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第8話 キスミークイック

 ロブ・ロイ。  初めて飲むカクテルの味は、新鮮で。マンハッタンに似ているのに、香りが強くて少し怯んでしまう。  アルコール度数だって高いのだから、当然だけれど。 (それにしても……)  深く息をつきながら、数分前までの出来事を振り返る。  ロブ・ロイを飲み終える頃、誠くんはタクシーを呼んでくれた。到着までの間に満足するまで水を飲ませてくれて、退屈しないようになんでもない話をして、そして何事もなく家に帰り着いたのだが、一人になった瞬間なにかが心に引っかかっているような気がして、どうにも落ち着かない。  楽しい時間の余韻でまだ浮かれているのかもしれない。  ……そうだ、途中で飲んだ、あのお酒はなんといったか。グランマルニエをトニックで割った……  つぶやきながら、その名前を検索してみる。意外にも飲んだそれがそのままの名前で検索結果に複数現れ、目を瞬かせた。 (これ、誠くんの誕生日のカクテルだ)  あの様子からして本人は知らずに作っていたのだろうが、その偶然に感心してしまう。 (自分の周りの環境を美しく変える改革者……?)  ぷっと小さく吹き出す。  誠くんにそんなところがあっただろうか?  誕生酒というだけで、必ずしもそれに当てはまることはないだろうけれど、想像とかけ離れた酒言葉に、面白くなった。単調な日々が続いたあとに突然刺激的な夜を過ごして、調子が狂っているのかもしれない。  肩の力が抜けて、ついでにと最後に作ってくれた一杯を調べてみる。あの真っ赤なカクテルの名前は…… (……なにこれ)  きっとマンハッタンと同じだろう、と思って調べたカクテル言葉。ロブ・ロイ、またの名を、スコッチ・マンハッタン。おそろしくも美しい、真紅のカクテル。 (あなたの心を、奪いたいーー)  マンハッタンは『切ない恋心』だ。そこを、あえてスコッチウィスキーを選び、ロブ・ロイを作った。ぜひ私に飲んでほしいと。  そもそも、カクテル言葉というものの存在を最初に教えてくれたのは、誠くんだ。  仕事で失敗し自信をなくしている私に、サービスだといって差し出してくれたのは、ウォッカアップルジュース。このカクテル、藍ちゃんっぽいなって思ってたんだよね、とか急に言われて訳がわからなかったけれど。  それ以来、カクテル言葉なるものをいろいろ勉強した。  あのバーへ行けば誠くんが教えてくれたし、他にも調べれば、あそこでは提供していないカクテルもあって。みるみるうちにその世界へと引き込まれた。  あの夜もそう、ひどい飲み方をしている私が手にしているグラスを見て「もう一度会いたい」を言い当てた。その人が、オススメと言って差し出したカクテルだ。そこに深い意味があると考えるのが自然で、当たり前だろう。 (でも……でも待ってよ)  はっきりとしたことは何も言っていない。今日、バーに呼び出した理由も、はぐらかされたままだ。  とはいえ、初めにシェリーを出しておきながらさりげなくタクシーを呼んでくれたし。強引にしようとは思っていないのだろう。  だからこそ最後の一杯に『ロブ・ロイ』を仕かけてきた。それはつまり――  ――考えるのはやめよう。  今日はもう疲れたから。それに、楽しかったせいでかなりいいペースで飲んでしまった、まぶたが重たい。  あれこれ考えるのは、また明日。  シャワーを浴びて、翌日の仕事に備えなければ。 「……っあーもう」  勢いよく立ち上がり、パソコンをスリープモードにする。ロックがかかったのを見届けて廊下へ向かう途中、同僚が怪訝そうな顔でこちらを伺っていたが、気にかけている余裕はなかった。  お手洗いへ行こうか、それともなにか飲めば気分転換にもなるだろうか。コーヒー専用の自動販売機を思い出しながら歩く。  十数歩の間思案して、深くため息をついた。今日は、ささいな物事を考えるスピードが明らかに遅い。 (全部、誠くんのせいなんだから……)  自販機の前に着いて、またため息をもらした。今日一日、仕事をしていても十分と集中が保てないのだ。すぐにぼんやりとして、真剣な表情の誠くんが浮かんで、あわてて脳内から追いやる。そんなことを繰り返していた。  この数週間で、いろいろなことが起こりすぎたのだ。そう自分を宥めて、唇を噛む。 「っていうか、まだ綾人のこと、好きだし……」  好き――そう、好き。  あのメールは、つまり、まだ嫌われていないってことでしょう?  そのことに安堵し喜ぶ自分と、それならば戻ってきてくれるはずだと期待する自分が、フラれたことに膝を抱える私を元気づけようとしてくれた。失恋の傷も今ではほとんど癒えた。でも…… 「……悪い」  突如後ろから声をかけられ、さっと横へ一歩逃げる。コーヒーのイメージ画像が並ぶ自販機に手を伸ばす綾人に、心臓が走り出した。 (今の……聞かれてないよ、ね?)  綾人の表情からは読み取れない。気まずくなって自販機を睨みながら、時間が過ぎるのを待った。 「……最近、調子どう?」  つぶやくように問いかける低い声。逃げ出したい気持ちで手をもじもじと動かしながら、機械の中に紙コップがセットされるのを見つめた。 「うん……まあまあ」 「その顔で?」 「その顔でって……そんなひどい顔してない、はず」  予想だにしなかった言葉に戸惑う。もう、私のことは気にしなくていいのに、そんな中途半端な優しさをかけられたら、また勘違いしてしまう。 「してる、はっきりわかる。……って、オレのせいだよな、ごめん」  いきなりトーンが低くなって、ちらっと表情を確かめると、目を細めうつむいている。落ち込んでいる……? いや、まさかね。 「……ううん、綾人のせいじゃないの」気がつけば、私は口を開いていた。 「いや、そんなこと言って無理しなくていいからな」 「無理じゃなくって」両手をぎゅっと握る。「本当に、強がりでもなくてね」  顔を上げると、隣へ目を向けた。窺うような視線を送る、私の好きな人。他の誰かのものになってしまった、元恋人。愛しい人。 「最初はね、すごく悲しかったし、落ち込んだの。でも……でも、全部、あのメールのせいだからね」  一度、言葉を切る。そうだ、あのメールさえなければ、私はこんなに掻き乱されずに済んだし、悩みこまなかったし、それにきっと、納得もしなかった。  あのメールが、なければ…… 「あれ見て、安心したんだよ。嫌われてなかったんだって、綾人に嫌われるの、すごく怖かったから。だから、よかった、嫌われてないって、安心して……だけど、同時に淡く期待もして」  鼻の奥がツンと痛んだ。好き。そうあらためて自覚して、想いが暴れ出しそうだった。せっかく忘れかけていたのに。夕焼け色で上書きされて消えていたはずの想いが、浮かび上がってくる。 「戻ってきてくれるのかもしれないって思ったら、上手く泣けなかったんだから。だけど、もう大丈夫だからね。綾人……新しい彼女さんのこと、本当に大切にしているみたいだから。私はもう、何も言わない」 「え……?」 「なんで知ってるのって? ……実は、あそこのバーのバイトの子から、よくない噂を聞いて。心配してたんだけど、でもそのあと、すでに出来上がってる彼女さんのこと、気遣ってる場面に出くわして。偶然だよ? それで、だから……綾人が、本当に愛する人と出会えたのかもしれないって。綾人は今幸せなんだって、わかったら……もう、決心ついた」  笑いかけてみせる。もう、大丈夫だと伝えて、新しい人生を……私に縛られない人生を歩んでもらうために。私自身、未来を見つめるために。 「私と出会ってくれてありがとう。……コーヒー、出来上がったみたいだよ。冷めないうちにね……」  踵を返すと、ゆっくり足を踏み出した。 「藍……待って」 「なに」足を揃えて、背を向けたまま立ち止まる。「手短にお願い」 「……ありがとな」 「っ……」  晴れやかな声に、振り返って抱きつきたい衝動が湧き起こる。それができる距離にいる。 (……ううん、もう、綾人はただの”知り合い”)  無言を返して、再び歩き出した。  ぐちゃぐちゃだった感情は、ほんの少しだけ秩序を取り戻したように、会社のちょっと汚れた廊下を眺めた。 ✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません) ロブ・ロイ(スコッチ・マンハッタン):あなたの心を奪いたい グランマルニエ・トニック:自分の周りの環境を美しく変える改革者 ウォッカアップルジュース:強さと優しさ シェリー:今夜はあなたにすべてを捧げます・今夜は離さない キスミークイック:幻の恋
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