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第6話 エバ・グリーン
「今日も同じものでよろしいですか?」
誠くんが接客するのを、息を殺して見守る。見守るとは言っても、二人に半ば背中を向けるように立っているので、わかるのは声と雰囲気だけだが。おそらくは気づかれないだろう。
「うん、それでお願い。あとチェイサーね」
「かしこまりました」
綾人の隣に立つ女性を一瞥してから、誠くんがグラスを取り出す。丁寧に磨かれたロックグラス、そしてコリンズグラス……
「同じのって、あの甘ぁいやつ?」
ふわふわとした声が聞こえる。鈴を転がしたような、とても愛らしい声。しかし思った通りかなり酔っているようで、少し発音があやしい。
「あれじゃない、カシスだよ。この間も飲んだだろ?」たしなめるような綾人の声にも、どこか甘さが混じる。
(この声、知ってる――)
そう、ほんの数日前までは、私だけに向けられていた「優しさ」。深い愛情のこもった、耳に心地よい声。それが、別の女性に向けられている――もう、彼の愛情を無条件に受けられる特権は私にはないのだと、あらためて冷たく宣告されたような気がした。
ズキンと心が痛んだけれど。きっと、このまま立ち聞きし続けていれば、もっと痛くなってしまうだろうけど。もしかしたら私の中の大事なものが壊れてしまうかもしれない、でも、どうしても帰るつもりにはなれなくて、息を潜めて聞き耳を立てた。
「それに、あれはもうダメ」
「なんでー。あんなに美味しいのにぃ」
「っていうか、カシスソーダ飲んだらおしまいだからな?」
「え……もう帰っちゃうの? まだいけるよ」
「さっきのところでワイン飲んだんだから。ここ寄ったのはオマケ」
「オマケって……」
「お待たせいたしました」
まだ何か言いたそうにしている彼女さんを、誠くんの声が遮った。不服そうな彼女も、提供された美しく煌めく飲み物に、黙って口をつけている。
「……梨子 。水も飲んだら?」
梨子さんっていうんだ。
ドクドクと心臓が鼓動を刻むたびに痛みが増すのを意識しながら静かに様子を伺っていると、グラスがカウンターを滑る音がして、一拍。「いらない……」
暗く沈んだ調子。さっきまでの楽しそうな喋り方はどこへやら、突然目が覚めてしまったかのような空気に、数秒間の沈黙が降りる。
「なら、オレが飲んじゃうよ」
「いいよ、飲んで?」
「…………」
「ねえ、綾くん。あと一杯だけ、だめ?」
今度は、甘えるような声。無意識にこういう声が出るのだろうか……媚びているように聞こえないのが不思議だ。
「じゃあさ、ねえオーナー、ノンアルコールカクテル、なんか作れるよね?」
「えっ、やだやだ。この間と同じの、ください。ロングなんとかって、やつ……」
「あれはマジで度数高いの。飲んでわかっただろ?」
少し呆れが混じっているものの、あくまで優しい言葉……静かに見守る誠くんと、むっつりしたままのりっくん。一人別のお客さんも、黙々と飲むだけでバーの空気は明らかに異様だった。
「でも。じゃあ……度数低くてもいいから、ちょっとだけ」
「耳まで赤いの、わかってる?」
「わかってる。お願い……」
「なら……あーもう、そんな顔するなって。あと一杯だけだからな? オレのオススメがあるから」
「……ほんと?」
「絶対気に入ると思う」
「ありがと……それ、飲んでみる」
「本当にこれで最後だからな? ……オーナー、『シンデレラ』お願いね」
(……シンデレラ?)
はたと、バー全体の空気が一瞬止まったような気がした。音はなく、空気も動かない、ただの空白のような時間。そして、徐々に、解けてゆく。
「……シンデレラですね、かしこまりました」
誠くんの静かな声で、再びいつも通りの時間が動き始める。無意識にグラスを口元へ運びながら、カウンターの向こう側を睨んだ。
誠くんもびっくりしていることだろう。しかしそんな素振りは見せず、ジュースの瓶を取り出し並べている。オレンジジュース、レモンジュース、パイナップルジュース……一つ一つの動きを目で追いながら、ちらちらと「彼女」の方を気にかけてみる。
「どんなカクテルだろー。楽しみ」
にこにこと愛想の良い笑顔。綾人と見つめ合って、そこに自らの欲していたものが一滴も入っていないことには気づいていない。綾人も、ほっとしたように会話を楽しんでいるようだ。
(すごく、いい表情してる。……って!)
不覚にも見惚れてしまっていたことに気づいて、さっと顔を伏せる。彼女しか目に入っていない綾人が、こちらに気づこうはずもないけれど。
そう考えてまた、切なさが心臓に糸を絡めた。
「お待たせいたしました……『シンデレラ』です」
「わぁ、きれーい」
少し大げさにも聞こえる反応。それなのに、なぜこんなにもいやらしくないのか。かわいらしいとさえ、思ってしまうのか。
自分の大切な人を取られた相手なのに。彼女を憎めない自分に疑問は募るばかりだというのに。
ずるい。彼の愛情を浴びるように受ける特権を、唯一もっている彼女。なぜ、私ではなく、彼女なのか……憤りにも似た感情が腹の中で暴れ回る、その一方でもう一人の自分が、宥めるような微笑を浮かべていた。
(つらい、けど……なんかもう、大丈夫かも)
グラスを持ち上げ、ストローを指に挟みつつぐいとあおる。鼻先に氷が当たって、冷たい。
「りっくん、同じの。もう一杯だけお願い」
「あ……はい、かしこまりました」
綾人は、本気で彼女のことを愛している。だったらもう、私が口を出すことはできない。そんな隙もないけれど、納得せざるを得ない現実に、つい頬が緩んでいた。
舞踏会の夜に生涯愛する人と出会えた『シンデレラ』と、森の奥深くで彷徨いながら『心の仲間を求める白雪姫』。一度、毒リンゴを口にしなければ、白雪姫は王子様と出会えないのだから。
ガラスの靴を履いた一夜限りの夢世界、惑う彼女の王子様は、もう隣にいる。
「お待たせいたしました」
「……ありがとう」
スッキリした顔の私を見てか、りっくんはいつも通り微笑んでくれた。
ジャック・ター。
私が出会うべき相手は、どこにいるのだろう。
✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません)
カシスソーダ:あなたは魅力的
シンデレラ:夢見る少女
ジャック・ター:心の仲間を求める白雪姫
エバ・グリーン:晴れやかな心で
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