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不安の理由

「それじゃ、おやすみ」  そう言って龍之介先生はリビングを去っていった。まだやることが残っているからと言っていたから、多分残務整理だろう。私の隣では、リンダとアンナがぐっすり寝そべっている。その姿を眺めながら、彼の姿を思い返していた。 『そうしないと不安、なんです。あなたが急にいなくなってしまうんじゃないかって』  結局父親が帰国する日まで、この部屋で暮らすことに同意させられてしまった。その少し前に目にした彼の姿が、頭の中にこびりついて離れない。あの陰りを帯びた目で見つめられると何も言えなくなってしまう。彼の言う不安が何を指し示しているのか分からない。それに彼にとって私は捨て猫のようなものだし、そこまで不安を抱かせるような存在ではないと思ってた。  だけどあの目は……。向けられたあの目は、リンダとアンナから向けられたものと同じだった。  あれは二ヶ月前のこと。その日彼は大学時代の同窓会へ行っていたという。ほろ酔いで買える途中の路地裏で小さな体を重ねるように温め合っている姿を目にしてしまい、それで連れて帰ってきたということだった。かなり衰弱が激しくて、クリニックで治療を行っているうちに情が湧いてしまい、そのまま飼うことにしたのだと。ようやく固形の食料を食べられる頃に二階に連れてきたのだが、そのとき子猫たちは私を見て怯えてしまい、彼の側からずっと離れなかった。  そのとき子猫たちから向けられた目と、さっき彼から向けられた目が重なって見える。だとするならば、彼の陰りを帯びた目は、何かに怯えている目ということになる。先ほど掛けられた言葉を振り返れば、自然と何に対して怯えているのか分かる。だがそれではじき出した答えは「私」という存在がいなくなることに対してだった。  彼にとって私は捨て猫のようなものだと思うし、それで心配しているだけにすぎないと思ってた。でも何かが違う気がする。その何かが分からないから、不安ばかりが募ってくる。眠る子猫たちの姿を眺めながらそんなことを考えていると、自然とため息が漏れていた。  にゃあおううううう  猫の鳴き声で目が覚めた。瞼を開くと目の前にはリンダとアンナがいる。そして背後から抱きしめられていた。頭の下には彼の腕。腰には腕が回されている。もう何度か経験しているけれど、このようなシチュエーションで朝を迎えるのは、やはり恥ずかしいものがある。  彼の寝息がすぐ後ろから聞こえてくる。くすぐったい気持ちと恥ずかしい気持ちが混ざり合い、どうしたものか考えていると、枕元に来ていた子猫たちが寝転がってお腹を見せてきた。モフモフのお腹を指でツンツンと突くと、何かをねだるようにかわいい声で鳴き始める。 「そか、朝ごはんよね。待ってて、いま起きて作るから」  声を潜めてそう言ったあと、寝ている彼を起こさないように慎重にそこから体を起こそうとした。そのとき急に腕に回されていた腕に阻まれてしまい、そのままほかほかの上掛けの中に引きこまれた。突然の出来事に驚いてしまい、なすすべなく抱きしめられていると、すぐ後ろから掠れた声がした。 「麻音子……?」 「り、龍之介、さん。お、おはようございます……」  背後から抱きしめられたまま挨拶すると、ようやく体を抱きしめている腕が緩んだ。 「まだ、早いですよ。起きるには」 「で、でもリンダとアンナが朝ごはんを―――ー  そう言いかけたらくるりと体の向きを変えられてしまい、あっという間に見下ろされていた。寝乱れた前髪が落ちて、その合間からのぞく目が私を見つめている。寝間着替わりにしている黒いVネックを着ている彼が不機嫌そうに目を眇め、小さなたため息を漏らす。 「リンダとアンナはとっくの昔に朝ご飯食べてますよ」 「え?」 「寝る前にセットしておいたんですよ、朝ごはんを」  更に深いため息を漏らしながら、彼が私の胸元に顔を埋める。彼の重みが体に掛かると同時に、彼の体温が二枚の布越しに伝ってくる。まるで子供のように甘えている彼の姿を見るのは、嫌いじゃない。十歳年上の男性だ。もう十分すぎるほど大人なのに、彼は時折こんなふうに甘えてくる。  その姿を見るたび思うのだ。捨て猫のような私が、彼の側にいることを望んでいいのかと。  もしも迷惑でなかったならば、このままずっと側にいたいと思う。だって彼のことを好きだから。  でも彼は私のことをどう思っているのだろう。  たとえ捨て猫に向けるような同情から始まった付き合いだとしても、少しは好意を抱いてくれている?  聞くに聞けない言葉が頭の中でぐるぐると回りだす。それと同時に不安が心に広がっていく。  だけどそのようなことなど知らない彼は、私に抱き着いたままで。子猫たちがみゃあみゃあと泣いている中、私は彼の頭を撫ででながら広がりつつある不安に耐えていた。
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