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見知らぬ世界

 その男はある日突然現れた。  三娘の母親がまだ生きていた頃の話である。彼女は幼い頃から物語が好きな少女で、その日も母親とともに古くから伝わる言い伝えが書かれた本を読んでいた。  |相《しょう》の国をぐるりと取り囲む山々の一つに、龍が守る山があると古くから言い伝えられている。その龍は山々に住んでいる仙人や仙女を護るだけでなく、この国をも護っていると言われていた。  その龍が守る山の麓にはとても美しい湖があって、ある日そこへ人間の娘がやって来た。龍はその娘をひと目見て恋に落ちたという。しかしこのままの姿で彼女に近づけば、きっと怖がられてしまうだろう。だから龍は、遠くから彼女の姿を見るだけにとどめていた。  湖のほとりで薬草を摘む娘の姿を見るたびに、龍は切ない思いに身を焦がしていた。この姿でなければ娘に会うことができる。このかぎ爪がなければ娘に触れることができる。そう思い続けているうちに、誰かのもとへ嫁ぐことが決まったのだろう。帯に美しい玉の飾りをつけた姿でやってくる娘の姿を、龍は見てしまう。  相の国では結婚が決まった娘は、相手から贈られた玉の飾りを付けることになっている。その姿を見た龍は深く嘆き悲しんだ。誰かのものになるからと言って、娘への思いをすぐに捨て去ることなどできるはずもなく。結局その娘が婚礼衣装に身を包み、嬉しそうな顔で嫁いでいくのをそっと見送っていたという。そのとき龍は涙をこぼした。その涙はすぐさま美しい真珠となったと言われている。だから相の国では真珠を龍の涙と呼んでいた。  幼い三娘はその話を母親から聞かせられ、ぽろぽろと涙をこぼして泣いていた。聡明な娘は叶わぬ思いに身を焦がしながらも、愛しい娘が嫁ぐのを見送ることしかできなかった龍に哀れみを感じ涙を流していたのだった。  母親は泣いてしまった娘の気を紛らわせるために、甘いお菓子を持ってこようと部屋を後にした。その直後どこから現れたのか、三娘の目の前に緋色の鎧を身に着けた男が現れた。  男はとても美しかった。神々しいまでに美しい男を見たとき、三娘は思わず泣きやんだ。泣き腫らした顔で男を見上げると、彼はうっとりするほど美麗な笑みを浮かべ彼女に跪いた。 『ようやく見つけた、我が花嫁よ。そなたが長じた暁には我が一族総出で迎えに来る』  白磁の如く白い肌と、闇夜の如し黒い髪。そしてまっすぐ向けられた瞳の色は深い深い赤だった。三娘はこの世のものとは思えぬ美貌を誇る男に、ただ頷くことしかできなかった。すると彼は結婚の約束の品だと言って、赤い袋を手渡した。その中身を確かめてみると、彼の瞳と同じ色の玉が幾つか入っていた。 『この赤い玉は我の血でできている。何事かあったならそれを放り投げろ。さすれば必ず我の元へ連れて来てくれる』  そう言った後その男は自らの名を三娘に告げた。炎をつかさどる龍の一族の長であり、火龍と呼ばれていることを。そしてその直後、彼は三娘の目の前から煙の如く姿を消したのだった。  三娘は夢を見ていた。幼き頃突然目の前に現れた火龍の夢を。彼が姿を消した直後部屋に戻った母親にその話をしたところ、母親は戸惑っていた。だが火龍と言っていた男がくれた袋を見せると、それまで不安げだった母親の表情が、みるみるうちに驚いた顔になっていたのを覚えている。 「もしかしたらあの山に住む龍かもしれないわね」と母親は話していた。三娘の家の側にそびえ立つ山こそ、古より龍が住まう山だと言われている。母親はその山を指差して娘に教えてくれたのだった。  それから数年ののちにその母親は、病で帰らぬ人となる。幼い三娘は母親が恋しくて毎日泣き続けたものだった。そのときの記憶が蘇ってきて、三娘は涙を流しながら瞼を開く。  嗅ぎなれない匂いには気が付いていたけれど、何の匂いなのか分からない。それに頬や手のひらから伝う感触は温かく滑らかなものだった。はて、ここはどこだろうと三娘は記憶を手繰り寄せる。  婚礼の輿から逃げ出して母親の部屋に入った後、贈られた玉を放ったら炎のような光に全身が包まれた。その光に包まれたとき、嗅いだことがない香りが漂ってきて、そのまま吸い込まれるように意識を失っていた。それを思い出したとき、三娘はあることに気付く。 「お父さま!」  三娘は勢いよく体を起こした。するとついた手のひらから柔らかな感触が伝ってくる。それだけじゃない。視線を感じ恐る恐るそちらを見ると、見知らぬ男に見つめられていた。男の肌の色は褐色で、寝乱れた長い髪は銀色だった。双眸の色は異なっていて、銀と金の瞳がまっすぐ向けられている。凛々しい顔立ちの男は、夜着のようなゆったりとした衣を身に着けていた。はだけた胸元からは男の逞しい胸が覗いていて、三娘はそこに手をついている。  彼の体に寝そべっていた三娘はというと、生まれたままの姿になっていたのだが、彼女はそれに気づいていない。突然の出来事に言葉を失い、彼女は彼としばらく見つめ合っていた。すると男が、気づかわしげに彼女の名を口にする。 「三娘……」  男の低い声にハッと我に返った三娘は、彼が何者であるか分からぬのに、勢いよく身を乗り出して青ざめた顔で叫んでいた。 「お願い! お父さまを助けて!」と。 「では、その赤い玉を放り投げたら、炎に包まれたということで間違いないのだな?」  男から尋ねられ、三娘は沈んだ顔を俯かせたまま小さく頷いた。彼女は背もたれのない長椅子の端に居心地悪そうに座っている。その反対の端には男がいて、不機嫌そうな顔で彼女を睨んでいた。  彼が不機嫌なのには理由がある。それは彼女が父親を助けてほしいと頼み込んだ直後のことだ。裸の三娘が迫ってきたとき、勢い余ってバランスを崩してしまい、男の上から落ちそうになった。男がすぐさま彼女の体を抱きかかえたおかげで事なきを得たのだが、そのとき彼女は気付いてしまったのだ。全裸であることを。  三娘はとっさに叫んだ。ものすごい大声で。それに男が驚いてしまったらしく、慌てて彼女の口を塞いだのだが、その方法がまずかった。三娘の口を己の口で塞いだのである。つまりは|接吻《キス》だ。  生まれて初めての接吻に驚いてしまい、彼女は目を大きくさせたまま体を硬直させた。男は名残惜しげにゆっくり唇を離したあと、椅子の下に脱げ捨てたままになっていた黒い長衣を彼女の体に掛けた。  それから数分三娘は、微動だにしなかった。当たり前だ。接吻とは男女の交わりに極めて近い行為だ。もちろん三娘は接吻をしたことがない。だから驚きのあまり茫然となっているのだが、男はそれを知る由もない。  男は着ていた衣を着直して、椅子の端に腰掛けた後ゆっくりと三娘に問いかけた。 「一体、何事が起きたのだ」  その声にハッと我に返った三娘は、婚礼の輿から逃げたときからの出来事を説明し始めたのだった。三娘は気が気でなかった。今こうしている間にも、父親は処刑されているかもしれない。それを考えると気ばかりはやってしまい、いてもたってもいられなかった。だからここがどこで、男が何者であるかなどこの時どうでもよかった。とにかく一刻も早く父親を助けなければ。三娘はそれしか考えていない。だが彼女の焦りに男は気付いていないらしく、平然としたまま問いかけてくる。 「その玉は誰から貰ったのか」 「その玉をもらったのはいつの頃か」 「その玉を贈った相手の外観はどのようなものだったか」  男から尋ねられたのは、全てあの玉のことだった。それを問われるたび三娘は、はやる気持ちを抑えながらも記憶を手繰りよせ男に説明した。ようやく全ての問いかけに答え終えると、尋ねた男は押し黙ってしまう。何かを考え込んでいる男の姿を眺めながら、彼女はますます焦ってしまう。  早く。とにかく一刻も早く父親を助けに行かなければ。さもなくば殺されてしまう。それを考えると泣き叫んでしまいそうだった。その衝動を抑えながらも沈黙に耐えていたのだが、その沈黙と不安に押しつぶされてしまいそうだった。三娘は悲痛な面持ちで、考え込んでいる男に縋るようなまなざしを向けていた。そして暫く経った頃、ようやく男がため息交じりに呟いた。 「だから我が呼ばれたのだろうな……」 「呼ばれた?」  すると男は顔をハッとさせ、すぐさま三娘から顔を逸らした。 「つまりその玉が我を呼んだのだ」 「呼んだ?」 「だが、その玉の持ち主はもうおらぬ。だからそなたは人界と仙界のはざまに居たのだ。そして玉に残っていた念が我を呼んだのだ」 「人界? 仙界? はざま?」  聞き慣れない言葉を聞かされた三娘は、ただその言葉を独り言のようにつぶやくのみ。すると男は戸惑う三娘を眺めながら、ため息交じりに話し始めた。 「まずはそなたの父御を助けに行かねばの。話はそれからだ」  男はしっとりとした光沢を放つ黒い長衣に着替えたあと、三娘を着替えさせるべく人を呼び、部屋を後にした。

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