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マリッジブルーでごまかしたもの

『俺と結婚してください』  そう言って、彼は照れくさそうにほほ笑んだ。今思えばそのときにちゃんと聞けばよかったのだ、私のことをどう思っているのかと。でもそれを切り出せる勇気を持ち合わせていないばかりに、こうやってずるずると引きずったままになっていた。  優しくされればされるほど、その優しさの底にある感情がなんであるか気になってしまう。向けられる優しさの理由に思い当たることがある上に、秘めておかなきゃならないことがあるから特に。このまま心苦しいものを抱えたまま結婚していいのかと自問するときが増えた気がする。  結婚式まであと三ヶ月。そんなときにこんな気持ちでいいわけがない。結婚式までの時間が緩やかに思えているのは、それが主な理由だろう。結婚が決まった後に彼の真意を聞くのは間違っているかもしれないけれど、聞かないままだとずっともやもやして先に進めない気がした。でも――。 「麻音子?」  そのときみずきの声がした。ハッと我に返り、隣にいる彼女の方を見ると、心配そうな表情を向けられている。もしかしたら知らず知らずのうちに、ため息を漏らしていたかもしれない。そう感じ、無理に笑顔を作って見せた。 「どうしたの、みずき」 「どうしたもこうしたもないわよ。何その湿っぽいため息は……」  ああ、やっぱり出てしまっていたか。心の中でそんなことを思っていると、みずきが盗み見るように辺りを見渡したあと、こちらに身を乗り出し声を潜めて話し始めた。 「あんた、やっぱり変よ」 「え?」 「気付いていないかもしれないけれど、ここ最近浮かない顔してるし、それにため息も多くなった。もしかしてマリッジブルーっていうやつかもって思ってたけど、それとは何か違う気がするんだよね」  じっと見つめられてしまい、何も言えなくなった。そんな私の姿を見て何かを感じ取ったのだろう。みずきが視線を落とし、ため息を吐く。すぐ隣に座っているはずの彼女がものすごく遠く感じられて、二人の間の空気がどんどん重くなっていった。時間にすればほんの数秒のことなのに、一時間にも永遠にも思えるほど時間はゆっくり流れていく。 「もしかして、後悔してる、とか?」  重苦しい空気の中、みずきの自信なさげな声が聞こえてきた。知らず知らずのうちに俯いていたらしく顔を上げると、彼女が心配そうな表情を浮かべていた。 「後悔はしてないわよ。ただ気持ちが追い付いていないだけ」  後悔することがあるとするならば、向けられる優しさが同情からのものなのか怖くて確かめなかったことだ。だがそれをみずきに話せるわけがないし、話したとしても分かってもらえないだろう。だから彼女が指摘したマリッジブルーでごまかそうとした。するとみずきはほっとしたらしく、表情を和らげた。と思ったら、すぐに呆れたような顔になった。 「それをマリッジブルーって言うんじゃないの?」 「そうかも」 「そうかもじゃないわよ。正にそのものじゃない。全く……」  みずきが不満げな顔でぶつぶつと呟いた。その姿を眺めながら、私は心の中でごめんねと言うことで、彼女に対して抱いてしまった罪悪感を振り払おうとした。 『用事があってすぐ近くまで来ているので、どこかで待ち合わせして食事しませんか?』  彼からメールが届いたのは、そろそろ仕事が終わろうとしていたときだった。ちょうど給湯室で洗い物をしていたとき、ポケットの中に入れていたスマホがぶるぶると震えだし、メール受信を教えてくれた。私が働いている会計事務所のすぐ側には、獣医師会が入っているビルがあるから、恐らく何か用事でもあったのだろう。窓へ目を向けると、既に真っ暗闇になっている。間もなく春を迎えるとはいえ、陽が沈む時間はまだ早い。外回りを終えた職員たちが続々と戻り始めているようで、所内は賑やかになっていた。  それを気にしながら手早く返事を送ると、すぐさま彼からメールが届いた。そのメールには彼がいるコーヒーショップの店名が記されていた。その店はここから歩いて五分もかからない場所にあって、時折仕事終わりに立ち寄ることもある。そこで温かいコーヒーを飲みながら甘いものを食べて、自分自身に戻ってから帰宅するのだ。  組織に所属していると、役割を与えられその役目を果たすため、素の自分を抑えることが増えてくる。そうしているうちに、どんどん本当の自分が分からなくなるときがあって、それを思い出すため一人の時間を作っているような気がする。その店は私にとって、本当の自分に戻るために必要な店だった。  洗い物を終えた後ちょうど終業を告げるベルが鳴った。それを合図に職員たちが帰り支度を始める。彼らの姿を横目にしながら自分の机に向かうと、みずきが書類を片付けながらパソコンの電源を落としていた。 「みずき。昨日の話なんだけど……」  そう切り出すとみずきの表情がぱあっと明るくなった。 「先生に聞いてみたんだけどね、どうやら友達を招いてホームパーティしようと思っていたみたい」 「え!?」  多分合コンとか気楽な食事会を期待していたのだろう。みずきが目を大きくさせて驚いている。 「という訳で詳しいことが決まったら教えるわね」  彼はホームパーティと言っていたけれど、二階のフロアの広さを考えると数人呼べばいっぱいいっぱいになってしまう。彼から聞いた限りでは招待したい友人は二人。そのうちの一人は既に結婚しているということだった。 「お招きする方の一人は独身の方だって言ってたから、その人がみずきのタイプだといいんだけど」  そう言いながらみずきを見ると、嬉しそうな顔をしていた。
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