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しのぶれど色に出にけりわが恋は

「じゃあ、行ってきます」  仕事に行くためエレベーターに乗ろうとしたら、急に抱き寄せられた上にキスされた。龍之介さんが私の唇をやんわりと塞いでいる。時間でいったら恐らく数秒だろう。でもその瞬間時間が止まったような気がした。  温かい唇がゆっくりと離れていく。口紅を塗った唇に温かい息がわずかにかかった。無意識のうちに顔を俯かせようとしたら、彼が顔を寄せてきてもう一度キスをする。唇をついばまれたあと、唇を押しつけられた。 「ん……」  彼が更に体を押しつけてきて、それを押しとどめようとしたけれどできなかった。そうしているうちに、心地よいキスに酔いそうになる。気持ちを通い合わせた人とのキスは、以前までのキスと感触がまるで違う。以前は喜びよりも切なさが勝っていたけれど、今はただただ喜びしか感じない。だけどいつまでもその余韻に浸ってはいられない。既にスクラブに着替え終えている彼の体を押しのける力を強くすると、ゆっくりと体が離れていった。 「行ってらっしゃい。気をつけて」 「はい……」  駄目だ。恥ずかしくて、彼の顔を見られない。頬がじんじん熱くなり、いたたまれない気持ちになってくる。腰を抱かれたまま俯いていると、彼がおでこにキスをした。そしてふんわりと抱きしめる。 「お披露目パーティ、そろそろ決めないとね」 「えっ、ええ……」 「今日の夜詳しいことを決めよう。その前に友人たちに連絡して、日程を確認しておきます」 「じゃあ、私もそうします」  龍之介さんは小さく頷いて、体を離した。 「じゃあ今度こそ本当に、行ってらっしゃい」  向けられた優しい笑みに応えたあと、エレベーターに乗り込んだ。ゆっくりと閉じていく扉の向こうでは、彼が手を振っている。その姿を見ながら、私は幸せを感じていた。 「麻音子、なんかあった?」  伝票を入力していると、隣の席にいたみずきから突然尋ねられた。入力していた手を止めて彼女を見ると、なんだかやけにニヤついている。その表情の理由が分からずじっと見ると、我慢できないと言わんばかりにずいと身を乗り出してきた。 「龍之介先生となんかあった?」 「えっ?」  いきなり突拍子もないことを尋ねられ、驚きの余り言葉を失ってしまった。そんな私をみずきはなおもニヤニヤしながら眺めている。 「この前までと全然違う」 「この前?」  得意げな表情を浮かべながら、みずきが声を潜めて告げた。聞き返すと彼女は小さく頷いて、今度は嬉しそうな顔をした。 「気になってたんだ。マリッジブルーじゃない?って聞いたときから」 「何を?」 「何って……」  みずきは困った顔をして、目線だけであたりを窺った。 「結婚、したくないんじゃないかって思ってたのよ、本当は」 「えっ!?」  またまた予想外の言葉を聞かされてしまい声を上げたら、それに驚いたのかぎょっとした顔のみずきに口を押さえられた。なぜそのようなことを思ってしまったのか分からない訳ではない。それというのも彼女がその質問をしたとき、実際私は悩んでいたからだ。龍之介さんに過去を打ち明けようとして。しかし心を煩わせていたものは全て解決したし、今は彼と結婚することに対してなんの憂いも迷いもない。だがみずきは、過去の婚約解消の事情も龍之介さんとの間に起きた出来事も知る由もない。だから彼女は不安だったと思う。その気持ちは分かるけれど、この前と今とでは何かが全然違うという。彼女の目には私はどのように見えているのだろう。それを聞きたいけれど、みずきはいつまで経っても話させてくれようとしなかった。 「だってあのときの麻音子ときたら思い詰めた表情ばかり浮かべていたけど、今はとっても優しい顔になってるの。この数日のあいだに何が起きたか分からないけれど、きっと全てがいい方向に向かっているんじゃないかと思うんだけどな」  口を押さえつけていた手を離すと同時に、みずきが苦笑する。 「確かにいい方向には向かっているわよ」 「やっぱり」  みずきが得意げな顔をした。彼女はいわゆる聞きたがりな人間ではないけれど、どこかで話題を切り替えないとついつい余計なことを話してしまいそう。それだけ気心が知れた友人だけに、口を滑らせないように気持ちを引き締めた。 「ところで今夜ホームパーティーの日程決めるから、予定が入っていない土日を教えてくれる?」  するとみずきが一瞬だけ目を大きくさせた。そして何のことか分かったらしく、体勢を元に戻しながら笑みを漏らした。 「そっちもいい方向に行ってくれたらいいんだけど」 「それはみずき次第よ。パーティで素敵な男性と巡り会えばいいけど」 「頑張ります!」  敬礼のまねごとをしてみずきはおどけて見せた。そして週末の予定を聞いてみると、今週と再来週しか空いていない。なんでも彼女は、ここ数か月週末になると実家に帰っているのだという。 「妹がね、出産で帰ってきているのよ。姪を連れて。それで、ね」 「かわいい姪御さんに会いにいってるわけね」  みずきは照れくさそうに話した。そういえば以前彼女から聞かされたことがある。妹の子供つまり姪が、とにかくかわいくて困るのだと。そのときのことを振り返りながら尋ねると、彼女は肩をすくめておどけて見せた。 「そういうこと。まだ二歳だから、一番かわいい盛りよ」 「そっか、じゃあその邪魔はしちゃいけないわね。今週か再来週ならいいんだけど、先生のお友達の予定もあるから……」 「もし無理なようだったら、私のことは気にしなくていいからね。その代わり結婚式のとき素敵な人を紹介してよね」 「分かったわ。先生に話しとく」  そうみずきに答えると、彼女は嬉しそうな顔をした。
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