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第3話 アラウンド・ザ・ワールド
「ちょっと待って、園田 さん」
翌日。
定時を過ぎ、やるべき仕事も終わらせ、やれやれと思いながら帰り支度をしていると、不意に声をかけられる。耳に馴染みのある声に、微笑みながら振り向いた。
「三浦 先輩。どうされました?」
「どうしたってわけじゃないんだけどね……このあとって、暇?」
何か企んでいるような笑み。それが何かはわからないが、隠し事が得意でないのは明らかで、この表情を見るたびにいつも苦笑してしまう。
「夕食に何を作ろうか考えていたところですよ。合コンなら行きませんからね」
「あたしもそんなに遊んでないって……。手作りのご飯がいいなら断ってくれていいんだけど。飲みに行かない? 女二人で」
二人……? そんな誘いはいつぶりだろうか。男性のいる飲み会なら多いが……
「その顔は、来てくれるってことだなー? よし、決まり! 生が美味しいところ行くよ!」
「あっ……まだ返事してませんって! 先輩!」
しかしながら先輩の中では飲みに行くことはすでに決定事項らしく、反論は一切聞き入れてもらえず。他に選択肢などないので、あわててついて行く。
「カバン、返してくださいって! 行きますから!」
半ば走るようにして先輩のあとを追い、居酒屋のチェーン店に入る。学生時代には少しお高いとして訪れることのなかったこの店は、サービスが大変よく、社会人になってからは何度か来ている。
席に案内され弾んだ息を整えているうちに、先輩は勝手に生ビールを二杯注文していた。
「……私の希望は聞き入れていただけない方針ですか」
そして、早くもお通しに箸をつけている先輩は、うん、と即答。もはやため息をつく気も起こらず、小鉢の中の大根サラダを見つめた。
「というか、ビール好きじゃん、藍ちゃん」
「ええ、仕事終わりに飲むキンキンに冷えた生ビールは最高ですよ……」
答えながら、目線は小鉢からたった今運ばれてきたばかりのジョッキへと移る。曇ったような表面の結露がキラキラとして、強く私を誘惑する。
「でしょー? ほらほら、乾杯!」
明るい声に、ずっしりと重いジョッキを持ち上げる。控えめに掲げると、三分の一ほどまで喉へ流し込む。幸せが食道を降りていくのと同時に感じる、爽快さとかすかな苦しさ。ジョッキを下ろし、ふうっと息をつくと、呼吸の不自由さから解き放たれた。
「……おー、いい顔してんじゃん。美味いか?」
「至福のひとときですよ……」
「でしょうねえ、その顔は。で、なに食べたい?」
すっかり先輩のペースに巻き込まれてしまっている。
そのやり方はとても強引でありながら、それがまた心地よいのだ。
「私はからあげさえあれば、なんでも。それより、急に飲みたいなんて言い出した理由、まだ聞いてないんですけど」
そうだったねー、と口では言いながらメニューと睨めっこの先輩は、すっかりリラックスモード。私の声が届いているとは思うが、答える気はゼロだろう。「私のことは注文終わってからでいいですから、ゆっくり悩んでください……」
環境のまったく違った部署へ異動しても、役職名が偉くなっても、この人は私が入社した当時となんら変わらない。その、誰にも媚びない態度が、先輩を尊敬する理由の一つだった。
しみじみと、先輩の無邪気な部分と、それに見合わないほど大人びた言動とを振り返りながら、店員を呼び止める姿を見つめる。こんなに魅力的な先輩が、未だに結婚していないのが不思議だ。
ひと通り食べたいものを注文し終え、満足した先輩が両肘をテーブルに乗せる。
「で……なんだっけ?」
「そんなことだろうと思いましたよ……今日は、どうして誘ってくれたんですか?」
「あー、はいはい、その話だったね。まあ、藍ちゃんを見ていたらなんか飲みたくなっちゃって?」
また、適当なことを言っている。
「ちょっと、睨まないでよー。半分は冗談だから」
「半分は本気なんですか?」
「もちろん。だって、用があって久しぶりに昔いた部署に行ってみたら? かわいい私の後輩が、沈んだ顔しているんだもん。直々に指導した先輩としては気になるじゃない。……あ、個人的に藍ちゃんのことが好きっていうのもあるけどね」
さらっと言ってくれるものである。
通りかかっただけの人にもわかるほど眉間にシワを寄せていた記憶はないが、気にかけてくれたことは素直に嬉しい。
「何かあったのかなーって。余計なお世話だったかな?」
「いえ……仕事なら順調ですよ。うまくいかないことも、間々ありますけどね」
「違うよ、プライベートの方。彼氏くんと何かあった?」
ドキッとして軽く目を伏せる。
からあげとイカゲソとポテト……ジャンキーな料理が目の前に並ぶのを眺めながら、先輩から目を逸らしたのと同じようにして周囲の喧騒に耳を傾けた。内容まではうまく聞き取れない、ただこの空間に溢れ返る会話の音を聞く。
「別れましたよ」
私の声もざわめきの中に紛れていくだろうと思ったのに、存外はっきりと耳元に聞こえてきた。
そんなに大きな声を出したかな。なんて考えつつ、振り払うようにからあげに箸を伸ばす。店内に溢れる声はこんなにたくさんあるのに、私の言葉だけはっきり聞こえるなんて。
「おやおや、あんなにお似合いだったのに」
お似合い……か。
「……って先輩、わかっていて聞いたでしょう?」
空笑いで返し、からあげを頬張る。「いーや?」イカにレモンをこれでもかと絞っている先輩が、顔を上げた。
「当てずっぽう。たださ、隣の席にもおんなじ顔をしたのがいたから。まあその線かなーって思って」
「先輩……綾人 と部署同じなのは知っていましたけど、席が隣なんて聞いたことなかったんですけど」
「ありゃ、言ってなかったっけ? ……やっちゃったかな。まあまあとにかく、鬱憤でも愚痴でも話してみなさい、先輩に! 今夜は奢ってあげるから!」
「いえ、自分で食べた分くらい出しますよ……」
「いいから! あたしの隣の同僚が迷惑かけたんだし?」
因果関係がまったく見えてこないが。
「あ、ジョッキ空いちゃった……ハイボール頼も。藍ちゃんは? 次なに飲む?」
「……話聞く気あるんですか、それ」
食べ物の話と現実とを行ったり来たりするなんだかおかしくなってきて、失笑しながら応える。
特に気遣ったような表情を作ることもなく、さりげなく誘い出してくれた先輩。ごく自然に話を聞いてもらいたくて仕方ない気持ちにさせる彼女が、今はありがたかった。
妙な安心感を覚え、いつの間にか私は、一昨日の夜の出来事を話し出していた。
――――
「それはまた、ひどいやり方だね……それで、お金だけ払ってさっさと帰って行っちゃったと」
「そうです」
先輩に話を聞いてもらいながら、ぎゅっと胸が締めつけられるのを意識していた。ポジティブな糸と、ネガティブな力が、協力して心の臓を締めつけている気分。
「それでもう、呆然だったんですけど。なんとかお店を出て、駅に着いてみたら、メッセージが入っていたんですよ」
やおらスマートフォンを取り出し、興味津々といった様子の先輩をちらりと見ながらメッセージを表示する。その一部がふと目に入って、ポジティブの糸が太さを増した。
「どれどれ……」
画面を見つめて黒目を寄せる様を眺めながら、繰り返し読んだ文面を思い出した。
オレが藍のことを好きなのは変わらないし
愛してる これは本当
ただ、藍に対する気持ちよりも強く求める女が現れてしまった
それだけなんだ
ごめん
だけど、中途半端なままお前といるのは嫌だから
仕事で一緒になるときはよろしくな
もう話してくれないかもしれないけど
お前の彼氏でいられてよかったよ
ありがとう
またな
「…………」
「……あのー」
「…………」
「先輩。何か言ってください。無言でスマートフォン突っ返さないで」
「……うん、あいつらしいんじゃないの」
小さく口を動かしてそう言うと、片手で豪快にジョッキを掴んでハイボールをあおる。
「……それだけ?」
先輩の動きを目で追いながら、訊ねてみる。自分の行為が意地悪であると自覚しながら、なんでもいい、言葉が欲しかった。
「それだけっていうか……うーん。まあ言えるのは、藍ちゃん、惚れた相手間違ってなかったね。見る目あったんでしょ。このメールでごまかしてるつもりなら、ちょっと納得いかないし、女たらしめと、明日説教しなきゃいけないなーって考えてたけど。でも。ちゃんと、両想いだったってことだ」
だった。
そう、過去形でしかない、両想い。
好きなのは変わらないって言ってくれてはいるけれど、最も愛し合っていたときより、ずっとずっと遠くから、私のことを見ているに違いない。
だから、きっと、私のことを考えて、別れを切り出してくれた。
(……わかってる)
ちゃんと、そういうことだって、別れを切り出したのは彼なりの愛情なんだって、わかっている。
けれど、納得できるはずもなくて。
今まで二人で積み重ねてきた日々、共に過ごした時間、思い出、全部を合わせても、彼が出会ってまだ日の浅い女性に敵わなかったのだ。そう、敵わなかった。
悔しいとか、そういうわけじゃない。他の女性に負けたからどうのとか、そんなのじゃなくって。
でも、なんというか……
「……あ」
突如上がった声に、はっとして顔を上げる。枝豆に手を伸ばしてそのまま固まっている先輩は、私と目を合わせると深刻そうな表情のまま口を開いた。
「明日土曜日じゃん。説教できない」
「…………」
「ごめんね、月曜でいいかな?」
「……はぁ」
「え……なんでため息?」
訳がわからない、といった顔で枝豆を口元へ運ぶ先輩の、ハムスターみたいな口と頬の動きがやけに愛らしくて、もう呆れを通り越して笑えてしまう。
「先輩に話してよかったですよ……なんだか、生きていけそうです」
✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません)
アラウンド・ザ・ワールド:人を助けて励ます優しい白馬の王女様
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