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婚礼の輿から逃げ出した娘

 その日下級役人が住んでいる古い屋敷に、美しい赤い布で囲われた華やかな輿がやって来た。揃いの青い衣装を身に着けた男四人が担いでいる輿は、婚礼用の輿である。  今日はその屋敷の主である宋 寿安(そう じゅあん)の娘・三娘(さんじょう)が王の側室として嫁ぐ日だ。三娘は、(よわい)二十五となる。この国の平均的な結婚適齢期は二十代の初めだから、それを考えると彼女は行き遅れと称されても仕方がない年齢となっていた。  (しょう)の国は、大陸の東の果てにある小さな国だ。四方を高い山々で囲われているおかげで、建国以来近隣の国々から攻め込まれたことがない。国を囲む山々には(いにしえ)より徳の高い仙人たちが住むと言われており、その仙人たちが国を守っているのだと民は信じていたし、彼らを崇め奉っていた。  相の国でも宋家の三娘(さんじょう)といえば、誰しもが口をそろえて言う。可憐な姿は桃の花を思わせ、柔らかなその物腰は慈愛に満ちていると。だから皆気になっていた。誰が彼女を正妻として娶るかを。  彼女が年ごろを迎える頃には、名だたる名家から正妻に迎え入れたいという申し出がひっきりなしに届いていたのだが、父親はそれを悉く断りつけたものだった。  それは何も可愛い一人娘を嫁に出したくなかったからではない。当の本人が頑なにその話を拒んでいたからだった。しかしさすがに王の命には逆らえず、三娘は赤い婚礼衣装に身を包み、出立を待っている。  三娘は控えの間の片隅にある長椅子に腰掛け、顔を俯かせていた。まだあどけなさを残してはいるものの、もう少し長ずれば傾国となり得るほどの美貌を持つ娘である。憂いを帯びた(かんばせ)は、彼女の支度を整えた使用人たちでさえ胸を痛めてしまうほどのものだった。  王の側室と言えば望んでなれるものではない。どのような器量よしであろうが、美姫とうたわれようが、王が望まぬ限り側室になることはない。だから三娘のもとに側室として王のもとへ上がるよう命が下ったときは、周囲の人間たちは大いに喜んだものだった。  だが当の本人は喜びもしないばかりか、さめざめと泣き崩れてしまい、周囲の人間たちはそれをどうしたものか苦慮する羽目になる。その姿を目にした父親は、王命に逆らうことになろうとも側室の話を断ろうとした。それは娘がずっと縁談を断り続けている理由を知っているからだ。  だが三娘は側室に上がることを決めた。側室の話とはいえ、王命に逆らうことは不敬罪とみなされ、一族全員処刑されかねない。それを覚悟した父親はそれもやむなしと腹を決めたのだが、賢明な娘である。すぐにそのことを察したのだ。  幾らあれは夢だと思おうとしたけれど、ずっと忘れられなかった。  幼い頃に突如目の前に現れた美丈夫から己の花嫁と告げられ、結納替わりの品を受け取ったはいいが、ついにその人は迎えに来てくれなかった。  三娘が縁談を断り続けたのは、その男を待っていたからである。  緋色の鎧を身に着けた火龍と名乗った男を。 「三娘(さんじょう)……」  そう言って、控えの部屋にそっと忍び込むように入ってきたのは、文官用の礼服に身を包んだ父親だった。礼服の色は即ち位階を示している。父親が着ている礼服の色は深緑色で、これは下位の役人が身に付ける色である。  父親は婚礼が決まったときから塞ぎ込んでしまった娘の様子を窺いに来たのだろう。年老いた父親の呼びかけにも娘は何の反応も示さない。極上の絹でできた赤い婚礼衣装に身を包み、頭からすっぽりと薄い紗を被った三娘の姿は、はた目からみれば国一番の幸せ者と言えよう。だが彼女の表情を見ると、今にも泣きだしてしまいそうなものだった。  黒目がちな瞳は涙ですっかり潤んでいる。溢れそうになった涙を指で何度も拭ったのだろう。目元がすっかり赤くなっていた。衣装と同じように鮮やかな紅が塗られているふっくらとした唇はきゅっと引き結ばれているけれど、わずかに震えている。赤い衣を纏った肩が小刻みに震えていて、それを抑えようとしてか、金と銀の装飾が施された小さな手を重ね合わせていた。そしてその小さな手には、すっかり色あせてしまった古い袋を握りしめている。  その姿を目にした父親は、何も言わずに静かに目を閉じた。幾ら家の為だとはいえ、可愛い娘に辛い決断をさせてしまったことには変わりはない。そのことに耐えきれなかったのだろう。そして父親と娘のそのような姿を見ていた使用人たちは、ついに耐えきれず袖で口を押さえながら、さめざめと泣いていた。  そのとき部屋に突然入ってきた。扉を勢いよく開けたのは、濃い緋色の礼服を身に着けている男で、父親の上官である。父親より若い上官は部下とその娘の異変にすぐに気付いたのだが、それに気づかぬふりを決め込んで事務的に言い放った。 「寿安(じゅあん)。そろそろ娘御を輿へ」  ついにそのときが来た。三娘は俯かせていた顔を上げ、目を大きく見開いた。握りしめていた袋をより強く握りしめ、唇をかみ締める。大きな瞳から涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちた。 「さあ! 迎えに来た者たちが痺れを切らしておるのだぞ!」  いつまでも動こうとしない親子に痺れを切らしたのか、いら立たしげにそう言って上官は部下をにらみ付けた。怒気をはらんだその声にハッとなった三娘はとっさに椅子から立ち上がり、涙を拭おうともせずに父親と上官の側へ近づいた。 「三娘……」 「お父さま……」  三娘は笑顔を無理に作って赤い布越しに父親を見上げた。すると思いつめた表情を浮かべている父親の目に、涙が滲んでいることに気が付いた。それによく見れば、がっしりとしていた体つきが一回り小さくなった気がする。  王の使者がやって来た日から、既に三月(みつき)が過ぎていた。それから今日まで三娘は自室で塞ぎこんでいたから、父親の姿をはっきり目にしたのは実に三ヶ月ぶりとなる。その間父親もまた苦悩していたに違いない。それを察した三娘は唇を震わせながら、父親の上官に近付いた。そしてはっきりとした口ぶりで告げる。 「お待たせして申し訳ございません。今すぐ参りますゆえお許しを」  顔をこわ張らせながら三娘が告げる。すると上官はそれ以降何も話さなかった。  控え室を出た三娘は長い裳裾(もすそ)の両端を持ち上げて、早足で家の外に出た。すると目の前には赤い布で覆われた豪奢な輿が台に乗せられていて、そこに座す花嫁を待ちわびていた。そして輿の周りには担ぎ手となる男たちが無表情で立っている。彼らの後ろには、桃花の如しとうたわれ娘の花嫁姿を、どうにかしてでもひと目見ようと大勢の民が押し寄せていた。  それを目の当たりにした三娘は自分自身の輿入れなのに、どこか他人事のように思えたものだった。それはもしかしたら、望まぬ輿入れだからだろう。三娘はそれまでずっと握りしめていた手を開き、古ぼけた袋を見下ろした。その袋の中には幼い頃に渡されたものが入っている。でもそれを結納替わりだとほほ笑みながら教えてくれた人は、ついに迎えに来なかった。  あれからもう二十年のときが過ぎた。幼い頃は無邪気にそれを信じていたし、ずっとずっと彼が迎えに来る日を待っていた。十八歳を迎えた頃から友人たちが次々と花嫁として嫁ぐ姿を目にするたびに、彼女たちと同じように誰からも祝福されて嫁ぐことを夢見ていた。  二十歳を過ぎたころからは、待つ時間が長く感じてしまい、いっそあれは夢幻(ゆめまぼろし)だと言い聞かせ、父親の元に届けられる縁談を受けようと考えたこともある。でもあれは幻ではない。その証拠がこの手にある以上あれは紛れもない現実の出来事なのだから、もう少し待とうと思い続けていた。  三娘は心の中で葛藤していた。色あせた赤い袋を握りしめながら。袋の中に詰められた小さな玉の感触が手のひらに伝ってくる。そう言えばこの中身は確か――――。 『この赤い玉は我の血でできている。何事かあったならそれを放り投げろ。さすれば必ず我の元へ連れて来てくれる』  三娘は火龍と名乗る武人が教えてくれた言葉を思い出した。そのとき一縷の望みの光が見えた気がしたが、もしも教えてくれた通りになったならば、その後父親はどうなってしまうのだろう。三娘はそれを想像したとき、恐怖のあまりその場で頽れてしまいそうになっていた。  王命に背くことは重罪だ。しかも側室となることを決めたのは紛れもなく自分自身で、それなのに逃げ出したとあらば、残った家族は罪に問われてしまい、一族全員処刑されてしまうだろう。三娘はそれが怖かった。  それに本当にこの玉で彼の元へ行けるかどうか分からない。そんな不確かなものに賭けても、失敗に終わったら身も蓋もない。だから三娘は心を決めた。このまま王の側室となることを。  しかし三娘が裾を持ち上げ、輿に乗ろうとしたときだった。急に何かに突き動かされるように体が動いてしまい、気づけばそこから逃げ出していた。  走っている間に美しい刺しゅうが施された(くつ)が脱げ、頭から被っていた赤い布も落ちた。纏め上げられた髪が乱れ、かんざしが次々と落ちていく。荒い息を吐きながら駆け込んだのは、幼い頃火龍と結婚の約束を交わした部屋だった。  三娘は扉を後ろ手で閉めたあと、握りしめていた袋の中から赤い玉を取り出した。そしてそれを勢いよく放り投げる。すると放たれた紅玉から赤い光が漏れ出した。そして地面に落ちた瞬間玉は音を立てて割れてしまい、そこから炎のような揺らめきを放つ光が放たれた。  その小さな光はやがて炎となって、三娘に襲いかかってきた。光を放つ赤い炎に包まれた瞬間熱さは感じなかった。それになぜだか恐怖も不安も感じない。むしろ安堵さえしていた。炎は彼女の全身を守るように膨れ上がり、そして轟音を立てながらなおも燃えさかる。そして炎は彼女の全身を包み込んだあと、跡形もなくその場から消えてしまった。三娘とともに。
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