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第2話

「わっ、と」  よろめいた紳に頭を下げて、真彩は全速力で駆けた。心に紫の瞳が宿っている。名前を呼んだのは、夢のなかで出会った彼だ。彼が紳とキスをしようとしている真彩に、かなしみを向けている。  息を切らして駅に向かい、ホームに入った真彩は膝に手をあてて呼吸を整える。 (どうして、私)  紳のキスを待ったのか。紳はなぜ、キスをしようとしたのか。夢の瞳を裏切りたくないと考えているのか。 (わからない)  電車がホームに入ってきた。乗り込んだ真彩はぼんやりと車窓に目を向け、暮れなずむ景色を見るともなしにながめながら帰宅した。  * * *  石造りの城のテラスで、真彩は空を見上げている。今日は歌を紡いでいない。長い髪を風になぶらせて、スプーンを伸ばせば好きなだけ掬えそうな、星降る空をじっと見ていた。  硬質な靴音に耳を打たれて、真彩は振り向いた。ふわりと広がったドレスの裾が揺れる。現れたのは白銀の髪と紫の瞳の持ち主。いつも真彩の歌を聞いている、彼だった。 「……っ」  名前を呼ぼうとして、彼の名を知らないと気づく。もどかしさに唇がムズムズした。真彩は近づく彼を待った。彼は困り顔でほほえんで、真彩の前に立った。 「邪魔を、してしまった」  耳心地のいい低音に、真彩は首を振った。なにに対しての謝罪なのかは、言われなくともわかっている。 「キスを、受けようとしていたのに」  真彩はまた首を振った。紳とのキスを止めてもらえてよかった。気持ちをこめて真彩が笑うと、彼の困り顔がなごんだ。けれど紫の瞳には、まだかすかに哀傷がただよっている。 「真彩」  彼の手が持ち上がり、真彩の頬に触れようとして指が迷った。真彩は一歩、彼に近づいた。彼の手がおそるおそる真彩の頬に触れる。キスをしたがっているのだと、真彩にはわかった。紳のキスを受けようとしていたときとは違う、能動的なものが真彩の背中を押した。  かかとを持ち上げ、真彩は彼の首に腕をかけて顔を寄せた。長身の彼の唇には、あとすこし届かない。 「真彩」  迷いを含んだ声が唇に触れるのを、真彩は望んだ。腕に力を込めて彼をうながす。 「いいのか」 「はやく」  ささやいた真彩の声を、彼の唇が拾った。うれしくて、真彩は彼にもたれかかった。彼の腕が真彩の腰を抱き上げる。クスクス笑いながら、真彩は彼の首に頭をこすりつけた。 「真彩」 「私も、呼びたい」  乞えば、彼は視線を迷わせ、空を見上げた。なにかを堪えている横顔が自分に向くのを、真彩は待った。彼は真彩を見ないまま、真彩を抱えて部屋に入る。広々とした部屋には、天蓋つきのベッドがあった。五人くらいが並んで寝ても平気そうなおおきなベッドに、真彩はそっと降ろされる。ドキドキと心臓がよろこびと期待に高鳴った。 (私、この人と結ばれたがってる)  彼のかなしみを解けるのは自分しかいないと、真彩は確信した。理由など知らない。ただ、その事実だけがあればいい。 「真彩」  いつくしみをたっぷりと含んだ呼び声は、震えていた。長い髪を撫でられて、真彩は飼い主の膝に甘えるネコのように、彼の胸に顔を寄せた。自分とは違う匂いをもっと感じたくて、彼の背に腕をまわす。彼はとてもたくましくて、小柄とはいえない真彩を腕のなかにすっぽりと収めてしまえる。 (すごく、落ち着く)  彼に愛されている実感が、ヒタヒタと胸に迫って体中をあたためる。彼は真彩を心の底から求めている。だからこその悲哀なのだとわかっている。それを拭いたくて、真彩は歌っていたのだ。彼への想いを体中で奏でていた。  それなのに、彼は真彩を遠ざけようとしている。欲しているのに、手に入れようとせずに。ただ、歌を聞くだけで満足をして、それ以上を求めようとしてこない。真彩はなにもかもを彼に差し出して、瞳に宿るかなしみを溶かしてしまいたいと望んでいるのに。 「名前を、教えて」  彼を呼びたい。  強い願いを込めて見上げれば、彼はすこし迷ってから不思議なことを言った。 「名前を教えたら、真彩は俺に縛られることになる。おまえはそれでもかまわないのか」 「あなたは私の名前を知っているのに、私があなたの名前を知らないのは、不公平よ」  唇を尖らせた真彩に苦笑して、彼は幼子をあやす手つきで真彩の髪を撫でた。 「名前の質が違う」 「名前は名前でしょう? ねえ、教えて。あなたの名前を」 「ここに、ずっと閉じ込められるかもしれないぞ」  声をすこし怖くした彼に、真彩は軽やかな笑い声を立てた。 「あなたがずっと、一緒にいてくれるんでしょう?」  だったら、なんの問題もない。真彩はずっと昔から、彼とともに過ごしていたいと思っていたのだから。彼のために楽器になって、旋律を奏でていたのだから。 「ねえ、教えて。あなたの名前」  彼はゆるゆると首を左右に動かした。真彩は眉根を寄せて、彼の頬を両手で包んだ。 「どうして、教えてくれないの。私と一緒にいるのは、イヤ?」 「そうじゃない」 「じゃあ、どうして」 「真彩を縛るのは、まだはやい」 「まだ? それじゃあ、いつになったら教えてくれるの」 「わからない」 「それって、その日がこないかもしれないってこと?」  彼は口をつぐんでしまった。真彩はムッと唇を突き出して、紫の瞳をのぞき込んだ。 「約束したわ。私、あなたと一緒にいるって。大人になったら結婚するって。私はもう、大人になったわ」  ほら、と真彩は両手を開いた。 「立派とは言えないけど、自分のことは自分でできるし、自分で決められる大人よ。その私が、あなたの名前を知りたいと言っているの。ここに閉じ込められても、あなたがいるならいいって言っているのよ。だから、名前を教えて」  素直に気持ちを吐露した真彩に、彼は眉を下げてほほえんだ。 「俺の妻になる覚悟があるとでも?」 「あるわ! それをわかっているから、私に白いドレスをくれたんじゃないの? これは、ウエディングドレスよね。あなたからのプロポーズだと思っているんだけど、そうじゃないの?」  彼はうつむくと、片手を顔にあててクックッと喉を鳴らした。彼の笑い声をはじめてきいた真彩はうれしくなって、表情を見ようと首を伸ばした。彼の手が真彩の肩にかかり、押し倒される。体がふかりとベッドに沈んで、真彩は目をパチクリさせた。彼の影が真彩を包む。 「俺に抱かれる覚悟が、あるのか」 「結婚をしたら、するってことくらい知っているわ」  どうして彼がこれほど慎重に、繰り返し確認するのかが真彩にはわからない。真彩は両腕を広げて、彼を誘った。 「私、ちっとも怖くないから。試してみて! それで私がちゃんとできたら、名前を教えてね」  ニッコリした真彩に、彼は面食らった。その顔がおもしろくて、真彩はクスクス笑う。 「まったく……すこしも変わらないんだな」  苦笑した彼の雰囲気がやわらかくなって、真彩はさらにうれしくなった。子どものころの真彩が――真彩の本質の部分が、彼の前だとむき出しになる。それが、たまらなくたのしかった。  魂が、とても自由だ。 「真彩」  彼のささやきが耳朶に触れる。くすぐったくて、肩をすくめた。 「あっ」  舌で耳裏を撫でられて、ちいさな声を上げた。かすかな震えが肌に広がる。 「怖くなったら、すぐに止める」 「怖くなんて、なるはずないわ」 (だって、あなたが与えてくれるものだから)  胸の裡でつけ加えて、彼の肩に指をかけた。彼の白銀の髪がサラリと流れて、真彩の黒い髪に重なる。彼の唇は決心をつけかねる動きで、真彩の頬や耳のあたり、首筋を行き来していた。もどかしくて、真彩は彼のローブに指をかけた。銀の飾り台で囲まれたルビーの留め具を外すと、白いシャツが現れた。首元まできっちりと止めているボタンに指をかけた真彩の手首が、彼の手に止められる。 「積極的だな、真彩は」 「だって、はやく名前を教えてもらいたいもの」  あなたを呼ばせてと告げた真彩の瞳に、彼の唇が落ちる。まぶたを閉じた真彩は、顔中に降り注ぐ彼の唇にほほえんだ。 (私、とても大切にされている)  彼の唇は首を滑り、今度は耳には戻らずに鎖骨に到達した。ドレスの留め具が外されて、肌があらわになる。ゆっくりと布をはぐ彼の視線に撫でられて、緊張に息をつめた。 「真彩」 「平気。怖いんじゃないの。すこし、恥ずかしいだけだから」  目を閉じたまま、うん、と彼がかすかにうなずく気配を感じた。慎重な手つきでドレスが奪われる。ドレスの下は、ショーツだけだった。ドキドキしながら、おそるおそる目を開けた。じっと彼がながめている。 「ね? 大人になっているでしょう」  子どものころにはなかった胸のふくらみに、彼の視線を感じた真彩の声はかすかに震えていた。羞恥と期待が肌をさざめかせている。やっと彼と一緒にいられるのだと、魂がよろこびにたぎっている。 「ああ……大人になったな。真彩」  目を細めた彼がシャツのボタンに手をかけた。ゴクリと喉を鳴らして、彼がシャツを脱ぐのを見つめた。  みっしりと盛り上がった胸筋に、真彩の心はときめいた。なめらかな白い肌は、うらやましくなるほどだった。彼は上半身だけ裸になると、真彩におおいかぶさった。 「ねえ」  名前を呼べないことが、とても苦しい。いますぐにでも彼の名前を呼びたいのに、どうして教えてくれないのだろう。はじめて会ったときも、おなじ疑問を浮かべた。そのときも彼は「縛ってしまうから」と答えた。 (私は、縛られたいのに)  やさしくて、とてもおおきくキレイな人は、あのときもさみしそうだった。笑っているのに、真彩としゃべっているのに、ひとりぼっちの気配を漂わせていた。真彩の歌に惹かれたのだと言って、真彩の歌をよろこんで聞いてくれた。彼を見つめていると、いくらでも旋律が喉からこぼれ出た。彼の前で紡ぐ歌の源は、すべて彼だった。彼がいないときでも、彼を想って歌っていた。  いつのまにか、たずねてくれなくなった彼のために、真彩は歌い続けていた。  そうではなく、祖母に止められて歌わなくなったから、彼と会うこともなくなったのだったか。  どちらでもいい。いまは、それよりも大切なことがある。彼の視線を、指を、唇を感じることだ。彼を想って旋律を奏でるのではなく、彼につま弾かれたい。  喉の奥で、知らない彼の名前を望んだ真彩の唇を、彼の息がくすぐった。唇が重なり、真彩は指を伸ばして、彼の広い肩やたくましい腕、盛り上がった胸筋をなぞった。 「は……んっ、ん……んぅ、う、ふ……んんっ、ぁ」  彼の舌が唇の隙間から口内に入ってくる。真彩は舌を伸ばして彼を招いた。舌先でくすぐりあうと、胸の奥がトロリととろける。紫の瞳に緊張と警戒が浮かんでいた。その奥によろこびと抑え込まれた興奮を見つけて、真彩は大胆に彼の頭を引き寄せて、彼の唇の奥を舌で求めた。 「ふ……ぅ、んんっ、ふ……ぅん」  舌を吸われて、鼻にかかった甘く高い声を上げた。頭の芯がジワリと痺れて、腰のあたりがちいさく震える。脚の間に違和感を覚えて、快感の兆しを発見した真彩は、彼のキスに感じている自分に満足した。  もっともっと、彼を感じたい。  たしかめるようなキスは、舌の根元がだるくなるほど続いた。急く必要はない。急いてはいけない。彼は真彩を手に入れていいのかと迷っている。欲しいのに、真彩を大切に思うからこそ悩んでいる。その気持ちがうれしくて、受け入れることに専念した。  いきなり近づくと、彼をとまどわせてしまう。伸ばした手を引っこめてしまう。そろそろと近づいてきた野良猫が、一目散に逃げてしまうみたいに。 「は……んっ、ぅ……ああ、あっ、あ」  彼の唇が顎に移動し、喉を滑って鎖骨に下りた。手のひらで乳房を包まれ、先端の周囲の色づきを指の腹でなぞられる。乳嘴がツンと尖って存在を主張している。周囲をくすぐるのではなく、ちいさく硬い実をつまんでほしい。 「ぁ、はぁ……あっ、あ」  彼の名前を呼びたいのに、知らないことがはがゆくて、真彩は彼の髪を幼子の頭をあやすように撫でた。乳房を見ていた彼の視線が上がる。ほほえみかけると、彼はゴクリと唾を呑み込み、ゆっくりと乳房に吸いついた。 「あっ……んんっ」  チロチロと舌先ではじかれて、鋭く息を吸い、嬌声に変えて吐き出した。彼の舌は尖りとたわむれ、たっぷりと濡らしてくる。キュウッと吸われて、背をそらした。 「ああっ……ふ、ぁ……ああっ」  どうして彼の名前を知らないのかと、はがゆくなった。名前を呼びたい。壊れ物を扱うように、拒絶されることを恐れながら愛撫をしてくる彼の名を。 「真彩」  そっと呼ばれた真彩は、頭を持ち上げて彼の額にキスをした。名前を呼べないのなら、態度で彼を求めるしかない。その不完全さがもどかしくて、真彩は喉を震わせた。  不思議な音が真彩から発せられる。胸から顔を上げた彼は、じっとそれに聞き入った。ゆるやかな旋律は、真彩の気持ちそのものだった。彼へと流れる想いを集めて、奏でている。 「真彩」  ささやかな笑みを浮かべた彼の手が、頬に触れた。真彩は口を閉じて、じっと彼の瞳を見た。紫の瞳は迷いに揺れながらも、希望を含んでかがやいている。 「グラペウス」  彼の唇の動きに、真彩は視線を移動させた。 「グラペウス」  ふたたび彼が言って、真彩は口内でその言葉を繰り返した。 「俺の、名だ」  ひかえめな彼の笑顔を、真彩は力いっぱい抱きしめた。 「グラペウス!」  全身で叫んだ真彩の体が、よろこびにふくらむ。 「グラペウス」  呼びたいと望んでいた欲求をほとばしらせた真彩は、彼の頬を両手で包んでキスをした。 「グラペウス」 「真彩」  真彩が呼べば、グラペウスも真彩を呼んだ。ふたりで名を呼びあいながら、キスを繰り返す。細胞のすべてに彼の名前を刻みたい。うずく胸を伝えるために、真彩は彼の名を呼び続けた。  やがてキスは深くなり、真彩はうっとりと目を閉じた。グラペウスの唇が乳房に戻る。手のひらで芯を揉むように捏ねられながら先端を吸われて、真彩はよろこびの声を上げた。 「ああっ、グラペウス……あっ、ああ……んっ、ふ……ぁ、ああ」  乳を吸われるごとに、いとおしさが魂からにじみ出る。想いが彼の喉を通って、グラペウスの体の隅々にまで広がるイメージを浮かべた真彩は、これで彼とともにいられるのだと安堵した。 (やっと、なぐさめられる)  紫の瞳に映るさみしさを拭えるのだと、肌身を震わせた。真彩の歌は彼のため。体中の想いを集めて奏でる歌は、真彩のすべてを放つ行為。はじめて会ったときから、真彩の魂はグラペウスのためにある。 「あっ」  グラペウスの手が乳房から離れて、腰に移動した。そこから下に行こうかどうかと迷っている。 「グラペウス」  かまわないという意味を含めて、彼の名を呼んだ。女の園は、彼に触れられるのを待っていた。グラペウスの手が太ももに触れる。 「真彩……俺は、このままここにおまえを閉じ込めてもいいのか、まだ迷っている。いつかおまえが退屈をしてしまったときに、戻りたいと望んでもかなえられない」 「名前を教えてくれたのは、そうするって決めたからじゃないの? 私を縛るために、名前を教えてくれたんでしょう」  グラペウスは、どちらともとれる微笑を浮かべて口をつぐんだ。 「あなたといたいの、グラペウス。私、ずっとそう思っていたの。あなたもそうだから、私の歌を聞くために夢を渡って来たんでしょう?」 「そうだ……真彩。俺は、真彩の歌を聞きたい。真彩を傍に置いておきたい。妖精の歌を奏でられる真彩を。だが、そうすれば真彩は籠の鳥だ。ここで歌う以外に、なにもできなくなってしまう」 「カナリアみたいなもの?」  そうだな、とグラペウスが目を伏せる。紫の瞳が隠れて、真彩の心臓がギュッと苦しく絞られた。 「グラペウス」  ゆるゆると首を振って、真彩は彼の首に腕をかけて額に額を乗せた。 「ずっと一緒にいてくれるんでしょう? 私の歌を聞きたいって、思ってくれるのよね。こうやってキスをしたり、その先のことだってしてくれるのなら……グラペウスに愛してもらえるのなら、私、籠の鳥になりたい」 「真彩」 「だから、お願い……グラペウス。私をここに住まわせて」 「真彩」  グラペウスの唇が顎に触れる。真彩は彼の鼻先にキスをした。 「約束を守らせてほしいの、グラペウス」  グラペウスがなにかをつぶやき、真彩はそれを唇でふさいだ。
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