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接吻

「違うんです……」  龍之介さんに抱きついて、声を振り絞った。切ない痛みに耐えかねて、何も考えずに抱きついた。だけど泰生さんとのことを誤解しているならば、それをどうにかしなければ。そんな思いが強すぎて、話したいことは山ほどあるけれど、その言葉しか出てこなかった。  勢いのままに抱きついたはいいが、ここからどうしたらいい。それが分からずただ抱きついていると、背中に温かい手が添えられた。 「麻音子さん、どうしました?」  優しい声が頭上から聞こえてきて、恐る恐る見上げると、彼は困ったような顔をしていた。 「あの……。あれは―― 「喫茶店でお茶を飲んでいらした男性は、会社の方ではありませんよね」  彼が寂しそうな顔をする。それを見たとき胸の奥が痛んだ。やはり見られていたのだ。そして誤解している。 「違います」  声が震える。ちゃんと言わなくちゃ、そう思ったとたん全身が強ばった。 「彼は、龍之介さんとお会いする少し前まで婚約していた人です」  私を見つめる瞳を見つめながら話すと、彼がそっと瞼を閉じた。そして小さなため息を吐き出して、私をぎゅっと抱きしめる。彼の体温と匂いがして、強ばっていた体から力が少しずつ抜けていった。 「何を話していたのかは聞きません。気になるところですが」 「ただの惚気話ですよ。彼はもう結婚していますし、奥様と待ち合わせの時間までお茶を飲んでいただけです」 「でも男だ。それに俺と出会うまでの麻音子さんを知っている」  そんなことを言われたら、誤解してしまう。だって焼き餅焼いてるようなセリフだったから。人のことを言えないけれど、彼も恋愛に関しては疎い方だと思う。だから気づかないのだ。同情と単なる好意が混ざったものと、恋愛感情の違いに。できればこんな出会い方はしたくなかった。普通に出会って恋をして、恋人同士になれたならよかったのに。そうすればきっと誰よりも幸せな気分に浸っていただろう。だけどもう限界だ。彼の誤解を解かなくちゃ。そして解放しなければ。そうしないと、どんどん欲が深くなる。意を決し彼を見つめ返し、ゆっくりと口を開いた。 「いえ。龍之介さんより知っていることは少ないと思います。だって、私との婚約は偽装だったから」  すると背中に添えられていた龍之介さんの大きな手がビクッと震えた。気まずい空気が立ちこめてきて、今度こそ本当に何を言っていいのか分からなくなった。すると彼が私の肩を優しく包み、ゆっくりと体を離す。それと同時に俯いてしまい、瞼を閉じた。 「どういうことです? 偽装って……」 「彼は父のかわいがっていた教え子で、私とお見合いをする前に恋人がいたんです。でも彼の御両親が二人の結婚を許さなかった。それで二人は別れたんです。そして彼の御両親は、すぐに私との見合い話を進めたんです。お見合い当日彼から頼まれました。婚約者のフリをしてほしいと。その間に別れた恋人とよりを戻したいのだと」  全てを話し終えたあと、涙が勝手に流れた。泰生さんと初めて顔を合わせたときのことが脳裏に浮かんだ。そしてそのとき芽生えた恋心のことも。そして二人きりになったとき、その恋心は輪郭ができあがる前にもろくも崩れてしまった。そのときの胸の痛みが蘇る。 「三年のあいだに彼は、その方と恋人に戻れました。そして気持ちを確かめ合って結婚へと動き始めたので、ようやく私は役割を終えたんです。だから婚約を解消した。これが婚約解消の真実です」  ゆっくり瞼を開くと、涙で歪む視界の中に、龍之介さんがいた。彼は思い詰めた表情を浮かべて、私を見つめている。最後の言葉を言わなくちゃ。そう思ったとき、涙があふれ出した。 「だから私のことは気にしないでいいんですよ、龍之介さん」  見上げながらそう言うと、彼は目を大きく見開いた。 「麻音子さん? それはどういう……」 「父から聞かされているのでしょう? あちらから婚約破棄されたことを。そのことであなたが私に同情することはないと言っているんです」  すると彼が瞬きを繰り返す。だがすぐに苦笑した。 「麻音子さん、聞かせてください。俺が同情だけで結婚を決めたと思ってますか?」 「龍之介さんは優しいから。断れなかったんじゃないかと思ってました」 「まあ、そうだね。あなたとのお見合いは断れなかった。でもだからといって結婚相手を妥協で選ぼうとは思わない。長い人生を共に過ごす相手だ。相手に対して少しの愛情も抱けないならば、どのような事情があっても俺は断るよ」  そう言って彼は再び私を抱きしめた。 「見合いのとき、二人で庭を歩いたでしょう? そのとき話したことを覚えてる?」 「確か、スズメの話、でした」 「お見合いが始まる前まで庭先で眺めていたんだ。池のほとりでひなたぼっこしているスズメをね。その話をしたとき、あなたは私も見たかったと話していた。スズメのひなたぼっこなんて、興味がない人間が多い。普通は適当に相づちを打っておしまいだから。でもね、そのときこの人となら同じものを見て、同じように感じることができるかもしれないと思った。そしてそれが確信に変わったから、プロポーズしたんだ。それでもただの同情って思うかい?」  思いがけない告白を聞いたからか、涙が止まらない。私が気づかなかっただけで、彼は好意を抱いていたのだ。それが嬉しくて、気づけば彼の体にしがみついていた。 「そういえば、ちゃんと言ってなかったな」 「え?」  彼の胸に埋めていた顔を上げると、照れくさそうに笑っている。 「好きだよ、俺以外の男と一緒にいてほしくないくらい」  その言葉を聞いたとき、それまで胸の奥でつかえていたものが一瞬のうちに消えうせた。 「麻音子は、俺のことどう思ってる?」 「え?」 「実は気にはなっていたんだ。いつも遠慮がちにしていたからね。もしかして、こんな俺に同情してくれているんじゃないかって思ってた」 「こんな俺って……」  どう返していいか分からなかったけれど、彼の不安を取り除きたかった。 「あなたが好きです。お見合いが始まる前に庭先でスズメを見ていたでしょう? その姿が頭から離れなかった」 「なんだ。見ていたのか……」  龍之介さんが照れ隠しをするかのように苦笑する。その姿が子供のように見えてしまい噴き出した。 「こら、噴き出すなよ」 「ごめんなさい、つい……」 「動物を見ているうちに、夢中になっているんだ」 「分かってます」  涙を拭いながら話すと、彼に見つめられていた。 「そんな俺ですが、結婚してくれますか? 今なら子猫二匹ついてますけど」  そう言って彼が視線を落とす。そちらに目をやれば、リンダとアンナが不安げな表情で私達を交互に見上げている。彼女達を抱き上げて、彼に返事した。 「ふつつかな私ですが、よろしくお願いします」 「ふつつかなのは俺も同じ。こちらこそよろしくお願いします」  そう言って彼は私にキスをした。
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