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父親を救うために決めたもの

 男によって呼ばれた女たちにより、三娘は桃色の着物に着替えさせられた。  その後広い部屋に通されたのだが、三娘はその部屋に入るなり、ぽかんと口を開けたまま、天井を仰いでしまう。その部屋は天井がものすごく高かった。円い天井からは、さんさんと眩しい日差しが差し込まれている。三娘は差し込む光が眩しくて、目を眇めながら天井を見上げていた。  だが光がゆらゆらと揺れていることに三娘は気付いた。その|様《さま》は、湖面で揺れている光を思わせた。三娘が揺らめく光を見ていると、急に声を掛けられた。声がした方を見ると、目の前で男が真面目な顔で振り返り、手を差し出している。恐る恐る男に近づいてみると、彼は池の前に立っていた。  いやそれは池ではない。とても大きな|水盆《すいぼん》だった。|青銅《せいどう》でできた八方形の器いっぱいに、清らかな水が満々とたたえられている。それを見るなり、三娘は占いで用いられているものを思い出した。  相の国では春の訪れの頃になると、その年の実りを占うことになっていた。その占いで水盆を用いているのだが、目の前にあるものはそれよりもかなり大きいものだった。三娘が水盆を凝視していると、彼女の手を握りしめたまま、男がその水盆にあった|階《きざはし》に上がろうとした。三娘は彼が何をしようとしているのか分からず、その不安から足を止めてしまう。  それに気付いたのか、男が|階《きざはし》を一段上った姿で振り向いた。三娘は彼を見上げたまま、不安げな表情を浮かべている。その姿から何かを察したのか、男は諭すような口ぶりで|階《きざはし》に上がるよう彼女を促した。 「何も怖がらずともよい。|早《はよ》う」  普通に考えればその水盆に足を踏み入れたとて、ただ足元が濡れるだけ。それを分かっているのに、なぜその中に入るよう促されるのか分からない。だが目の前にいる男を見ると、当たり前のようにその中にいる。足元を見ると、長衣の裾がしっかりと水に浸かっていた。三娘はおどおどとしながら問いかける。 「あの、でも。これって水盆、ですよね?」  戸惑いながらも尋ねると、男はそれに応えようともせず三娘の手を強引に引き寄せた。すると彼女は前のめりになりながら、勢いよく水盤に足を踏み入れてしまう。履いていた白い|沓《くつ》にすぐさま水が滲んだ。足に水の冷たさを感じたそのとき、予期せぬことが起きた。  水盆に足を踏み入れた瞬間周りの景色がすっと消えたかと思ったら、新しい景色が広がっていた。一瞬にして景色が変わったことに、三娘は驚いた。  彼女は目を大きくさせたまま、その場に立ち尽くしてしまう。彼女の目に映っているもの、それは朱塗りの壁に描かれた西の聖獣・白虎の姿だった。今にも襲い掛かりそうな程迫力のある白い虎の絵を、三娘はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら眺めている。その隣には黒い長衣を羽織った男が立っていて、さして気にもせず辺りを窺っていた。 「三娘よ。王のもとへ行く前に聞きたいことがある」  男が隣にいる三娘に尋ねるが、問われた本人は茫然としたままだった。さもありなん。この数時間のうちに起きた出来事は、すべて彼女の理解を超えたものばかり。だから彼女は混乱しているのだが、男はそれを把握できていないらしい。問いかけに返事もせずにぼうっとしたままの三娘を、男は怪訝そうな顔で眺めいていた。  視線を感じ隣に立っている男の方へ、三娘は恐る恐る顔を向けた。すると訝しげな表情を浮かべ見下ろしている。彼女の不安げな表情から何かを察したらしく、男はわずかに眉をひそめて彼女に問うた。 「三娘、いかがした?」 「あ、あの……」  男に問われたがいいが、何から尋ねていいものか悩んでしまう。それだけたくさん聞きたいことがあるのは事実ではあるけれど、それよりも今は父親をどうにかしなければ。三娘は意を決したような表情で、男に問いかけた。 「ここは、どこです?」 「ここは相国の王宮の奥にある祭事を行う部屋だ」 「祭事?」 「代々の国主が神々に祈りをささげる部屋と言えば分かるか?」  そう言えば聞いたことがある。王宮の一番奥まった場所には、王しか立ち入りを許されていない部屋があることを。恐らくここがその部屋なのだろう。そのことに気が付いた三娘は、必死の形相で男に詰め寄った。 「こっ、ここは王以外立ち入りを許されていない部屋です!」  三娘は勢いよく言い放った。しかし男は平然としたまま、落ち着いた声で話し始める。 「だが我は許されている。とはいえ我も初めて来たが。それより三娘、|早《はよ》う」 「ふえ?」 「そなたの父御を助ける前に、確かめておきたいことがある」  真剣な表情を浮かべる男に告げられ、三娘は戸惑いながらも彼の次の言葉を待つことにした。  廊下の先にある重い木の扉を開いた瞬間懐かしい光景が広がっていた。数年前までそこで働いていた思い出が、三娘の頭の中に浮かぶ。  あたりはしんと静まり返っていて、ふだんなら控えているはずの武官や女官たちの気配がない。それに違和感を抱きつつも、三娘は男とともに王がいる部屋を目指す。不安と焦りがないまぜになって心を覆い尽くそうとしている。はやる思いに急かされるように、知らず早足になっていた。廊下を進むたび、長衣の裾と敷物がこすれ合う音がする。  廊下を進んでいると、急に強い力で手を握られた。三娘はそれに驚いてしまい、思わず男を見上げると、端正な横顔はまっすぐ前を向いていた。がっしりとした肩には、垂れたままになっている長い銀髪が僅かに掛かっていて、歩くたび風に靡いている。 「案ずるな。必ず助ける」  形の良い唇がキッと引き結ばされたのを、三娘は目にしてしまう。その言葉が嘘偽りでないことを実感させられ、それに応えるように彼女は手を握り返した。  そうして歩いているうちに人の気配がして、二人は手を固く繋ぎながらそちらへと向かう。するとその先には部屋があり、そこで王と王妃が寛いでいた。彼らは突然現れた三娘と男の姿に驚いたようで、茫然としたまま、長椅子に腰掛け石のように体を硬直させている。 「王よ。そなたこの娘を側室にと望んだようだが、それはまことか?」  男が落ち着いた声で、茫然となっている王に問う。王は目を大きくさせたままこくこくと頷いた。 「この娘は、先代の火龍と結婚の約束を交わしておった娘じゃ。そなたそのことを知っておったか?」  男が少しだけ声音を重くさせそう問うと、王は顔を一瞬のうちに青ざめさせた。そして勢いよく椅子から立ち上がっただけでなく、その場に突っ伏しひれ伏した。 「いっ、いえ! もしもそのことを知っておったなら、決して側室にはっ……」  王は下げていた頭を僅かに上げた。その姿はふだんの威厳に満ちたものではなくなっている。その|様《さま》を目の当たりにしてしまい、三娘は驚きの余り言葉を失った。 「ならばこの話はもうよい。して、この娘の父御はいずこにおる」  男が険しいまなざしを向けると、王は怯えた表情で声を震わせながらそれに応えた。 「三娘さまの父御は、城の地下におりまする。ですがすぐにでもそこを出ていただき、御自宅にお戻しいたしまする」 「そうか、では頼むぞ。もしも約束を違えたならば、そのときはこの国が滅びると思え」  男がひときわ声を低くさせ告げると、王は体をぶるぶる震わせながらひれ伏した。その姿を目にしたあと、男は満足げな笑みをうっすらと浮かべて、隣にいる三娘を見下ろした。 「三娘よ。これで良いな」  三娘は顔をハッとさせて、男を見上げた。すると色の異なる双眸が向けられていた。それを見たとき男と交わした約束が脳裏を掠め、三娘はわずかに表情を曇らせる。  幾ら幼い頃とはいえ、神仙の一人である火龍と結婚の約束を交わしているならば、王の側室となることは許されないことだった。だから此度の側室の件はなかったことになるし、三娘の父親は罪に問われる必要がない。  だが約束を交わした先代の火龍はとうに亡くなっていて、本来ならばその時点で約束は無効になる。そうなれば王の側室に望まれたら受けねばならないし、それを蹴ってしまった以上父親は罪に問われてしまう。 『仙界に住まうものが人界のことに関わることは許されておらぬ』  だから父親を救うためには、それなりの理由が必要だと男から切り出されたとき、三娘は決断を迫られたのだった。そして彼女が選んだもの、それは。父親を救うため、今は亡き先代の火龍の花嫁として、仙界で生きるというものだった。

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