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龍の根城 1

 桃の花が咲き乱れる美しい庭先で、三娘は岩に腰掛けていた。その岩には窪みがあって、澄んだ水が溜まっている。彼女は青空のような水色の上衣を羽織った姿でその水たまりを眺めながら、嬉しそうな笑みを浮かべていた。その水面には三娘の父親の姿が映し出されている。見ず知らずの男と王城に向かった翌日から、彼女は日がな一日その水盆ばかり眺めていた。  仙界に暮らすことを決めたとて、右も左も分からぬ場所だ。大きな石でできた城の中に部屋を与えられたとて、何をしていいのか分からない。それに何をするにも、どこに行くにも必ず侍女がついてくる。今までそのような暮らしをしたことがない三娘にとって、それは窮屈以外何物でもない。現在の彼女にとって、目下の楽しみは、父親の姿をこうして眺めることだった。  三娘がいる庭は、彼女の部屋に面している。その部屋の窓際では、揃いの衣装に身を包んだ侍女たちが控えていた。彼女たちは皆一様に、若草色の上着に濃緑の|裳《スカート》を身に着けていて、高い位置で髪を留めている。そして彼女たちの傍らには、みずみずしい|水菓子《くだもの》が乗せられた漆塗りの盆が置かれている。  うららかな日差しが庭に降り注ぎ、春風を思わせる温かな風がそよそよと吹いている。庭のいたるところに植えられた木々の枝には、どこからやってきたのか鳥たちが羽を休めていた。風に乗って鳥たちの可愛らしい|囀《さえず》りがかすかに聞こえている。その中で三娘は、父親の姿が映っている水面だけを一心に見つめていた。  そのとき強い風が吹いた。その風は木々の枝葉や庭に咲く花々を揺らす。三娘は急な突風で乱れた黒髪を手で押さえつつ、瞼をぎゅっと閉じた。彼女が羽織っていた水色の上掛けが、風でふわりと舞い上がり、その下に着ていた若草色の衣の裾がわずかにめくれ上がる。  桃園のような庭を一瞬で吹き抜けた風が止み、ゆっくりと瞼を開いてみると、水たまりに映っていた父親の姿は消えていた。三娘は悲しげな瞳で、揺れる水面を見つめている。  水盆替わりの水たまりは、一度でも波立ってしまえば、暫くの間何も映そうとしない。それが分かっているので、三娘は物憂げな表情で顔を俯かせた。  仙界で暮らすことを選んだのは、紛れもなく自分自身だ。そのことを自らに知らしめるように、三娘は俯かせていた顔を上げ振り返った。  高い城壁の向こうには、|蓬莱山《ほうらいさん》と呼ばれている高い山が|聳《そび》え立っていて、頂上付近は紫色の雲で覆われている。その景色を目にするたび、三娘は思い知らされた。もう二度と父親のもとへと帰れないことを。そして結婚の約束を交わした相手と会えないことも。  その相手である先代の火龍は既に亡く、今は弟が火龍と呼ばれているらしい。その男こそ褐色の肌に銀色の髪を持つ男で、三娘の父親を救った男だった。 「どうなさるおつもりじゃ。火龍殿」  しゃがれた声が背後から聞こえてきて、振り返ると長い|白髭《しろひげ》を蓄えた老人が立っていた。藍色の上衣の裾を引きずらせ、背の低い老人が柳の木の側に立っている火龍へと近づいてくる。白髪を高い位置で結わえた老人は笑みこそ浮かべてはいるが、火龍を見る目は鋭い光を放っていた。  老人は火龍が幼き頃より、彼の面倒を見てきた男である。そして炎龍の一族の中で最高齢を誇っており、皆からは老師と呼ばれていた。老師から尋ねられ、火龍はわずかに顔を顰めさせる。 「どう、とは?」  火龍に聞き返されたが、老師はそれに何も答えようともせずに、彼の隣で柳の枝から見える光景を眺め始めた。老師とともにそちらへ目をやると、長く垂れた枝の間から、水色の衣を身に着けた女の姿が見えた。三娘である。  三娘は腰掛けていた岩に突っ伏してしまい、小さな体をふるふると震わせていた。先ほどの突風のせいで、水盆が用をなさなくなってしまったからだろう。泣き出してしまった彼女のもとへ、侍女たちがわらわらと集まってくる。それを眺めていると、侍女たちが彼女の体を支えながら、建物へと向かっていた。火龍とともにその姿を見ていた老師が、表情を曇らせながら咎めるような目で火龍をにらみ上げる。 「三娘さまじゃ。あのお方をどうなさるつもりじゃと聞いておる」  厳しい口調で問われたが、火龍はそれを無視しその場から立ち去ろうとした。だがそれをやすやすと許す老師ではない。呆れたような表情で火龍の背中を眺めながら強い口調で問いかけた。 「あのままにさせておくつもりか? 答えよ、|甚《じん》」  真名を呼ばれてしまい、火龍は立ち止まった。真名を口にできるものは目上の者に限られているし、特に火龍となってからその名を口にする者はいなかった。老師はそれを許されている一人ではあるけれど、それを口にするときはかなり感情的になっているときだ。それが分かっているので、火龍は心の中でため息を漏らしながら老師へと振り返る。 「ではどうしろと?」  そう聞き返すが、老師は何も答えてくれなかった。 「花嫁と定めし先代がおらぬ今、そのまま人界にいてもらった方がよかったのじゃ。なぜ、そうせなんだ」 「先代が花嫁と定めたばかりに、あの娘は迎えをずっと待っておったのだぞ? その一途さに応えてやらねばなるまい。迎えに行けなかった事情がどのようであろうともだ」  火龍は険しい顔でそう言い放った。三娘を迎えに行けなかった事情に、思い当たるものがあるのだろう。老師はそれ以上何も言わずに、柳の枝の間から三娘が腰掛けていた岩を眺めていた。

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