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婚約破棄の真実

「麻音子!」  婚約者の車で出勤し、事務所に入った途端すぐに同僚から声を掛けられた。彼女は嶋 みずき。同年の同僚だ。みずきはひっ詰めた髪が乱れぬように手で押さえながら走り寄ってくる。そしてずれた眼鏡を直しながら話しかけてきた。 「おはよ、麻音子。今日も旦那さんの家から?」 「旦那さんじゃないわよ。まだ」 「でもあと三か月じゃない」 「まだ三か月もあるわ」  みずきはにやにやとしながら御馳走様と言った直後、わずかに表情を曇らせた。 「一時はどうなるかと思ったけど、上手くいってるようで安心した」  その言葉を耳にしたとき、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような痛みを感じた。だけどそれを隣にいる彼女に気取られないように、無理して笑顔を作って見せる。長い婚約期間の果てに告げられた婚約破棄。その直後に父親から紹介された彼と出会って、もう一年が過ぎようとしている。  彼はとても優しい。それにいつも気遣ってくれる。そんな彼に不満なんてないし、むしろ彼と会うために婚約破棄があったんじゃないかとさえ思えるほどだ。だけど同時に不安を抱いていた。優しくされればされるほど、その不安はどんどん膨れ上がり息苦しささえ感じてしまう。そのことを思い返していると、みずきが呆れたような声で話しかけてきた。 「朝から幸せいっぱいのあんたを見たら、悔しいったらないわ。今度こそ合コンでいい男とっつかまえてやる!」  そう言ってみずきはガッツポーズをとっていた。 『この婚約を白紙にしたいそうだ』  そう父親から告げられたとき、ほっとしたのを覚えている。大学を卒業した直後父親の勧めで見合いをしたのだが、その相手には思う相手がいた。その相手は過去の恋人で一時は結婚の話まで出ていたという。だが父親が二人の結婚を頑として認めなかったため、その間に二人は別れてしまったとのことだった。  見合いの席で二人きりにさせられたとき、彼はすべての事情を打ち明け、協力してほしいと頭を下げてきた。それはその時の恋人を心を取り戻し結婚するための準備が整うまで、時間を稼ぎたいからその間婚約者のフリをしてほしいということだった。  そしてそれから三年後彼は行動を起こした。暗い表情の父親から婚約破棄の話を聞かされたとき、ようやくほっとすることができた。これでやっと彼と関わらずに済むという安堵からだが、それ以外にも理由がある。でもその理由は誰にも教えるつもりはないし、このまま胸の奥に秘めておくつもりだ。  婚約を破棄されたあとしばらくそっとしておいてほしかった。しかし父親としてはそうしたくなかったのだろう、すぐに新しい見合い話を勧めてきた。  そしてとんとん拍子に話は進み、一年の交際期間を経て三か月後には結婚することになっている。初めて彼の姿を見たときのことを振り返っていると、隣にいたみずきが話しかけてきた。 「そういえば急だったから驚いたわ」 「えっ?」  みずきを見ると、困ったような顔をしていた。 「だってさ、婚約が白紙になったあとすぐにお見合いして、あっという間に婚約よ。その間になにがあったんだろうって思うじゃない」 「ああ……。まあ、そうよね」  婚約者と出会ってからの出来事を思い出しながら曖昧に答えると、みずきは苦笑していた。 「でもさ、考えようによってはあんたの言う通りなのかもね」 「どういうこと?」 「それこそあの出来事が無かったら、婚約者と会ってなかったし結婚もなかったってことよ」  笑顔を向けながらみずきにそう言われたけれど、それにどう答えていいか分からなかった。
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