4 / 11

第四話

 色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭先で、三娘は岩に腰掛けていた。その岩には窪みがあって、澄んだ水が溜まっている。水面には父親の姿が映っていて、三娘は水色の上衣を羽織った姿でそれを眺めながら、嬉しそうな笑みを浮かべていた。  水面に映る父親は、忙しそうにしていた。どうやら政務の時間らしく、衣冠束帯姿で机の上に山積みとなっている書類を見ながら難しい顔をしていた。ともに暮らしていたときは、そのような姿を目にすることはなかった。三娘が知っている父親は、常に優しく穏やかな表情を浮かべていたから。父親の姿を眺めていると、父娘二人で生活していた日々の出来事が次々と思い出されて、三娘は涙ぐんでしまう。  するとそのとき、強い風が急に吹いた。その風は木々の枝葉や庭に咲く花々を揺らす。三娘は急な突風で乱れた黒髪を手で押さえつつ、瞼をぎゅっと閉じた。彼女が羽織っていた水色の上掛けが、風でふわりと舞い上がり、その下に着ていた若草色の衣の裾がわずかにめくれ上がる。  庭を一瞬で吹き抜けた風が止み、ゆっくりと瞼を開いてみると、水たまりに映っていた父親の姿は消えていた。水盆かわりの水たまりは、一度でも波立ってしまえば、暫くの間何も映そうとしない。それが分かっているので、三娘は悲しげな瞳で、揺れる水面を見下ろした。  三娘がいる庭は、仙界の西の外れにある城のなかだった。楊国の城より大きな石造りの城には、本殿を中心に東西南北に殿舎があり、高い城壁で囲まれている。三娘が住まう殿舎は、城の東にあり清明殿と呼ばれていた。清明殿には、春の庭と呼ばれている麗しい庭がある。うららかな日差しが降り注ぎ、春風を思わせる温かな風がそよそよと吹く庭には、桃や桜、木蓮などが咲き誇っていた。その枝には、どこからやってきたのか、美しい鳥たちが羽を休めながらさえずっている。風に乗って鳥たちの可愛らしい声がするなか、三娘は小さなため息を漏らした後、高い城壁の向こうへ目を向ける。  城壁の両端に崑崙山(こんろんさん)と蓬莱山(ほうらいさん)がそれぞれ見えた。いずれも天にそびえ立つほど高い山である。頂上付近が紫色の雲で覆われている高い山を見る度に、三娘はこの地が仙界であることを思い知らされた。それだけではない。もう二度と父親と会えないことや、結婚の約束を交わした相手と再会できないことをも思い知らされる。  その相手は既に亡く、今は弟が火龍の名跡を継いでいた。その男こそが、三娘の父親を救ったあの男である。当代の火龍とは、この殿舎に住み始めたあとから一度も顔を合わせておらず、父親を助けてくれた礼を言いそびれたままになっていた。それに、約束の相手が身罷った理由も知りたいけれど、聞いていいものかためらわれた。三娘が物憂げな表情で山々を眺めている間に、侍女たちがすぐ側までやって来ていた。 「三娘さま。そろそろお部屋にお戻りくださいませ。このままではお体が冷えてしまいまする……」  茶色の上衣に橙色の腰衣を身につけた年若い侍女から、心配そうな顔を向けられてしまえば、もはや部屋に戻るしかない。三娘は未だ何も映そうとしない水面を眺めた後、後ろ髪を引かれる思いで侍女たちとともに部屋に戻ることにした。  仙界へ戻った翌日から、三娘は日がな一日水盆ばかり眺めていた。  やむを得ない事情から仙界で暮らすことを自ら決めたとて、それをすぐに受け入れられるものではない。物語でしか知り得なかった仙界は、右も左も分からぬ場所だ。殿舎を与えられて住み始めたが、どう振る舞って良いものか分からない。何をするにも、どこに行くにも必ず侍女がついてくる。今までそのような暮らしをしたことがない三娘にとって、それは窮屈以外何物でもなかった。そうした暮らしのなかでの目下の楽しみは、遠く離れてしまった父親の姿を水盆で眺めることだけだったのだ。  しかし、いつも侍女たちによって部屋に連れ戻されてしまう羽目になる。それというのも、三娘のために新しい衣装を侍女たちが躍起となって作っているからだった。三娘が庭から戻ると、昨夜縫い上がったばかりと思える衣が部屋の奥にずらりと並べられていた。そのいずれも城にいる侍女たちが、三娘のためだけにあつらえた品々だった。三娘は侍女たちに案内されて、美しい屏風の前に置かれた椅子に腰かける。すると、色とりどりの衣装を手にした侍女たちが、三娘のもとへとやって来た。 「三娘さま。午後のお召しものはこの薄紅のものをお召しくださいませ」  侍女が差し出した薄物の上掛けを、側に控えていた別の侍女が手に取り三娘の華奢な肩に掛ける。柔らかな色合いの上衣を重ねられると、側に控えていた侍女たちが一斉に顔をほころばせ、甲高い声を上げる。 「こちらであれば、濃紅(こいくれない)の上掛けがよろしいかと。かわいらしさが引き立ちまする」  薄紅の上掛けを差し出した侍女が嬉しそうな顔を向けてきた。しかし、別の侍女が紫色の薄物の上衣を手にしたまま、しょんぼりとした顔をする。 「襟に桃の花が縫い取られたこちらの方がかわいらしいと思うのですが……」 それに気がついたのか、薄紅の衣を勧めた侍女が機転を利かせて紫色の上衣を手に取った。 「そのお色なら、こちらの上掛けがよろしいかと。夜のお召しはそちらにいたしましょうか」 「でも、この桃の花のお色の着物なら同じ桃色の上掛けのほうがかわいらしゅうございます」 「そうね、ではそのお色の上掛けを早速用意いたしましょう」  そう言って侍女たちはいそいそとその場を立ち去っていった。どうやら午後は紅色の衣装に、そして夜は桃色と紫色の衣装に決まったようである。ここで暮らし始めて依頼、三娘は日に三回以上衣装を着替えさせられていた。王の妃たちのような貴婦人ならば、日に数度の着替えは当たり前だ。だが、自分は下級役人の娘でしかない。それなのに貴婦人のように扱われることが、三娘は面映ゆかった。  三娘が居心地の悪さを感じるのは、衣装のことだけではなかった。部屋の中に置かれている調度品や、食事にしても贅を尽くした物ばかり。そのようななかにいると、自身の居場所ではないような気がしてどうにも落ち着かなかった。  三娘の実家である宗家は、経済的にさほど恵まれた家ではない。必要最低限の家具しか揃っていなかったけれど、それらは皆頑丈で実用的なものだった。家だってあちこち痛んでいたけれど、雨露を凌げる分には申し分がない。それになんといっても心優しい父親とともに暮らした毎日は、とても満ち足りたものだった。  だが今は豪奢な部屋で、華美な調度品に囲まれて暮らしている。時間になると侍女が運んできてくれる食事だって、国にいたときには口にしたことがないものばかりだった。それに辺り一面に広げられている衣装だって、それはそれは見事なものばかり。年頃の娘なら一度は夢見るような暮らしだが、三娘の心は重く沈んでいた。  仙界(ここ)へ来てから、もう何日経ったか分からない。朝目覚めたときから侍女たちに囲まれているけれど、三娘は孤独を感じずにはいられなかった。自らが決めたこととはいえ、国からも父親からも離れた場所で生きていかなければならない現実は、どんなに豊かで恵まれた場所でさえもつまらないものに変えてしまうものらしい。三娘は椅子に腰かけたまま、物憂げな表情でため息をついたのだった。
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!