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優しさが辛い

 龍之介先生はクリニックの二階に住んでいる。もともとこのクリニックは彼のお父さまのものだったらしい。だけどお父さまが亡くなったことで引き継ぐことになり、そのとき大幅な改装を行ったということだった。  診療室の奥にあるエレベーターを利用して住居フロアに上がると、そこはすぐリビングになっている。ベージュで統一された部屋の奥には大きな窓があり、その向こう側はウッドデッキが敷かれている広めのベランダになっていた。 (というより庭に近い気がするんだけど……)  窓に近づき外を見ながら思った。しかし先生は「ここはベランダです」と言っているし、彼がその認識でいることは間違いない。そのベランダには幾つかプランターが置かれていて、そこには野菜やハーブが植えられている。それらは皆二人で種を買い求めて植えたものだ。先生は二人で何かをすることを大事にしているところがある。それはそれで嬉しいのだが、心苦しく感じるときがある。そして申し訳なさが募るのだ。 (本当に、このまま結婚してしまっていいのかしら……)  窓に掛かったグリーンネットを眺めながらそんなことを考えていた。二人で植えたゴーヤは、夏には強い日差しを遮るグリーンカーテンになるだろう。青々と茂った葉の間に実ったゴーヤを二人で収穫して、それを二人で料理して一緒に食べる。このまま何事もないならば、その想像はいずれ現実のものになる。それに不満はないけれど、彼から優しくされるたび辛くなる。  もしも私が婚約を白紙にされていなければ、きっと今のような状況にはなっていないだろう。  彼は優しいから婚約を破棄されたかわいそうな私という見せかけの存在に、救いの手を差し伸べただけだと思うから。そう、例えば路地裏にいた捨て猫に、憐憫の情を抱いてしまい手を差し伸べるみたいに。 「捨て猫、なのかなあ……」  確かに傍目にはそう見えていただろう。でも本当はそうじゃない。あの婚約破棄は予め予定されていたものなのだから。でもそれは公言することはできないし、元の婚約者に対して抱いていた感情とともに胸に秘めておかなければならない。  そんなことを考えていると、突然柔らかいものが足に触れた。足元を見下ろすと、彼が拾ってきた子猫たち二匹が小さな体をすりすりとさせている。 「リンダ、こんばんは。あと、えっと、アンナ、だったかな……」  呼びかけに応えるように、にゃあとか細い声を上げている白い子猫とグレーの子猫たちは、彼が拾ってきた捨て猫だった。まっすぐ向けられるつぶらな瞳が何かを訴えているように見える。 「あ、お腹減ってるんでしょう。待ってて。今用意するから」  そうだ。この子たちはまだ御飯を食べていない。私が毎日ここへ通う理由のひとつが、子猫たちに夕食を用意することだ。それをすっかり忘れていたことに気が付いて、鶏のささ身とカリカリを混ぜたものを準備しようとキッチンへ向かうと、チンとベルが鳴った。その音に気が付きそちらへ目をやると、エレベーターの扉がゆっくりと開く。私のあとをついてきていた子猫たちが、ものすごい勢いで、そちらへと駆け寄っていった。 「ただ今帰りました」  子猫たちが可愛らしい声で鳴いて気を引こうとやっきになっているのに、それに一瞥もせずに龍之介先生は私に笑みを向けている。その姿を見たとき、それまで冷え冷えとしていた心がほっこり温かくなった。 「おかえりなさい、お疲れさまでした」  そう言うと彼は嬉しそうな顔で私に近づき、ぎゅっと抱きしめてきた。 「良かった。いてくれて」 「え?」 「いなかったらどうしようと思って気ばかり焦って。あ、でも治療はちゃんとしてきました。シンディは食あたりを起こしていました。もうすっかり元気になりましたよ」  私を抱きしめたまま龍之介先生が早口で話す。そして私たちの足元ではリンダとアンナがにゃあにゃあと騒いでいた。お腹が空いているのだろう、鳴き声が悲痛なもののように聞こえて仕方がない。だから私は彼の胸に手を当ててそっと押しのけた。だけどそれは何の役にも立たなくて。押しのけることを諦めて、彼に呼びかけた。 「あ、あの。龍之介、さん……」 「なんです?」 「リンダとアンナの御飯が、まだ……」  だが彼は私を抱きしめたままじっとして動かない。そうしているうちに猫たちが私の足首をかりかりとかき始めた。 「俺も腹が減ってます……」 「あ、すぐに用意します。でもその前に―――  そう言いかけたとき急に体を離されて、すぐに唇を塞がれた。
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