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第三話

 男が去った後部屋にやってきた女たちにより、三娘は桃色の着物に着替えさせられた。そして広間に案内されたのだが、その部屋に入るなり三娘はぽかんと口を開けてしまう。  その部屋は見たことがないくらい天井が高かった。円い天井からは、さんさんと眩しい日差しが差し込まれている。三娘は差し込む光が眩しくて、目を眇めながら天井を見上げていた。光は、ゆらゆらと緩やかな動きで揺れていた。その様(さま)は、湖面で揺れている光を思わせた。三娘が揺らめく光を見ていると、急に声を掛けられた。声がした方へ目を向けると、あの男が立っている。  男は三娘を目が合った後、真面目な顔で手を差し出した。恐る恐る近づいてみると、彼は池の前に立っているようだった。いやそれは池ではない。とても大きな水盆(すいぼん)だった。青銅(せいどう)でできた八方形の器いっぱいに、清らかな水が満々とたたえられている。それを見るなり、三娘は以前王宮で見かけたことがある占い用の水盆を思い出した。  楊の国では春の訪れの頃になると、その年の実りを占うことになっていた。その占いで水盆を用いているのだが、目の前にあるものはそれよりもかなり大きいものだった。三娘が水盆を凝視していると、彼女の手を握りしめたまま、男がその水盆にあった階(きざはし)に上がろうとした。三娘は彼が何をしようとしているのか分からず、その不安から足を止めてしまう。  それに気付いたのか、男は階を一段上ったところで足を止め振り返った。三娘は彼を見上げたまま、不安げな表情を浮かべている。その姿から何かを察したのか、男は諭すような口ぶりで彼女を促した。 「何も怖がらずともよい。早(はよ)う」  普通に考えれば大きな水盆に足を踏み入れたら、足元が濡れてしまう。それなのに、なぜその中に入るよう促されているのか分からない。だが目の前にいる男を見ると、当たり前のようにその中にいる。足元を見ると、長衣の裾がしっかりと水に浸かっていた。三娘はおどおどとしながら問いかける。 「あ、あの、これは水盆でよろしいですよね?」  戸惑いながらも尋ねると、男は何も応えようともせず三娘の手を強引に引き寄せた。すると彼女は前のめりになりながら、勢いよく水盤に足を踏み入れてしまう。履いていた白い沓(くつ)にすぐさま水が滲んだ。足に水の冷たさを感じたそのとき、予期せぬことが起きた。  水盆に足を踏み入れた瞬間、周りの景色がすっと消えたかと思ったら、新しい景色が広がった。一瞬にして周囲の景色が変わったせいで、三娘は声を失ってしまうほど驚いた。  彼女は目を大きくさせたまま、その場に立ち尽くしてしまう。彼女の目に映っているもの、それは朱塗りの壁に描かれた聖獣・白虎の姿だった。今にも襲い掛かりそうな程迫力のある白い虎の絵を、三娘はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら眺めている。その隣には黒い長衣を羽織った男が立っていて、さして気にもせず辺りを窺っていた。 「三娘よ。王のもとへ行く前に聞きたいことがある」  男が隣にいる三娘に尋ねるが、問われた本人はぼう然となったままだった。さもありなん。この数時間のうちに起きた出来事は、すべて彼女の理解を超えたものばかり。だから彼女は混乱しているのだが、男はそれを分かっていないらしい。問いかけに返事もせずにぼうっとしたままの三娘を、男は怪訝そうな顔で眺めいている。  視線を感じ、恐る恐るそれをたどると、隣に立っている男から訝しげな表情を向けられていた。三娘の不安げな表情から何かを察したらしく、男はわずかに眉をひそめて彼女に問う。 「三娘、いかがした?」 「あ、あの……。こ、ここは、どこです?」 「ここは楊国の王宮の奥にある祭事を行う部屋だ」 「祭事?」 「代々の楊国王が神々に祈りをささげる部屋と言えば分かるか?」  そう言えば聞いたことがある。王宮の一番奥まった場所には、王しか立ち入りを許されていない祭礼用の部屋があることを。恐らくここがその部屋なのだろう。そのことに気が付いた三娘は、必死の形相で男に詰め寄った。 「こっ、ここは王以外立ち入りを許されていない部屋です!」  三娘は勢いよく言い放った。しかし男は平然としたまま、落ち着いた声で話し始める。 「だが我は許されている。とはいえ我も初めて来たが。それより三娘よ」 「ふえ?」 「そなたの父御を助ける前に、ひとつ確かめておきたいことがある」  真剣な表情を浮かべる男に告げられ、三娘は戸惑いながらも次の言葉を待つことにした。  重い木の扉を開いた瞬間、懐かしい光景が広がっていた。  ここは王宮の内宮、つまり王と王族しか入ることを許されていない場所である。それなのに、三娘が懐かしさを感じているのは理由がある。  楊国では、ある一定の家格を持つ家の娘は年頃になると、内宮の侍女として働くきまりになっている。それは花嫁修業の一つであった。三娘も例に漏れず、十六才から二十才までの間、内宮の中で裁縫係として雇われていた。だから彼女にとって懐かしい場所だったのだ。  廊下の壁に灯りが灯されているということは、夜になっているのだろう。それに、人の気配がしないところをみると、夜更けを過ぎているに違いない。婚礼用の輿から逃げ出したのは、午前中のことだった。あれから数時間が過ぎているが、父親は無事だろうか。三娘は男とともに廊下を進みながら、恐々となっていた。  祭事を行う部屋から伸びる廊下は、内宮と外宮のあいだにある殿舎に繋がっている。そこは王が執務をとる場所である。男はその場所を目指しているようだった。長衣の裾と床がこすれ合う音がする。  廊下を進んでいると、急に手を握られた。三娘は驚いてしまい、すぐさま男を見上げる。すると、男は前を向いたままはっきりとした声で告げた。 「案ずるな。必ず助ける」  その言葉は、不安を完全に消してはくれなかったけれど、軽くはさせた。男が何者であるか分からないのに。三娘は、藁にもすがる思いで男の大きな手をぎゅっと握りしめた。  やがて二人は、大きな扉の前に立った。もう既に王の執務は終わっている時間である。だが、人の気配がした。  男が扉を開くと、案の定部屋には王と王妃が寛いでいた。彼らは突然現れた三娘と男の姿に驚いたようで、長椅子に腰掛けたままぼう然となっていた。 「楊国王よ。そなたこの娘を側室にと望んだようだが、それはまことか?」  男が落ち着いた声で王に問う。王は三娘を見た後、こくこくと頷いた。 「この娘は、先代の火龍と結婚の約束を交わしておった娘じゃ。そなたそのことを知っておったか?」  男が少しだけ声音を重くさせ問うと、王は顔を一瞬のうちに青ざめさせた。そして勢いよく椅子から立ち上がったあと、その場に突っ伏しひれ伏した。 「いっ、いえ! もしもそのことを知っておったなら、側室にはっ……」  王は下げていた頭を僅かに上げた。その姿はふだんの威厳に満ちたものではなくなっている。その様(さま)を目の当たりにしてしまい、三娘は驚きの余り言葉を失った。 「ならばこの話はもうよい。して、この娘の父御はいずこにおる」  男が険しいまなざしを向けると、王は怯えた表情で声を震わせた。 「三娘、さまのお父上は、城の地下におりまする。ですが、すぐにでもそこを出ていただき、御自宅にお戻しいたしますっ!」 「そうか、では頼むぞ。もしも約束を違えたならば、そのときは楊国が滅びると思え」  男がひときわ声を低くさせると、王は体をぶるぶる震わせながらひれ伏した。その姿を目にしたあと、男は満足げな笑みをうっすらと浮かべて、隣にいる三娘を見下ろした。 「三娘よ。これで良いな」  三娘は顔をハッとさせて、男を見上げた。すると色の異なる双眸が向けられていた。それを見たとき男から告げられた言葉が脳裏を掠め、三娘はわずかに表情を曇らせる。 『仙界に住まうものが、人界のことに関わることは許されておらぬ』  幼い頃とはいえ、神仙の一人である火龍と結婚の約束を交わしているならば、王の側室となることはできない。だから此度の側室の件はなかったことになるし、三娘の父親は罪に問われる必要がない。  だが約束を交わした先代の火龍はとうに亡くなっていて、本来ならばその時点で約束は無効になる。そうなれば王の側室に望まれたら受けねばならないし、それを蹴ってしまった以上父親は罪に問われてしまう。  だから父親を救うためには、それなりの理由が必要だと男から切り出され、三娘は決断を迫られた。父親を救うため、今は亡き先代火龍の花嫁として仙界で生きるか、それとも望まぬ婚姻を受け入れるかを。三娘が選んだもの、それは仙界で生きることだった。
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