湖にぽかりと浮かんで空を見ながら、真彩は細く長いため息を吐いた。水はやさしく真彩を支えて、ゆらゆらとあやしてくれる。空は高くさわやかで、木々の香りも心地いい。それなのに、ちっとも開放的な気分になれなかった。 (私、なにやってるんだろう)  水に潜って軽く泳ぎ、岸に上がる。木の枝にかけていた布を取って体に巻きつけ、複数の色糸で編まれた帯で腰を縛った。ギリシャとかローマあたりの、古代の服装みたいだ。下着がないのは落ち着かないが、与えられなかったのでしかたがない。  濡れたまま服を着たが、不快感はなかった。真彩は地面から盛り上がった木の根に腰かけて、膝に肘を乗せて頬杖をついた。  深く重いため息がこぼれ落ちる。 (なんで、こんなことになっちゃったんだろう)  夢ならはやく覚めてほしいが、夢ではないとわかっている。ゼーロテュピアーと名乗った紳は、とりあえず森の生活に慣れるようにと言って、どこかへ行ってしまった。 「ああ」  憂鬱を音にして、頭を抱える。気絶をしている間に、着替えさせられた。カバンも取り上げられてしまった。出かけたゼーロテュピアーを待つという選択肢もないではなかったが、じっとしていられなくて真彩は歩きまわることに決めたのだった。  あてもなく進んでいると、湖を見つけた。頭をスッキリさせたくてひとしきり泳いでみたのだが、ちっともスッキリできなかった。 (なんなのよ、ほんと……わけわかんない)  濡れた髪に触れてみる。短い髪は、祖母の望みだった。 ――長い髪は、陰気を呼びやすいからねぇ。人ならざるものが、近づいてくるんだよ。  祖母の言っていた意味が、わかりたくない形でわかってしまった。ゼーロテュピアーは人ではない。彼の言葉を信用すれば、妖精となる。  変な人だと片づけることはできなかった。夜の公園から真昼の森に、一瞬で連れてこられたのだから、信じるほかはない。 「妖精の歌……かぁ」  だから祖母は、歌うことを禁じたのか。祖母はきっと、知っていたのだ。どうして知っていたのか、祖母に聞いてみたい。
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