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第二話

 その男は、突然現れた。  三娘の母親がまだ生きていた頃の話である。彼女は幼い頃から物語が好きな少女で、その日も母親とともに古くから伝わる言い伝えが書かれた本を読んでいた。  楊(よう)の国は、大陸の東の果てにある国で、四方を高い山々で囲われている。その山々には、古(いにしえ)より徳の高い仙人たちが住むと言われており、彼らが国を守っているのだと民は信じていた。その山の一つに、龍が守ると古くから言い伝えられている山がある。龍は山々に住んでいる仙人や仙女を守るだけでなく、この国をも守っていると言われていた。  龍が守る山の麓には、とても美しい湖がある。そこへ人間の娘がやって来た。龍はその娘をひと目見て恋に落ちたという。しかし、龍の姿のまま彼女に近づけば、きっと怖がられてしまうに違いない。そう思った龍は、遠くから彼女の姿を見るだけにとどめていた。  湖のほとりで薬草を摘む娘の姿を見るたびに、龍は切ない思いに身を焦がしていた。龍の姿でなければ娘に会うことができる。この鋭いかぎ爪がなければ、娘に触れることができる。そう思い続けているうちに、誰かのもとへ嫁ぐことが決まったのだろう。帯に美しい宝珠の飾りをつけた姿でやってくる娘の姿を、龍は見てしまう。  楊の国では結婚が決まったら、娘は相手から贈られた宝珠の飾りを付けることになっている。その姿を見た龍は深く嘆き悲しんだ。誰かのものになるからと言って、娘への思いをすぐに捨て去ることなどできるはずもない。結局その娘が婚礼衣装に身を包み、嬉しそうな顔で嫁いでいくのをそっと見送っていたという。そのとき龍は涙をこぼした。その涙はすぐさま美しい真珠となったと言われている。だから楊の国では、真珠を龍の涙と呼んでいた。  幼い三娘はその話を母親から聞かせられ、ぽろぽろと涙をこぼして泣き始めた。聡明な娘は叶わぬ思いに身を焦がしながらも、愛しい娘が嫁ぐのを見送ることしかできなかった龍に哀れみを感じ、涙を流していたのだった。  母親は泣いてしまった娘の気を紛らわせるために、甘い菓子を持ってこようと部屋を後にした。その直後のことである。どこから現れたのか、三娘の目の前に緋色の鎧を身に着けた男が現れた。  男はとても美しかった。神々しいまでに美しい男を見たとき、三娘は思わず泣きやんだ。泣き腫らした顔で男を見上げると、彼はうっとりするほど美麗な笑みを浮かべ彼女の足元に跪いた。 『ようやく見つけた、我が花嫁よ。そなたが長じた暁には我が一族総出で迎えに来る』  白磁の如く白い肌と、暗夜の如し黒い髪。そしてまっすぐ向けられた瞳の色は深い赤だった。三娘はこの世のものとは思えぬほどの美貌を誇る男に、ただ頷くことしかできなかった。すると彼は結婚の約束の品だと言って、赤い袋を手渡した。その中身を確かめてみると、彼の瞳と同じ色の宝珠が幾つか入っていた。 『この赤い宝珠は我の血でできている。何事かあったならそれを放り投げろ。さすれば必ず我の元へ連れて来てくれる』  そう言った後、その男は自らの名を三娘に告げた。炎を司る龍の一族の長・火龍と呼ばれていることを。  そしてその直後、彼は三娘の目の前から煙の如く姿を消したのだった。  三娘は夢を見ていた。幼き頃突然目の前に現れた火龍の夢を。  彼が姿を消した直後。部屋に戻った母親にその話をしたところ、かなり戸惑っていた。だが火龍と言っていた男がくれた袋を見せると、それまで不安げだった母親の表情が、みるみるうちに驚いた顔になっていた。 『もしかしたら、あの山に住む龍かもしれないわね』  母親は窓から見える高い山を指さした。その山こそ、古より龍が住まう山だと言われている山だった。  それから数年ののちに母親は、病で帰らぬ人となる。幼い三娘は母親が恋しくて毎日泣き続けたものだった。そのときの記憶が蘇ってきて、三娘は涙を流しながら瞼を開く。すると嗅ぎ慣れない匂いに気がついた。それだけではない。頬や手から温かくなめらかな感触が伝わってくる。  はて、ここはどこだろうと三娘は記憶を手繰り寄せる。  婚礼の輿から逃げ出して母親の部屋に入った後、贈られた宝珠を放ったところ、炎のような光に包まれた。そのとき、嗅いだことがない香りが漂いだし、そのまま吸い込まれるように意識を失っていた。三娘はそれを思い出し、勢いよく体を起こす。 「お父さま!」  手を突いたところが、わずかに動いた。三娘は、とっさに手を離し、恐る恐る視線を下げる。視線の先にいたのは、それまで一度も見たことがない褐色の肌を持った男だった。男は白い単衣を羽織っただけの姿で三娘を見つめている。向けられている双眸は、金と銀の瞳だった。  はだけた襟から覗く逞しい体には、無数の傷痕が残っているようだった。長い銀色の髪が、がっしりとした肩に掛かって垂れている。凜々しい顔立ちの男と二人、しばらく見つめ合っていたのだが、彼が呟くように三娘の名を呼んだ。 「三娘……」  耳障わりのよい低い声が耳に入り、三娘は我に返った。  そうだ、こうしている間にも父親は……。  三娘は生まれたままの姿であることに気がつかないまま、目の前にいる男に勢いよく迫った。 「お願い! お父さまを助けて!」と叫びながら。 「では、その赤い宝珠を放り投げたら、突然炎に包まれたということで間違いないのだな?」  男から尋ねられ、三娘は沈んだ顔を俯かせたまま小さく頷いた。彼女は背もたれのない長椅子の端に居心地悪そうに座っている。その反対側の端で、男は不機嫌そうな顔で彼女を睨んでいた。  彼が不機嫌な表情をしているのには理由がある。それは彼女が父親を助けてほしいと頼み込んだときのことだ。三娘が裸のまま迫ったところ、勢い余ってバランスを崩してしまい、男の上から落ちそうになったのだ。それを男はすぐさま三娘を抱きかかえたから事なきを得たのだが、そのとき彼女は気付いてしまったのだ。全裸であることを。  三娘はとっさに叫んだ。ものすごい大声で。それに男が驚いてしまったらしく、慌てて彼女の口を塞いだのだが、その方法がまずかった。三娘の口を己の口で塞いだのである。つまりは接吻《キス》だ。  生まれて初めての接吻に驚いてしまい、彼女は目を大きくさせたまま体を硬直させた。だが、男は三娘の唇を奪ったままだった。そして、しばらく経ったのち、名残惜しげにゆっくり唇を離し、三娘に、男のものと思われる黒い上掛けを羽織らせた。  それからしばらく三娘は、全く動かなかった。当たり前だ。接吻とは男女の交わりに極めて近い行為だ。三娘はそれまでただの一度も接吻をしたことがない。だから驚きの余りぼう然となっていたのだが、男はそれを知る由もない。男は着ていた衣を着直して、椅子の端に腰掛けた後ゆっくりと三娘に問いかけた。 「一体、何事が起きたのだ」  問いかけられて、ハッと我に返った三娘は、婚礼の輿から逃げたときからの出来事を説明し始めた。しかし、内心では気が気でなかった。今こうしている間にも、父親は処刑されているかもしれない。それを考えると気ばかりはやってしまい、いてもたってもいられなかった。  だからここがどこで、男が何者であるかなど、どうでもよかった。とにかく一刻も早く父親を助けなければ。三娘はそれしか考えていない。だが彼女の焦りに男は気付いていないらしく、平然としたまま問いかけてくる。 「その宝珠は誰から貰ったのか」 「その宝珠をもらったのはいつの頃か」 「その宝珠を贈った相手の容姿はどのようなものだったか」  男から次々と尋ねられるたび、三娘は、はやる気持ちを抑えながらも記憶を手繰りよせ説明した。ようやく全ての問いかけに答え終えると、尋ねた男は押し黙ってしまった。何かを考え込んでいる男の姿を眺めながら、彼女はますます焦ってしまう。  早く。とにかく一刻も早く父親を助けに行かなければ。さもなくば、父親は殺されてしまう。それを考えると泣き叫んでしまいそうだった。その衝動を必死になって抑えていたのだが、同時に沈黙と不安に押しつぶされてしまいそうだった。三娘は悲痛な面持ちで、考え込んでいる男に縋るようなまなざしを向けている。そして暫く経った頃、ようやく男がため息交じりに呟いた。 「そうか。だから我が呼ばれたのだろうな……」 「呼ばれた?」  すると男は顔をハッとさせ、すぐさま三娘から顔を逸らした。 「その宝珠を贈ったものはもうおらぬ。おぬしは、たどり着くべきものがいないせいで、人界と仙界のはざまにいたのだ。もしもその宝珠にそのものの念が残っていなければ、今でもそこにいたであろうの」 「人界? 仙界? はざま?」  聞き慣れない言葉のせいで、三娘は意味が分からず戸惑ってしまう。すると男は、再びため息交じりに話し始めた。 「まずは、そなたの父御を助けに行かねばの。話はそれからだ」  男は、それまで腰かけていた椅子から立ち上がり、しっとりとした光沢を放つ黒い長衣を羽織った後、部屋から出て行った。
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