13 / 13

第13話 ニューヨーク

 頭が混乱して、それでも誠くんを感じていることだけは確かで。  やがて、やわらかくあたたかい感触が口元から消えると、十数センチ向こうの誠くんが目を上げた。 「藍ちゃん……」  誠くんの声より大きく、自分の鼓動の音が聞こえる。こんなにうるさくて、もしかしたら聞かれちゃって、引かれるんじゃないか。ぼんやりとした頭でそんなことを考えながら、ついさっきまで自分の唇と繋がっていた彼のそれが動くのを見つめた。 「あのね……ありがとう」  ……え?  一瞬、何を言っているのかうまく理解できず、ぽかんとしてしまう。瞬きを繰り返してからあらためて彼の双眸を見据えて、そしてあらゆる思考がいっせいに取り除かれていった。  こんなに……こんなに、キラキラと輝いていただろうか。濃い茶色の瞳は、こんなにも美しく透き通っていたっけ。虹彩の模様一つ一つまで見えてしまう距離。こんなに顔を近づけたことは、一体今までに一度でもあっただろうか。  言葉にならないままに浮かんでは消えてゆく“想い”。丁寧になぞる間もないまま、誠くんが再び口を開いた。 「僕を……受け入れてくれて」 「それを言うなら、私の方こそ……」  思ったままを伝えようとして、じわっと視界が歪む。誠くん顔にモザイクがかかったようになって、あわてて目を伏せた。  これって。もしかして……ううん、もしかしなくても、分かる。こんなことって。 「泣かないでよ……藍ちゃんの涙って、理性に響く」  困ったように笑うの誠くんに優しく目元を拭われながら、そっと眉を寄せた。「理性に響く……?」 「や、真剣につっこまないでよ……」  理性を失わせるとか、揺らぐとか、そんなところだろうけど。分かるでしょ、とつぶやく誠くんに、涙も引っ込んで、代わりに微笑みを浮かべた。 「ごめんごめん。でも、今日の私には、ちょっと理解できないみたい。だから……教えて」  さりげなく頬から離れていこうとする誠くんの手に、そっ、と触れる。ピクッと反応を示して固まる手の甲を包み込むようにして掴むと、思ったより大きいことに気づいた。  そういえば……昔は手を繋ぐこともあったけれど。もう何年も誠くんの手をあらためて見つめる機会はなかった。当然と言えばそれまでだけれど、こんなにも、男の人になっていたなんて。気づかなかった。 「そんなこと言って……」  熱を増した誠くんの囁き声。空いている方の手が腰に回ると、一気に距離がゼロになる。 「……僕がどれだけ待っていたか、わかってるんだよね?」  前髪をくすぐる吐息に彼を見上げると、もう目をそらせなかった。キラキラと輝く瞳は、さっきよりも一層まぶしくて、熱っぽくて、のぼせたようにぼんやりとしてしまう。 「知らないよ……」  そんなの。の一言は、腰を下から上へと撫でる感触によってかき消された。ぐっと身体の中心が温度を上げる。 「っ、待って、誠く……」 「やだ。もう待てない」 「そんな、ほっぺた膨らませても、心の準備ってやつが……」  あたふたと答えながらも、手の動きを止めてくれる誠くんに気づいた。なんだ待てるんじゃん、と思ったのも束の間。触れるか触れないかで背中を撫でる誠くんの指。  強制的に私をその気にさせようというのか、滑らかなその動きを止めるつもりはないらしい。息を止めて、洩れそうになる甘い気持ちを必死で口の中に溜めた。 「そういう顔見ると、普通に待てない。それに……二十年以上待ったんだからね」 「二、十年……?」  左へ右へと振れながら、うなじまでのぼってきた指先の感覚に、意識が集中する。ほんの少しだけもどかしさを覚えるくらいの、絶妙な力加減……こんなのは初めてで、どうしていいかわからない。ふわふわとして真剣なまなざしを見つめた。 「そうだよ……物心ついたときには、もう好きだったんだから」 「っ……」  首元から肩へと滑る指が、体に熱を灯す。くすぐったいのと同時に、妙な照れを覚えて、少しだけ大きな声を出した。 「なんか……慣れてるね」  途端にぴたりと動きが止まった。私の言葉が意外だったのか、はたまたどういった理由か。 「慣れてる……?」 「うん、なんか動きとか、力加減とか」  お腹の底がもぞもぞとむず痒いのを堪えて答えると、誠くんはふっと顔を伏せた。パチパチと瞬いて見つめると、耳が少し色づいている。  これは、もしかして……照れてる? ちょっと、意外すぎて訳がわからないんだけど。 「……あのね。誤解されたら嫌だから、えっと、藍ちゃん、僕こういうの初めてだから、その……びっくりした」 「……そうなの?」 「当たり前じゃん! ずっと……ずっと、藍ちゃんだけ好きだったんだから」 「…………。……へっ?」 「え?」  沈黙。  お互い訊き返してしまって、さっきの流れのまま見つめ合ってはいるものの、その間に流れるのはただの沈黙。ポカンとして、口にすべき言葉を失ったまま。  これは……予想していなかったやつだ。  二十代もそこそこだし、出会いや別れの一つ二つあるものだろう、というのはただの想像に過ぎない。過ぎないのだけれど、まさか、こんな身近にいるとは思っていなかったというか、なんというか。誠くんにとっての初めてに、私がなってしまうなんて。  どう、受け止めたものだろう。 「あぁー……」  混乱したように悶々と考えていると、突如声をあげた誠くんが両手で顔を覆った。そのまま膝を折ってしゃがみこむ。「これ、言っちゃいけなかったやつだー」  一連の動きを目で追うことしかできなかった私は、今度こそ何を考えればいいものか分からなくなっていた。不意に冷静を取り戻してしまって、一声を上げることもできないまま。誠くんが顔をあげて、上目がちにこちらを見つめるまで。 「ね、幻滅した?」  ついさっきまで、見たことのない男の人の顔をしてドキドキさせてくれていたのに。ほんの数秒しか経っていないのに、今は幼稚園の頃とまったく同じ顔をしている。この二十数年間、何度となく見てきた、私の一番よく知っている、誠くん。  ……やっぱり、好き。 「なんで……?」  八の字眉の下で、子犬みたいな瞳を潤ませながら上目づかいで私を見上げる。これじゃ、私より女性らしいかもしれない。でも…… 「今さら、でしょ」  笑って身を屈めると、きょとんとする誠くんの額へ唇を寄せた。 ✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません) ニューヨーク:大人の恋
スキ!
スキ!
スキ!
スキ!
いいね
ドキドキ
胸キュン
エロい
切ない
かわいい

ともだちとシェアしよう!

この小説を読んだ人におすすめの作品

王となる人の妻として育てられた。けれど心は王弟に向いていて
1
完結済/99話/101,312文字/25
2018年3月31日
いつも帰宅を外で待つ私の楽しみは。彼が買ってくるあれだった。
1
完結済/8話/6,698文字/0
2018年1月14日
大学時代に告白して振られた男友達と、友人の結婚式で再会した玲愛、何となく付き合いが復活したものの……
完結済/1話/9,924文字/40
2018年1月14日
普通の図書館司書と、彼女に呼ばれた異形の話。
1
完結済/7話/7,667文字/10
2018年4月4日
「スイーツって、幸せな気分にさせてくれるものなのに……心ゆくまで楽しめないのは、辛いことですね……」
1
1
完結済/1話/9,983文字/12
2018年5月21日
「劇薬博士の溺愛処方」の短編集です。
連載中/14話/55,283文字/0
2020年8月4日