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第3話

「なん……っ」  真っ赤になって、真彩は両手で顔をおおった。  なんて夢を見たのだろう。今度は歌うだけでなく、キスやそれ以上までしてしまった。心臓が全力疾走をした後のように、バクバクと激しく動いている。  寝返りを打てば、布団がゴソリと音を立てた。体をまるめてじっとしていると、目覚ましが鳴りだした。パコンと止めて起き上がる。 「はぁ」  とんでもない夢だったなぁと息を吐いて、洗面台に向かった。鏡を見て、いつもどおりのベリーショートな自分を確認し、安堵と落胆を同時に味わう。 「変な夢」  音にすれば、胸の奥がヒヤリとした。夢にしたくない自分を見つけて、乱暴に顔を洗う。顔を拭いて鏡を見ると、ふいに彼の名前が脳裏に浮かんだ。 「グラペウス」  つぶやけば、心臓のあたりがざわめいた。ほんのりとあたたかくなった胸に手を当てて、深呼吸をして気持ちをなだめる。  いったいなんだったのかと首をかしげて朝食をとり、着替えを済ませて出勤した。  可もなく不可もない、いつもどおりの勤務を終えて駅に向かう。今日はずっと、グラペウスのことが頭にこびりついて離れなかった。いつもは目が覚めると、だんだんと内容を忘れていくのに、彼の名前も瞳もキスの感触もリアルに肌に残っている。 (夢のなかで死んでしまったら、錯覚した脳が体にそんな命令をして、ほんとに死んじゃうことがあるとかなんか、ネットの記事で読んだことがあるけど……それみたいなものなのかなぁ)  まったくもってリアルな世界とは思えない状況だったが、脳が本物だと認識すれば体に影響が残るのなら、唇にキスの名残があるのもうなずける。 (VRとか、映像を観て体が反応するっていうのも、テレビでやってたし。脳をだます、なんて啓発本のタイトルも見たことあるし。きっと、そういうものだよね)  釈然としないながらも、言い訳の立つ理由をつけて納得し、駅の改札を通る直前、手首を掴まれた。  おどろいて振り向くと、ニコニコと邪気のない顔をしている紳がいた。  とっさに言葉が出せない真彩は、紳に引かれて改札から遠ざかる。声を発するタイミングを失ったまま、駅から離れる彼に引っ張られて歩き続けた。 「今日は、歌いに行かないんだね」  やっと止まった紳が小首をかしげる。笑顔を絶やさない彼を見上げて、どう返事をすればいいのか考えた。 「君がまた歌いにくるんじゃないかって、期待をしていたんだけど」 「あの、ええと」 「いまから、歌いに行く?」  首を振れば、さほど残念でもなさそうに「残念だなぁ」と紳は唇を尖らせた。 「それじゃあ、ご飯を一緒に食べようか」 「えっ?」 「だれか、待っている人とかいる? 約束があるとか」 「いません……けど」 「じゃあ、決まり!」  紳に手首を掴まれて、呆然としたまま連れていかれた。紳が選んだのはイタリアンの店だった。高い店ではなさそうだと店構えから判断した真彩は、店員に案内されて二階席へ落ち着いた。  席に着くまで、逃がすまいとするかのように、紳の手は手首にかかったままだった。傍目には、仲のいいカップルに見えただろう。 「なに食べる? 適当にいくつか選んでシェアをしようか。ワインはなにがいいかな」 「いえ、私は」 「カクテルのほうがいい?」 「ジュースで」 「ふうん……まあ、いいや。それじゃあ、メニューを決めようか。真彩はなにが好き?」 「ええと……町川さんは、なににしますか?」  気圧され気味に真彩が言えば、紳はキョトンと目をまるくして、プウッと頬をふくらませた。 「町川さんとか、他人行儀な呼び方はやめてほしいな。紳って呼んでよ。それと、敬語もやめにして。昔みたいに、ふつうの友達の言葉遣いで話そうよ」 「はぁ……でも」 「ほら、言い直して」  ムスッとする紳にうながされて、しぶしぶ言い直した。 「紳さんは、なにがいい?」  パッと紳の気配が明るくなった。機嫌よく開いたメニューを見せられる。 「俺はねぇ、この魚介のサラダと鴨のローストと……パスタは真彩の好きな物がいいな」 「それじゃあ、本日のおすすめを」  真彩は壁にかかっている黒板の「本日のおすすめ」に視線を向けた。たっぷりキノコのサーモンクリームと書いてある。紳も首を動かして黒板を確認し「いいね」と笑った。 「飲み物は?」 「じゃあ、ジンジャーエールで」 「わかった。すみませーん」  呼ばれた店員がすぐにテーブルにやってきて、紳がテキパキと注文をする。強引に連れてこられた真彩は、彼のことをなつかしく思う反面、尻の座りが悪くて落ち着かなかった。なにか、大切なことを忘れている気がする。それが、思い出せとみぞおちの奥でざわめいていた。  すぐに飲み物が運ばれてくる。紳は白ワインのグラスをかかげて、笑みを深めた。 「ふたりの再会に、乾杯しよ」  誘われて、真彩もグラスを持ち上げた。カチンと軽く触れあったグラスのふちが、涼やかな音を立てる。 「やあ、でも……うれしいなぁ。昨日、やっと真彩と再会できて、こうやって一緒にご飯も食べられるんだもん」 「どうして、駅前にいたの?」 「真彩を待つためだよ。真彩、あの駅を使っているんだろ」 「そうだけど、どうして」 「真彩に会いたかったから」 「どうして」 「ずっと、真彩の歌を聞きたかったんだ。歌わなくなってしまったときは、ものすごくかなしかったけど。でも、まだ忘れていなかったんだね」  笑顔の紳の瞳の端に暗い炎が見えた気がして、真彩の背筋はゾッと冷えた。サラダが運ばれてきて、そちらに視線を移してからあらためて紳を見ると、そんな気配はみじんもなかった。うれしそうな、無邪気な気配しか見当たらない。 (見間違い、だったのかな)  とまどう心が、不穏なものを作り出してしまっただけなのかもしれないと、真彩は紳が取り分けてくれたサラダを口に運んだ。 (なつかしく感じているのは、間違いないんだし。なにより、私が歌っていたことを知っているんだから、知り合いなのは絶対よね)  あの歌を聞いたことがあるのは、祖母と両親だけのはずだった。 (それと、夢のなかの……あの人)  グラペウス、と名前を心でつぶやいて、真彩はハッと顔を上げた。 (もしかして、紳さんとの再会がきっかけで、夢があんなふうに発展した……とか?)  頬が熱くなって、真彩はジンジャーエールに手を伸ばした。火照った顔を落ち着かせようと、よく冷えたジンジャーエールを喉に流す。 「どうしたの? 顔、赤いけど」 「なんでもない。その、紳さんは、いつ私の歌を聞いたの? あの歌がなんなのか、どこの国の言葉なのかは知っているの?」 「もちろん」  わずかに胸をそらして、紳は答えた。 「あれは、妖精の歌。分類するなら、ラプソディってところかな」 「ラプ……ソディ?」  単語は聞いたことがあるけれど、それがどんなものなのかは知らなかった。首をかしげると、どこか誇らしげに紳は説明する。 「そう、ラプソディ。感情のままに、いろんな旋律を紡ぐものだよ。吟遊詩人がメロディに乗せて物語を伝えたり、感情のままに演奏したりするイメージって言うと、わかりやすいかな」 (吟遊詩人って、ファンタジーの世界でしか知らないけど、昔はそういう人がほんとうにいたのかな)  歴史にあまりくわしくない真彩は、紳は音楽家かなにかなのかなと考えた。 (だけど……感情のままに演奏かぁ)  言い得て妙だと、真彩は歌っているときの感覚を思い出した。体の隅々から想いが心臓に集まって、肺に流れて喉を通ると歌になる。  あれはまさに、感情を旋律に変えているとしか言いようのない状態だった。だからこそ心地いい。おなじ歌のはずなのに、まったくおなじものにならないのは、そういうことだったのかと、認識の殻が割れてスッキリとなじんだ。 「あの歌を教えたのは、俺なんだよ」  フフッと口の端を持ち上げた紳に、真彩は目をまたたかせた。 「忘れちゃった? ひとりで山に入って迷子になった真彩を、俺が家の近くまで案内したんだよ。その間に真彩が泣き出しちゃって。だから俺が歌って真彩をなぐさめたんだ。そうしたら真彩は、すぐにコツを覚えて歌えるようになった」  紳は、懐かしそうに遠い目をした。 「おどろいたなぁ……まさか、あんなにすぐに、できるようになるなんて、思わなかったからさ」 「紳さんは、どのあたりに住んでいたの?」  山に迷った真彩を案内できたのだから、あのあたりの地形に精通しているということになる。しかし子ども会や学校、祭などの集まりで紳を見た覚えはない。となれば近隣の、違う集落に住んでいたのだろうか。  紳はすこし間を開けてから片手を上げて店員を呼び、ワインをたのんだ。真彩もジンジャーエールを追加でたのむ。答えをはぐらかされたのかなと思いかけたころに、紳は言った。 「あそこに住んでいるわけじゃないよ。だけど、ときどき遊びに行くから、あのあたりのことは知っているんだ」 「そうなんですか」  ということは、集落のなかのどこかの家の親族なのだろう。学校が長期休みになると、ちょっとしたアウトドア旅行の気分で、各家には子連れの親戚がおおく集まる。そのなかに紳もいたのだと真彩は納得した。 「真彩と出会えたのは、ほんとうによかったな。あんなふうに妖精の歌を歌える人間がいるなんて、思わなかったから」 「人間?」  ひっかかった単語を繰り返せば、紳はニッコリした。ずっと笑顔なのに、そのなかでも笑顔の段階を上げたり下げたりできる彼は、器用だなぁと感心する。 「妖精の歌だから、人間が歌えるのは珍しいだろう?」 「……はぁ」  生返事をして、真彩はすこし考えた。 (なにかの謎かけみたいなものかな。妖精なんて、いるわけないし。そういうタイトルというか、そういうイメージの歌だから、人間がどうの……なんて言っているのかも)  紳は浮世離れした人なんだなと、結論づけた。音楽家をはじめとした、芸術家や、学者なんかは不思議な理論持っていたり、物言いをしたりする人が多いと聞く。紳もそういったたぐいの人なのだろう。  食事を終えて店を出れば、紳に手をにぎられた。ビックリすると、紳に「こっち」と手を引かれた。 「あの、どこに?」 「こんなに明るいと、星が見えないだろう」  たしかに周囲は店々の明かりが煌々と灯っていて、空には星影ひとつ見えやしない。だからといって、ここから星が見える場所までどのくらいかかるのか。というか、どこに連れていかれるのかと、不安になった。 「紳さん」 「大丈夫。俺を信じて」  振り返った紳の目がキラキラとまたたいている。クラリとめまいを覚えて、真彩は軽く目を閉じた。 「真彩?」 「ん、ちょっと、クラッときちゃって」  フウッと息を抜いてまぶたを上げれば、間近に紳の顔があった。ギョッとした真彩の視線が紳の瞳に捉えられる。星屑を散らしたようなかがやきを放つ目に、真彩の意識はふわりと浮いた。足元がおぼつかなくなるような、脳がゆらゆら揺れるような感覚に襲われて、真彩は薄く唇を開いた。意識の芯がふやけて、思考が鈍る。 「行くよね? 俺と」  ぼんやりとしたまま、真彩はうなずいた。紳に手を引かれて連れていかれたのは、昨日彼と出会った公園だった。すっかり暗くなった公園に人影はない。紳は外灯もまばらな公園をズンズンと進んでいく。手を引かれて、真彩も公園の奥へ向かった。手入れのされた木々や草の生えた広場を抜けて、うっそりとした木の影に包まれている場所に来る。 「ここなら、いいかな」  紳が視線を上に向ける。つられた真彩も空を見上げた。星のひとつさえ見えなかった駅前の空とはまったく違った、うつくしい星空が広がっていた。 「わぁ」  目を見開いて、真彩は星々に見入った。足元から、ふつふつとなにかが湧きたってくる。木々からほんのりと誘いの気配が漂ってきて、真彩の喉に旋律が溜まった。 「さあ、歌って」  うながされて、真彩は音を紡いだ。紳に言われなくとも、歌っていただろう。そのくらい、真彩の心は星空と木々たちに揺さぶられていた。  細く高く、真彩の紡ぐ旋律が星空にくゆって広がる。真彩は星空の先にグラペウスの瞳を浮かべていた。彼に届けと歌っていた。  想いの旋律はとめどなくあふれて、途切れることを知らなかった。真彩はひたすら歌い続けた。時間も忘れて、グラペウスの紫の瞳に向けて喉を震わせる。  どのくらい歌っただろうか。ふっと喉に空気が引っかかった。 「ぅ……けほっ、けほっ」  歌いすぎて乾燥した喉がザラついて咳き込んだ。いつのまに買っていたのか、紳がペットボトルのお茶を差し出す。礼を言って受け取った真彩は口をつけ、ひと息ついた。 「ひさしぶりにたくさん歌ったから、喉が疲れちゃったんだね」  たのしげな紳に、真彩は同意とも否定とも取れるあいまいな動きで、ちいさく首を振った。 「ごめんなさい」 「どうしてあやまるの?」  問いに、真彩は口をつぐんだ。歌ったのは、ひさしぶりではなかった。夢のなかで、グラペウスの前で歌っていた。いまも、聞きたいと望んだ紳のためではなく、グラペウスを想って歌っていた。 (でも、あれは夢のなかでのことで、大人になってから歌ったのは、これが二回目)  昨日と、今日だ。 (昨日は、そんなに長くは歌わなかったし)  紳の登場で歌を途中でやめたから、歌い切るのはひさしぶりになる。  なにも言わない真彩に小首をかしげて、紳は「まあいっか」とつぶやいた。 「やっぱり真彩の歌はいいね。もっともっと聞いていたくなるよ」  臆面もなくほめられて照れくさくなり、真っ赤になってうつむいた。大人になるにつれて、ほめられる回数は減っていった。こんな風に、真正面からほめられたのは、どのくらいぶりだろう。それが祖母に禁止されて、好きなのにやめてしまったことだったのが、よろこびに拍車をかける。 (私、また歌ってもいいのかな)  祖母の顔を思い浮かべて、チクリと胸を痛ませながらも、歌いたいと望んでいる。いままで歌わなかった分、思い切り旋律を紡ぎたかった。 「ねえ、真彩」  紳の手が真彩の首にかかる。顎を持ち上げられて、星空みたいな紳の目を見た。彼の瞳は茶色だったはずなのに、なぜかいまは夜空のような濃紺に見える。深い青のそこここに、星に似たきらめきがまたたいていた。 (すごく、キレイ)  深みのある紳の瞳に意識を吸い込まれた真彩は、キスをされたと気がつくのに時間がかかった。 (えっ)  唇がやわらかく押しつぶされていると把握した真彩の腰が、しっかりと引き寄せられる。細身の紳のどこに、そんな力があったのかとおどろくほど、有無を言わせぬ強さだった。後頭部を手のひらで押さえられ、唇の隙間に舌を差し込まれる。口腔をまさぐられて、真彩は目を白黒させた。 「んっ、ふ……ううっ、んっ、んんっ……ん……ぅうっ、ふ」  逃れようにも、しっかりと抱きしめられていて身動きもままならない。腕が重石をつけられているみたいに、力が入らなかった。舌は縦横無尽に真彩の口内を探索している。強引に快楽を引き出されて、真彩は身震いした。  気持ちがいいのに、なにかが違う。心が置いてけぼりをくらっている。それなのに、あらがえない。 「んぅ……っ、う……ん、んんっ、ぅ……ふ、ぅうっ、うんっ、ん」  腰にある紳の手が下がって、真彩は尻をわしづかまれた。ビクンと跳ねると、紳の目が満足げに細められる。尻の谷のはじまりをくすぐられて、ゾクゾクと快楽の悪寒が生まれた。  じりじりと移動させられ、木の幹に背中を押しつけられる。スーツの胸元に紳の手を感じて、目を閉じようとしたができなかった。視線が紳の夜空の目から外せない。 (なに、これ……なんなの?)  眉間にシワを寄せると、紳の顔が離れた。尻にあった手が外れて、真彩はズルズルとその場にくずおれた。 「ちょっと、刺激が過ぎたかな」  ペロリと舌を出した紳が、悪びれたふうもなく手を差し伸べてくる。真彩はボウッと指先を見るだけで、その手を取らなかった。やれやれと吐息をこぼして、紳がしゃがむ。 「ねえ、真彩。真彩は俺のお嫁さんになってくれるよね?」 「えっ」 「そのために、俺は真彩を探しに来たんだよ」  言われたことが理解できずに、真彩は靄のかかった意識のままで紳を見た。紳の笑顔は自信に満ちている。真彩が承諾するものと確信している顔つきだった。 「わ、私は」 「いきなりで、ビックリさせちゃったかな。まあでも、その歌を気に入っているのなら、ぜったい俺のことも好きになるから。というか、真彩が俺以外を好きになるなんて、しちゃいけないから」  クスクス笑う紳の手が、真彩の短い髪にかかった。 「真彩、髪を伸ばしなよ。せっかくキレイな黒髪なんだから。手触りもいいし」  毛先を指でもてあそぶ紳の笑顔が、なぜだかとても恐ろしくなった。 「昔は、もっと長かったよね。ひとつにくくれるくらい長かったのに。どうして、こんなに短くしたの?」 「えっ」  肩より長くしたことがないのに、髪をひとつにくくれるはずはない。彼はなにを言っているのだろう。 「だれか、別の人と勘違いをしているんじゃない?」 「どうして」 「私、肩より長く伸ばしたことがないもの。ひとつに束ねられるほど、長かったことなんてないわ」  ふうんと紳が目をクルクルさせる。好奇心旺盛な子どもめいた表情に、真彩の恐怖心はすこし薄れた。 (いきなりキスとかされたから、それで怖くなっちゃったのかな)  尻まで掴まれたのだから、怖くなって当然だ。けれどいまは、なんともない。おどろきが恐怖に育ってしまっただけなのか。紳の笑顔には屈託がない。恐怖を感じた自分がバカらしくなって、真彩は警戒を解いた。
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