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第7話 フレンチコネクション

「はー……疲れた」  綾人に別れを告げられて呑んだくれたあの日から、ちょうど三週間。急に忙しくなってしまった仕事に追われながらも、おかげで余計なことを考える暇もなく、家と職場とを往復するだけの毎日を過ごしていた。 (二時間の残業……でも、これで忙しさも一段落か)  んーっと声を出して伸びをする。これから暇になるなぁ、なんて考えていると、机の上に置いたスマートフォンの画面が点灯した。チラリと覗くと、誠くんからのメッセージだ。  めずらしい、と思いながらやおら手を伸ばし、内容を確認する。 「……え?」  カララン。  明るい音を控えめに鳴らし、そこへ入る。 「……思った通り。つまらない顔してる」  ガランとしたバー、飴色のカウンターの手前に立つ幼馴染。その格好は、いつものバーテン姿ではない。ブルーのシャツにチノパン……見慣れぬ服装に眉を寄せた。 「まあまあ、聞きたいことは色々あると思うけど、あとで全部解決してあげるから。そこのスツール、使ってよ」  そのとき初めて、カウンターの真ん中に見慣れぬ椅子が一つ、用意されていることに気づいた。よくわからないままスツールに腰掛け、カウンター下の棚にカバンを置く。カウンターの向こう側へ回り込んだ誠くんが、ちょうど正面に立つ。 「ごめんね、急にお呼び立てして」  慣れた手つきでドリンクを用意する様子を見つめながら、カウンターに両手を乗せた。 「ううん、どうせ暇だったから。でも……なんで? 今日は定休日だよね」 「なんでだろう……呼びたくなっちゃって?」  すっ、と音もなくグラスを差し出される。茶目っ気たっぷりに舌を出す誠くんに失笑しつつ、それを受け取った。「なにそれ」 「そろそろ退屈してるんじゃないかって思ったんだよ。とりあえず、乾杯しようか。今日は、お客さんでも店員でもない、楽しく飲む会ってことで。……乾杯」  復唱して、グラスを掲げる。いつも通り飲む前に香りを堪能したところで、それが思っていたものとは違うことに気づいた。「あれ……これ、もしかして」 「あ、わかった? シェリー酒だよ。さすが藍ちゃん、鼻がいいね」  黄金色の液体に口をつけると、さらに強い香りが広がって、疲労が癒されていくのがわかる。同時に、緊張がぐんと高まったのも自覚した。 「最初の一杯だからね。藍ちゃんの好みに合わせて、フィノの中でも辛めのやつ選んでみたんだけど、どうかな」  食前酒として好まれるフィノ。他のワインより度数が高めな分、これからの数時間気持ちよく飲めることが期待されるけれど。 (……まさかね。誠くんだし)  雰囲気づくりのために選んだのが、たまたまシェリーだっただけだ。そう、納得すると、笑顔を向ける。 「飲みやすいね、これ好きかも」 「そう言ってもらえたら、悩んだ甲斐あるなあ。……あ、トマトのピクルスあるよ」 「本当? 食べる食べる。誠くんの、美味しいよねー」 「こだわってますから」  したり顔で小皿におつまみを用意するのを見て、ふっと気が緩む。飽きるほど見てきた顔だけれど、こうして油断できるのがありがたかった。一人暮らしを始めてからは、気を抜ける時間がめっきり減った。それを補わせてくれるのが、誠くんの作らない表情なのかもしれない。 「あ、これも端に置かせて。急ぎだったから大したものがなくって、駅前で買ったラスクなんだけど」 「そんなわざわざ、僕の好きなラスク選ばなくても良かったのに」 「最後の一個だったんだからねー」 「そんな貴重なラスク、僕にくれないわけがないよね」  わざと、どうしようかなあ、と言ってから差し出す。お決まりのように二つのえくぼを揺らし、早速包装を破いているのだから、何も言うことはない。  サクサクといい音を立てて、心底幸せそうな顔をして、そして嘆息をもらす。何度となく見てきた光景だが、どことなく女性らしい動き。過去に指摘したことがあるが、姉ちゃんが二人いるんだから仕方ないのかも、とかなんとか言って誤魔化していたっけ。 「……ふふ」 「ちょっと、なに笑ってんのー」 「ううん、なんでも。……あ、そういえば誠くん、この間はありがとう」  前回バーにお邪魔した時のことを思い出しながら言うと、訝しげに首をかしげた。「なにが……?」 「ごめん、前にバー来たときのこと。ジャック・ターの、ちゃんと覚えてるんだからね。『心の仲間を求める白雪姫』でしょう?」 「あー……」歯切れの悪い返事と、ラスクを大きく頬張る姿から照れているのがわかる。「だって、一度はシンデレラとか言っちゃったし……その、ね」 「でも嬉しかった。元気出たんだよ?」 「そっか、なら頑張って考えてよかったかな。藍ちゃんにカクテル言葉を仕込んだのも僕だし……あ。次なに飲む? なんでも作るよ」 「仕込んだって……。うーん、なんでも? じゃあ、ほっぺについてるラスクのかけらを取ったら、ブルームーン作ってほしいな」 「え……うそ、どこ?」  あわてて奧の鏡を確認しにいく後ろ姿を見送りながら、幸せだ、とあらためて思った。  今夜は離さない、なんて。もう飲んでしまったけれど。  一度は気に留めたカクテル言葉を忘れながら、夜は更けてゆくのだった。 ―――― 「誠くんのそれ、なんてお酒?」  しばらく雑談しながら飲み交わしていると、ふと向こうのグラスの中身が気になった。琥珀色の炭酸の中にスライスしたオレンジが入って、キラキラと輝いている。 「これ? なんていうのかな、グランマルニエ・トニック? ちょっとソーダも足したけど。飲んでみる?」 「確か、オレンジピール使ったリキュールだよね、それをトニックウォーターで割るの? 気になる」  興味津々で答えると、ふんわりと微笑んでグラスをこちらへ滑らせてくれる。「しっかりとした甘みがありながらもあと味がスッキリして、たまに飲みたくなるんだよね」 「へえ……あ、本当だ。そんなに度数も高くないよね」 「そうだね、ワインと同じくらいかな」 「あれ、そんなにある? じゃあお酒弱い子には勧められないかー」 「オレンジ効かせるために、リキュールが多めに入ってるんだよね。シロップも使えば、味は変えずに度数低くできるかも……今度やってみるよ」  真剣な顔で数度頷いている様子に、つい笑ってしまう。「それ、職業病?」 「え? うわあ、無意識だった。そうかもしれないなぁ……あ、グラス空いたね。ちょっと待ってて」  空になったコリンズグラスを下げ、後ろを向いた誠くんが手にしたのは、バランタイン。ふと、綾人の横顔が思い出されて、ほんの少しだけ酔いが引いた気がした。 「……オススメのカクテルがあるんだ」 「それで作るの」  とっさに聞いていた。やっぱり、誠くんなりになにか考えて今日、呼び出したのかもしれない。トクトクと心臓が動くのを意識した。 「うん、スコッチウィスキーなら基本的になんでもいいんだけどね……あと、これとこれ」  言いながらボトルを並べていく。その名前にはどれも見覚えがあった。  氷を入れたミキシンググラスに、黄金色が注がれる。その上から、ベルモット……そこへ少量加えられたのは、アンゴスチュラ・ビターズだ。このレシピは、確かに私も知っている。けれど、どこかが違う気がした。  真面目な顔でステアリングするのを見つめながら、なにが違うのか、考えてみた。数秒悩んで、わからなかった。それそのものだと、私の記憶は結論づけていた。  見えないところから、よく冷えたカクテルグラスを取り出す。白く曇ったガラスに、薔薇色をしたクリアな液体が満ちていく。どこかで見たことがある。何度か飲んだこともある。  注ぎ終えて、ふぅ、と息を吐くと、真っ赤でまん丸いチェリーを取り出した。マラスキーノチェリー。そうだ、これがなければ完成しない。迷いのない手つきでスティックを刺し……それが、真紅の海へと沈む。 「マンハッタンの夕陽……」  それが落とされる瞬間を見たのは初めてだった。 「……お待たせいたしました」  すっ、とグラスが差し出される。真っ赤に染まるそれは、恐ろしくも映った。 「実は使用してるウィスキーが、普段作るものと違うんだ。これがスコッチ・マンハッタン、またの名を……ロブ・ロイ」 「ロブ・ロイ……。そっちの名前で言われたら、気づかないかも」  二つのリキュールとマラスキーノチェリーがウィスキーの色をすっかり塗り替えてくれていたことに気づくことなく、私はグラスを持ち上げた。今、その魔法をかけた人が、塗り替えていることにも、気づかずに。 「だろうね。普通のマンハッタンは、ライ・ウィスキーを使うんだ。スモーキーなのが苦手じゃなければ、召し上がれ」 ✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません) シェリー:今夜はあなたにすべてを捧げます・今夜は離さない ジャック・ター:心の仲間を求める白雪姫 ブルームーン:長い別れ・叶わぬ恋・出来ない相談・奇跡の予感 マンハッタン切ない恋心 ロブ・ロイ(スコッチ・マンハッタン) フレンチコネクション:秘めた心
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