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再会、そして……

 仕事を終えてクリニックへ向かう途中、思いがけない人を見た。夕暮れ時の歩道は、家路を急ぐ人々が早足で行き交っている。その中で彼を見つけたのは、本当に偶然の出来事だった。 「麻音子さん……」  こちらから声を掛けることもなく、そのまま通り過ぎようとしたが、彼から呼び止められた。 「お久しぶりです。泰生(たいせい)さん」  彼は懐かしそうな目で私を見た。恐らく一年という月日は、彼にとってあの出来事を過去のものにさせるには十分な長さなのだろう。私の中でもあれは既に過去のものになっているし、だから婚約を解消したあとこのように偶然顔を合わせても、普通に会話ができてしまう。ただ胸の奥がちくちくと痛んだけれど、耐えられない痛さじゃない。軽く下げた頭を上げると、元婚約者はあの頃と同じようにほほ笑んでいた。 「お仕事帰りですか?」 「ええ」 「そうですか、もし時間があるのならお茶でもいかがです? と言っても、妻が仕事終わるまでしか居られないけれど」  妻という言葉にわずかに動揺してしまったけれど、笑顔のしたでそれをどうにか抑え込んだ。 「その後ご結婚されたんですか?」  通りに面した喫茶店のテーブル席で、彼に尋ねると嬉しそうな顔をした。 「ええ、おかげさまでね。来年には父親になります」 「そうですか、よかった……」 「これも麻音子さんのおかげですよ。もし麻音子さんがあの話を断っていたら、妻とはやり直せなかった」  世間のことなど何も知らなかった頃の自分を振り返ると、お人好しと言う言葉しか出てこない。頼まれたらいやと言えない性格も災いしたのだろう、必死になって頭を下げる人からの頼みを断れなかった。募る恋心を抑え込みながら、彼から相談される度心がきしきしと軋んだのを今も覚えている。  その相手が、自分以外の女性と結婚し、来年には父親になるという。三年という時間を掛けて彼は恋人の心を取り戻そうと努力したし、その姿を見続けていただけに感慨深いものがある。だけど同時に胸が痛む。それは結果として周りの人間達に嘘をつき続けていたからだ。  ついに彼が行動を起こした日のことは、昨日のことのようにはっきりと覚えている。私から婚約破棄を申し出るよう言われたけれど、それができなくて。彼からそれを申し出ると私に問題があると思われるから、結果話し合った末の婚約解消という形にしたはずなのに、蓋を開いてみると彼から婚約破棄されていた。  そしてそれを聞かされた父親は、すっかり打ちひしがれた姿となって、しばらくの間塞ぎ込んでいた。その姿が未だに頭から離れない。なぜ彼が婚約破棄を選んだのか、その理由を知りたかったけれど、今となってはどうでもいいことになっている。これが過去になったということならば、多分それなのだと思う。  ただ密かに恋い慕っていた相手が幸せになったのだ。それでいいじゃないかと言い聞かせてる自分がいる。私は愛想笑いを浮かべて彼の幸せ自慢を聞きながら、恋心が熱を失っていくのを実感していた。そうしていると、彼のスマホから電子音が鳴り響いた。彼は画面を見て、とても嬉しそうな顔をする。 「妻が仕事を終えたらしい。今日は偶然だが会えて嬉しかった。ずっと気になってたんだ。だって……」  嬉しそうだった彼の表情がみるみるうちに曇っていく。 「両親に話し合った末に出したのが婚約解消だったと伝えたら、それだとこちらに非があると思われかねないし、外聞が悪いという理由でこちらから婚約破棄になっていたんだ。それを知ったあと滝沢先生にお詫びをしようと連絡したが、先生は……」  大学の教授をしている父親は、寛容な人間に思われているけれど、実はそうではない。一度でもいやだと思ったものには二度と手を出さない人間だ。きっと無理にでも彼が会ったならば、間違いなく殴られてしまうだろう。娘にはそういった真似はしないからまだいいが。 「ご存じないかと思いますが、実は父は寛容な人間ではありませんから……」 「でも大学ではとてもおおらかで寛大な先生でした」 「それはそう見せていただけです。見栄っ張りなんです」  そう言ってほほ笑むと、彼が苦笑した。 「じゃあ、私はこれで」  そう言って席を立つと、彼も立ち上がり私を見送ろうとした。それをやんわりと断って、そこから離れると、そのとき店内に入ってきた女性と目が合った。彼女だ、直感でそう思った。彼女はすぐに視線を私の背後へと向けた。そして軽くほほ笑みながら、私を通り過ぎていく。背後から彼の声が聞こえてきた。それ以上聞かないようにして、私は喫茶店をあとにした。  すでに薄暗がりが広がった通りには、ひんやりとした夜の風が吹いていた。急に心細くなり、龍之介さんの顔が見たくて仕方が無かった。早く帰ろうとして一歩踏み出すと、すぐ後ろから聞き覚えがある声が聞こえてきた。 「麻音子さん?」  その声がしたほうへ、振り返るとスーツ姿の龍之介さんが立っていた。
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