10 / 26

猫缶

 仕事を終えてコーヒーショップへ向かうと、通りに面したテーブル席にスーツ姿の彼がいた。その姿をガラス越しに眺めると、私の視線に気付いたのかほっとしたような顔を向けられた。急いで店の中に入り彼に近づくと、立ち上がってさりげなく隣の椅子を引いて待ってくれた。 「お待たせ、しました」 「いえ、これを読み終わったからちょうど良かった」  そう言って彼は文庫本を見せる。ブックカバーが掛けられたそれは、確か彼が好きな作家の本だ。彼は短編集を好んで読む。それは短い時間で一話を読み終えられるからだ。動物を相手にしているとはいえ、医師という職業は多忙であることに変わりはない。椅子に腰掛け、彼が用意しておいてくれたコーヒーを飲んだ。 「それじゃあ、まずはリンダとアンナのごちそうを買って、それからレストランに行きましょう」 「そうですね。今日のごちそうのリストは?」 「これです。なんでも新製品らしい」  差し出されたメモを見ると、そこには可愛らしい猫と猫用の缶詰が映っていた。彼は私と外で食事をするときは、必ず猫たちに御馳走を買うことにしている。その理由は簡単。猫たちだってたまには御馳走を食べたいだろうからと、はにかみながら彼は話していた。 「猫のご飯もどんどん進化してますね」 「もしかしたら人間より素材がいいものを使っているかもしれないな。ほら、ここ見て。有機野菜を使ってるって」  彼が指さしたところを見ると、確かに有機野菜使用と書かれていた。スーパーで有機野菜といえば、少々お値段が張る代物だ。それを猫用の餌に用いているなんて贅沢だと思われても仕方がない。 「そう言えばこれから行くレストランも有機野菜を使っている店だったな」 「そうなんですか?」 「確かフランスの家庭料理を出す店だったと思う」  婚約者と見せかけのデートをしたとき連れていかれた店は、高級な店ばかりだった。相手にしてみれば自身の都合でかりそめの婚約者になった私への、せめてもの償いの一環だったかもしれないけれど、とても居づらかったことを覚えている。この席は私がいるべき席じゃない、そんなことを考えながら食べる食事は、どんなに贅を尽くしたものであっても砂を噛んでいるようなものだった。 「先日はイタリアの家庭料理のお店でしたね。とってもおいしかったです」 「良かった。本当なら高級なお店の方がいいのかもしれないけど、ああいったところは正直苦手で……」 「私もです。家庭料理の方が好きだから」 「じゃあ、そろそろ行こうか。腹が減った」 『俺も腹が減ってます……』  そう言われて唇を塞がれたのは昨日のことだ。名残惜しげに唇を離されたとき見えた彼の表情は、今にも泣きだしそうなものだった。それを思い出してしまい、針で突き刺されたような痛みを胸の奥に感じた。 「麻音子さん?」  名を呼ばれ、現実に引き戻された。隣にいる彼を見ると、不安げな顔を向けられている。それだけでなく、膝に置いていた手を握られていた。まるで引き留めようとするかのように。彼を不安にさせているものがなんであるか分からないけれど、これ以上不安にさせたらだめだということくらい分かっている。だから笑みを浮かべて彼の手を握り返した。すると彼はほっとした顔をして、私に笑みを向けてきた。  リンダとアンナの為のごちそうを買ったあと、彼とともに食事した。その店は普通の一軒家を改築してできた店で、広めのダイニングには数席しか設けられていなかった。部屋の中央には細長いテーブルが置かれていて、その上にはおいしそうな料理が並べられている。どうやらバイキング形式の店だったようで、美味しそうな料理を二人で選びながら大きな皿に盛り付けて、それをシェアしながら食べたのだった。  他愛無い会話をしながらとった食事は、とてもおいしかった。振り返ると龍之介さんと外で食事をするときは、フランスやイタリアだけでなくいろんな国の家庭料理の店が多い。当然初めて食べる料理や食材が多く、それを彼に伝えるととてもうれしそうな顔をする。それを見ているとうれしいけれど、向けられる笑顔が優しいから、意味もなく泣きそうになるときがある。  今だってそうだ。こうして二人でいると、胸がいっぱいになってきて泣きそうになる。彼が私をどのように思っているのか分からないけれど、せめて二人でいる時だけは愛されているのだと思いたい。向けられる優しさが同情からくるものであっても。  この時間を私は決して忘れない。だから早く彼の気持ちを確かめなくちゃ。  これ以上彼を好きになってしまう前に。そう思いながら、私は食後に出されたデザートを食べていた。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!