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大事な友人

 仕事をしている間は、余計なことなど考えていられない。でもふとしたときに、引っかかっていることが浮かんでくるものだ。各部署から回された伝票を入力しているとき、つい気が緩んでしまって彼の言葉とそのときの表情が浮かんできた。キーをたたいていた手が止まる。 『俺はいつも麻音子に優しくできているかい?』  なぜそんな言葉を掛けたのか、理由となるものが全く分からない。私が知り得る限りでは、龍之介さんはとても優しいし、気遣ってくれる人だ。むしろそんな人に恋人だからといって甘えていいものか、こちらが尻込みするくらいなのに、昨夜は――。  彼は昨夜に限っておかしかった。この一年のあいだに何度か抱き合ってきたけれど、こちらが怯んでしまうほど荒々しく触れられたことは一度もなかった。それだけに何があったのか気になって仕方がない。 (もしかしたら、今までずっとかなり抑えていたのかしら……)  男性の性的な衝動の激しさは頭では理解しているけれど、実際どういうものなのか分からない。だからいつもの龍之介さんが普通なのだと思っていた。だがあのような姿を見せられてしまったならば、この考えを改めないとならないだろう。彼は欲望に飲み込まれないように、耐えに耐えて私に触れているのだと。彼に我慢を強いていることに申し訳なさを感じながらも、それだけ大事にしてもらっていることが嬉しかった。やはり女心というものは、複雑なもの以外なんでもない。相反するような気持ちを抱えながら、止めていた手を動かすと、隣にいるみずきが声を潜めて話しかけてきた。 「ね、ね。麻音子」 「どうしたの?」 「また、なんかあったの? 思い詰めたような顔してると思ったら、今度は笑ってるし」  みずきが怪訝そうな顔をする。どうやら考えていたことがそのまま表情に表れていたらしい。 「でも、ま、笑えるということはいいことだから。あ、でもね、本当に苦しくなったら吐き出しなさいよ。ほら、よく言うじゃない。誰かに話せば喜び事は二倍になるし、悲しいことは半分こになるって」 「だからといって誰彼構わず話せないでしょう?」  するとみずきが表情を曇らせた。 「私ね、ずっと後悔してんの。麻音子が、その、前の婚約が解消になったとき、なんで無理やりにでも話を聞かなかったんだろうって」 「えっ?」 「そりゃね、はた目から見ればいつもと変わらないように見えていたけれど、私はすぐ隣にいるから知ってた。週末と月曜日になると溜め息の回数が格段に増えること。気になっていたけれど、どうやって吐き出させたらいいか分からなくて、それでただ見ていることしかできなかっただけ。そういうのはね、ずっと引っかかっているものなのよ。その相手が大事な人なら特に」  そう言ってみずきは迷いのない目を私に向けてきた。みずきから大事な友人だと言われているようで、なんだか恥ずかしい。でも私も彼女を、ただの友人以上のように思っていたから嬉しかった。でもそんな友人であるが故に、心配掛けたくなくて話せないこともある。あの婚約はいろいろ訳ありのものだったから特に。  もしも婚約者のまねをしてほしいと頼まれたことを、みずきに相談していたならば、彼女は間違いなく怒るだろう。親に隠れてこそこそやるよりも、見合いの話を断って堂々と行動すればいいじゃないかと。実際泰生さんから頭を下げられたとき、私だってそんなことを考えたし、言おうとした。だけど彼はどうしても表だって御両親に逆らえないし、逆らうことをしたくないと言う。ならば私という婚約者を立てておきながら、その裏で元恋人と復縁するために動き回っていたことは、御両親への裏切りには入らないのだろう。少なくとも彼の中では。  とはいえ初めて会ったとき恋してしまった相手だ。フリとはいえ彼の婚約者になれたことを心の中で喜んでいたけれど、時間が経つに従い苦しくなっていた。彼はいずれ私以外の女性と結婚しようと心に決めていた人だから。それに今だから分かることもある。幾ら大事な人を取り戻すためとはいえ、自分を生んでくれた御両親に大きな嘘をつくような人だ。もしも仮に彼と結婚したならば、いつそんな大きな嘘をつかれるか分からない。そんな未来はいらない。私を愛してくれるだけでなく、誠実な人の方がいい。そのとき子猫たちを抱いた龍之介さんの姿が浮かんできて、胸がじんとなる。早く会いたい、そしていつものように優しく抱きしめてほしい。そうすれば心に絡みついた不安だって、きっと消えうせるから。私を見つめているみずきに伝えたい。もう心配などいらないと。 「みずき、ごめんね。でももう大丈夫。私、今、とても幸せだから」  そうみずきに話すと、彼女は嬉しそうな顔をした。 「そっか。うん、いまの麻音子なら大丈夫だって思ってる。ところで忘れてないわよね」 「あっ、龍之介さんのお友達を紹介することなら大丈夫。その方のスケジュールを最優先して日程決めたから」  その方こそが来週からロンドンへ行ってしまう方だったから、今週末にパーティをすることにしたのだ。龍之介さんから聞く限りでは、とても朗らかな方らしい。ただ大学時代ラグビーをされていたので、体格がとてもいいらしく、そのせいでなかなか御縁に恵まれなかったと聞いている。男らしい体格のせいでということがいまいち分からず尋ねると、彼は苦笑しながら教えてくれた。 『筋肉ムキムキが駄目な人を好きになってしまうらしく、それで片思いばかりしていた友人なんですよ。でも本当にいいやつだから、麻音子さんのお友達がそういうのが苦手な方でなければいいなと』  みずきの好きな男性のタイプについては、正直よく分からない。それというのも、彼女が過去にどんな男性とお付き合いしたのか聞いたことがないからだ。そのあたりを聞くべきなのは分かっているけれど、どうやって聞き出したらいいのだろう。そんなことを考えていると、彼女が勢いよく身を乗り出してきた。そして強い力で手を握られる。みずきは真剣な表情を向けてきた。 「もうね、もやしのような男以外ならなんでもいい!」  その言葉を聞いたとき、思わず心の中でガッツポーズを取ったことは言うまでもない。
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