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第4話 ハンター
「今日は話を聞いてくださって、ありがとうございました。スッキリです」
「いーえ、また一緒に飲もうね。月曜にきっちり言っておくから!」
「それはもういいですよ……」
笑って冗談をかわし、店の前で先輩と別れる。ほんのり熱をもった頬に、夜風が心地よい。
誰かに話を聞いてもらうだけで、こんなに気持ちが楽になるものなのだと、初めて実感していた。
ほんの二日前にフラれて、翌日には新しい彼女と飲みに出かけていた彼。複雑極まりない心境とは裏腹に、心のどこかではその状況にすっかり納得しまっていた。悲しくてたまらない、けれど、悲しくなんてない。
(全部……あのメールのせいだ)
あんなにも優しい言葉で包まれたら。
いつかは目を覚まして帰ってきてくれるんじゃないか、なんてつい期待してしまう自分もいて。
もっと言ってしまうと、帰ってきてくれなくてもいい。たとえこのまま一生新しい彼女に負けたままでもいい。一番じゃなくても、好きでいてくれれば、いや、せめて私の名前だけでも、ずっとずっと覚えていてくれれば。
彼の中にほんの欠片でも、私という存在が残っていれば。
それだけでいいから。
(私も……綾人と付き合えて、本当に幸せだったよ)
いつか笑顔でそう言いたい。
だから、今だけは少し、一人のままで……
「……あれ。藍さんですよね?」
どこか馴染みのある声。ふと振り返ってみると、普段とは着ているものも髪型もまったく違うが、誠くんのバーでよく見かける顔だとすぐにわかった。
「りっくん、こんなところで会うなんて」
ジーパンにシャツと、シンプルな私服。髪型も少し乱れていて、しかしながらそれがお洒落にも映る。
「仕事帰りですか? 駅ですよね、この道ってことは」
「そうそう、電車で二駅なの。仕事はもっと早い時間に終わってたんだけどね」
「お疲れ様です。僕も電車なんで、ご一緒させてください」
プライベートの顔でふわっと笑うりっくんは、バーで見かけるときより学生らしい。「もちろん」深く考えず私は彼の誘いを許諾した。
「お仕事のあと、何してたんですか? けっこう遅い時間ですよね」
「先輩と飲んでて。……あ、もしお酒臭かったらごめんね」
「全然、大丈夫ですよ。ちょっとタバコの臭いがついちゃってますけどね」
「本当? やだ、隣がすごい本数吸ってたんだよね……それだなー。帰ったらすぐ脱がないと」
顔をしかめて、鼻を袖に近づける。苦い大人の臭いがして、意味もなく手で払ってみた。
「……りっくんは? バイト上がりの時間、じゃないよね」
「それが、友達が風邪ひいたとか言って。見舞いに行ってました。元気そうだったんですけどね、スポーツドリンクとか色々置いて、おかゆ作ってきました」
料理もできるんだ。お酒もあれだけの種類を覚えて、学校の勉強もあるだろうに。
「あ、別に料理ができるわけじゃないです、ネットで調べて、それっぽく作ってみただけなんで。もしかしたら今頃、僕の作ったものを食べて気絶しているかもしれないっすよ」
「あはは、それっぽくなったなら大丈夫じゃないかな?」
冗談も言えて、本当にいい子だとしみじみ思う。どんなご両親に育てられたのだろう、と想像しながら歩いていると、ふとりっくんがこちらを見つめていることに気づいて、目を合わせる。
「……? どうかした?」
「いえ、ただその、藍さん……笑ってるなって」
安堵したような微笑みを浮かべて、前を向く様を目で追う。すると、あわてたように顔を上げて、ぱっとこちらへ向き直った。ブンブンと手を顔の前で振っている。
「あっそんな、変な意味じゃないです。その、一昨日はだいぶ、落ち込んでいるように見えたので、その……あの。安心、しました」
「……ふふっ、心配かけてごめんね。さっき先輩と飲みながら、話を聞いてもらったの。そうしたら、吹っ切れたというか。うん……ありがとう、気にかけてくれて」
いえいえそんな、とうっすら頬を赤らめる姿は、バーでは見ることのない自然なままのりっくんだった。年相応な、等身大の表情。
「でも……こう言っちゃ悪いんですけど」
「うん?」
「藍さん、別れて正解だったと思いますよ」
え……?
不意のことで、その言葉をうまく理解できずにいた。「なに……?」小さく訊き返しながら、頭の中でその言葉を反芻する。
「あの元彼さん、昨日店にいらしてたんです。若い女性連れて、一緒に飲んでたんですけど」
ああ、新しい彼女のことだね。来るって言ってたもんね。
「最初は可愛らしいカクテルだったんですけど、二杯目頼んだのが、レディキラーとも呼ばれるものだったんです。一杯目ですでに顔赤くなりかけていたので、オーナーも心配していたんですけど……案の定フラフラで。奥のソファで休むように勧めたんですが、店を出て、近くのホテルに入って行きました」
「……それって」
「確信犯だと思うんです」
きっぱりと言い切るりっくんに、私は何も言えなかった。ぼんやりとして、徐々に目の前大きくなってくる駅の構えを見つめる。見慣れた光景を、どこか遠くに意識して。
「その、余計なことだし、僕が口を出すことじゃないんですけど。別れて……正解だったと思いますよ」
「……そっかな」
ぽつり、と零す。
彼がそんな強引なことをするとは思えないし、する必要もないはずだ。そもそも、ホテルへ入ったからと言って、その先の行動まで決めつけることはできない。
いや、これは単純に、想像したくないだけ……? 彼が、私以外の人とそういうコトをしていると、認めたくないだけ?
だって、彼は私のものだった。心も身体も、全部独占していいよって、言ってくれて。彼のそういう姿を見ていいのは、私だけだった。……数日前までは。
「……すみません、藍さんのお付き合いしていた相手のこと、悪く言うようなこと。でも、僕はどうしても、許せなかったんです……!」
かすかに怒気のこもった台詞に、ビクッと身体が震えた。
「っ、ごめんなさい、驚かせるつもりじゃ……」
「ううん、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃ……っ、すみません、駅着いたんで、失礼します!」
軽く頭を下げて、たっと走り出した後ろ姿を見送る。まるで逃げ出すように走り去っていった、足音。遠く駅の向こう側へ消えていった。
あんな風に感情を露わにするのを見るのは、当然初めてだ。それに、別れて正解だったとか、許せなかっただとか、言って……
「……気のせい、だよね?」
ただ、今は混乱しているだけだ。
そう言い聞かせると、頭に浮かんだ一つの考えを振り払うように改札を目指した。
✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません)
ハンター:予期せぬ出来事
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