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第2話 アプリコットサワー

 カララン――  明るい音を鳴らし、ドアを開ける。開店直後のバーは、想像していた以上にガランとしていた。  コツン、とパンプスの高くもないヒール音がひとつ響くと、奥でグラスを磨いていた人影がこちらを見て目を瞬かせた。 「藍ちゃん……?」 「お邪魔します……今日は飲まないから、安心して」  苦笑いで誠くんの向かいまで行く。数歩の距離だというのに、しかも相手は幼馴染なのに、背すじが自然に伸びるほど緊張していた。  カウンターに手をついて足を軽くそろえると、つい目線が下がってしまう。間接照明の中に浮かぶ自分の手の甲、飴色のカウンター……そのコントラストに気づかされて、ゆっくり顔を上げた。 「その、昨日はごめんね。お世話になっちゃって」 「お世話しました。そんなことより、あんなに飲んで、二日酔いは大丈夫だった?」  グラスを拭く手を止めず、さり気なく心配してくれる。それがありがたくて、ほっと息をついて表情を緩めてみた。 「うん……朝は少しボーッとしてたけどね……」 「さすがの藍ちゃんでも、翌日に影響出たんだ。ちゃんと水飲んだ?」 「飲んでるよ……心配しなくても」  ちょっと唇をとがらせてみせる。そんな反応を気に入ったのか、にこにことしてこっちを見ている誠くん。機嫌がいいときにできるえくぼが、くっきりと頬に浮かんでいるのが見えた。なんだか悔しくなって、手に持っていた紙袋をカウンターにドサッと置く。 「これ、少ないけどお詫び……食べて?」 「気を遣わなくていいのに。しかも僕の好きな店のチーズだよね」  遠慮するようなことを言いながら、幸せえくぼが揺れている。グラスそっちのけで紙袋を掴んで、中身を覗いて。そういう子どもっぽさに、いつもなんだか安堵するのだ。 「ありがとう」  バーのオーナーなんて、立派なものになっちゃって。それでも、子どもの頃は私と勉強も運動も競い合っていた幼馴染なんだって、安心する。 「ううん、こちらこそありがとうね」 「ところでさ……」  チーズをカウンター下の冷蔵庫へいそいそと仕舞いながら、誠くんは真剣な顔をした。「昨日何があったのか、聞いてもいい?」 「あー……」歯切れ悪く返しながらも、これは予想していたことだった。「もちろん、ちゃんと説明する」 ――――  元彼とは、一年と五ヶ月の付き合いだった。隣の部署でサブリーダーをしている彼とは、部署横断の大きなプロジェクトをきっかけに親しくなった。 「藍ちゃん、前に、なにかと意見が合って居心地がいい、って言っていたよね」 「うん。考え方が似てるのかな。しかも頭の回転が速いから、すぐ私の言わんとしていることを汲み取ってくれたりして」  それはプライベートでも同じだった。好きなものや興味を示す対象は違っても、お互いそれを認め合えるような、理想的な関係で、そんな彼と一緒に過ごせる時間が好きだった。  彼も私といる時間を楽しんでくれていると信じていた。そう、昨日の夕方、彼に誘われて食事に行くまでは。 「そこは、二回めのデートのときかな、連れて行ってくれたイタリアンのお店で。彼が先に着いて待ってたんだけど、その時点からなんだか空気がいつもと違ったんだよね……」  あの日と同じように、赤ワインで乾杯して、それぞれ食べたいものを食べて、味がどうのって話して。楽しいはずなのにどこか気が休まらなくて。何かがおかしいと思い続けながら、気がつけばデザートを食べ終わる頃だった。 「あのさ、別れよっか。って」 「……そんな簡単に?」 「うん……当然私は何も言えなくなるじゃない。そうしたら『お前より好きな女できたから。自分のことを好きじゃない奴とこれ以上一緒にいても、お前も困るだろ?』とか言ってね、まあ……まああっさり」 「え、それだけ?」 「一緒にいる合理的な理由がなくなった、って。支払い済ませてさっさと帰って行っちゃったの」  真剣に聞いてくれていた誠くんが、信じられなさそうに顔をしかめた。「それで、そのまま藍ちゃんはうちに来たの?」 「うーん、実はまだちょっと続きがあって……」  続けようと息を吸い直したところで、店の扉が開く明るい音が響いた。続いて、静かな足音。 「……お。今日はオーナーいるんじゃん。いつものね」  調子のいい声に、はっとして顔を俯けた。すばやく瞬きをすると、下を向いたままちらりと目だけを向けて確認する。そして後悔した。思った通りの人物が、そこにはあったのだ。 「木曜はいつもいますよ。そんなこと言うなら常連の名前、剥奪しますからね」  笑ってロックグラスに氷を入れながら、バランタインの瓶を迷うことなく掴んだ誠くんが相手している、今入ってきた客。それは間違いなく「彼」だった。  反射的に顔を伏せ身を縮こませたまま、慣れた手つきでウィスキーをロックグラスに注いでいる誠くんを見上げることもなく、息をひそめる。別に隠れる必要などないのに、見つかってはいけないような気がしていた。 「今日はやけに上機嫌じゃないですか」  一瞬の間に態度を接客向けに切り替えて、誠くんが声をかける。店のオーナーとして接客するのを邪魔することなどできるはずもなく、もじもじとして心臓の脈打つのを数えた。 「そう見える? これでも傷心なんだけど」 「どうしたんですか、めずらしい」 「まあ、詳しいことは追い追いね……とりあえず、今日は新しい彼女が来るからさ。格好つけさせてね」 「ちょっと、それのどこが傷心なんですか。前の方はどうしたんです、あんなに入れ込んでいたのに」 「まあまあ、そのうち話すって。タイミングみてカシスソーダ、頼むわ」 「かしこまりました。……話、絶対に聞かせてくださいよ」  半分笑って応えると、誠くんは目の前まで戻ってきた。途中、すっと表情が真剣なものに変わるのが、視界の端に映った。私を気遣ってか、それとも自然にそういう表情をしてくれたのか…… 「ごめん、中断させちゃって。続き聞かせてもらえる?」 「うん……ううん、今日はごめん。やっぱりちょっと調子悪いから……帰るね……また、近いうちに、来るから」  カバンをぎゅっと抱きしめるように持って、半歩ほど身を引く。一秒でも、一瞬でも早く、この場から離れたくてたまらなかった。彼が、仕事終わりのウィスキーの香りに酔っているうちに、気づかれないうちに。 「ならいいけど……本当に大丈夫? なんだったら裏で休んでもいいよ」 「ううん、平気! だから……」 「その声……藍?」  しまった、と口をつぐんだときには遅かった。慌てて否定したせいで、大きな声が出てしまったのだ。  ふぅ、と短く一つ、息を吐いてから彼の方を見る。目が合った瞬間、ほんの少し気まずそうに瞳を揺らしたが、すぐいつも通りの笑顔を浮かべた。 「昨日ぶり。仕事お疲れ」 「うん、お疲れ……じゃあ、またね、誠くん」  なんとなく察したように笑い、またいつでもおいで、と小声で返してくれる優しさに感謝しながら店を後にする。カララン、と軽い音が反響するのを聞きながら、背中に感じる視線が痛くて、つらくて、振り払うように駆け出した。  ――なんだ、思った通りだ。  彼は何事もなかったかのように笑っていて、いつも通りの調子で、しかも、新しい彼女と飲みに来ると言っていた。  “あんなメール”をくれたから、ちょっとくらいは悲しんでくれているのかもしれないって期待していたけれど。 「……馬鹿みたい」  ポツリともらして立ち止まる。  期待させては突き落として。今こうして、私が呑んでいる涙はどこへ行くの……?  弱々しく吹いた風が、流れぬ涙に代わって頬を撫ぜた。 ✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません) カシスソーダ:あなたは魅力的 アプリコットサワー:親身
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