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第12話 ブルーラグーン

「藍ちゃん。時間は大丈夫?」  他の接客に追われていた誠くんが、注文の途切れた隙に声をかけてくれる。気遣いなのか、誠くん自身の休憩のつもりなのか、どっちにしても特別扱いされているような気分だ。 「うん、明日有給とったから」 「え? どこか出かけるの」  常温のウーロン茶を半分まで注いだグラスに口をつけながら、興味津々という顔。何気ないこの表情が昔から好きだった。 「ううん、たまには休もうかなって。ところで、今日の営業って何時まで?」 「終わるのは、五時近くなるかな。明日は定休だし。……まさか、最後までいるとか言わないよね?」  眉をひそめながら、しかしどこかで意図に気づいているのだろう、最後までいてくれるんじゃないか、という期待がダダ漏れの視線。いてほしいけど、仕事で疲れているだろうし無理はさせたくない、でもやっぱり一緒にいたいと誘いたい……ってところかな。  誠くんの心の中を想像しながら、彼の言葉にはあえて答えず、すうっと息を吸いこんだ。 「ねえ、誠くんも一杯飲まない?」  私の言葉が意外だったのか、今日二回目に目を瞬かせる。ぽかりと口を開けて、子犬みたいな仕草に失笑してしまう。 「ピンクスクアーレル、なんかどう?」 「……いやいや。ずいぶんと積極的だとは思ったけど、そうきちゃうの?」 「一杯目で、ちゃんと言ったでしょ」 「言ったっていうか、まあ、言ったことになるのか……」  耳を赤くして視線を彷徨わせる。これぞ純情、というやつ。こういうところは昔から変わらない、私の知っている誠くんなのだと少し安心して、カウンターに頬杖をついた。そして、じいと見つめてみる。 「うん……ありがたくいただくよ。藍ちゃんにも用意するね、僕のおすすめ。ちょっと待ってて」  微笑みを返し、グラスの底わずかに残った「奇跡の予感」を飲み干す。同時に反対端のお客さんが席を離れた。誠くんが元気な声で送り出すのを聞きながら、これが「叶わぬ恋」に様変わりしてしまわないことを願った。  三つ隣の見知らぬお客さんと談笑しながら、慣れた手つきでカクテルを作り上げていく誠くんから、目を離せないまま……逸らす気もないけれど。  やがて、グラスを二つ携えて彼が目の前までやってきた。 「お待たせしました。メキシカンです」 「……うん」  ロブ・ロイにも負けない、ストレートな言葉。けれど、こっちの方が誠くんらしいかも。 「……乾杯」  グラスを掲げると、ピンクとオレンジが目の前でふわりと揺れた。色鮮やかなカクテルは、控えめな照明に照らされて、輝いている。その絵が目に焼きついて、離れない。  長い夜が、ようやく始まった。 「藍ちゃん……」  簡単に店じまいを終えた誠くんが、隣に立っている。うとうとしながらウーロン茶を飲みつつ閉店を待っていたけれど、真剣な目差しに捕らえられ、一気に目が冴えてしまった。 「ちょっと、かっこ悪いかもだけど、仕切り直しで。あらためて、これを……いいかな」  背の高いグラスの中には、パチパチと弾ける気泡。この間招待されたときにも飲んだ、シェリーの一種だろう。「この前のより」誠くんが、控えめな声で告げる。 「この前のより、甘さが強いかもしれないけど」  ゆっくりとうなずいてみせると、グラスを持ち上げて、見つめる。透明な液体は、純粋なまま大人になった誠くんをそのままに表現しているようで、美しい。いつまでも眺めていられる。 「……その前に。ひとつだけ聞いてもいい?」  ピタリとその位置を定め動かないシェリーを、熱く見据えて小さく口を動かした。誠くんは、何も言わず私の言葉を待ってくれている。 「この間の……は。本気、だった?」  問いかけて、コクっと唾を飲み込む。  聞いちゃだめだ。そう心の中で繰り返しながら、軽く唇を噛む。これっぽちもその気がなかったのだとしたら、私はどんな顔をすればいいのだろう。逆に、百パーセントその気だった……なんて言われたら。返す言葉が見当たらなくて、そのまま途方に暮れそうだ。  今すぐ言葉を撤回したほうがいいかもしれない。答えを聞く覚悟もないのに、こんなことを。誠くんを、わざと困らせるようなことを…… 「正直に、言うと」  やや伏し目がちの誠くんが、はっきりとした口調で切り出す。これを合図に、発言をなかったことにはできなくなった。手を伸ばして、誠くんの口を物理的にふさいでしまえば別だけれど、彼の答えを、私は受け止めなければならない。あーあ、このまま時間が止まればいいのに。  身体の内側が小刻みに震えるのを感じながら、あらためて口を開く彼をちらりと見た。 「……その気がなかった、って言ったら嘘になるかな」 「と、言うと……?」  強気にも思える態度をとりながら、足に力が入らない。誠くんの、次の言葉がこない。どうして、こんなにジリジリとした気持ちでたまらないのだろう。 「はじめはね、最初の一杯にちょうどいい、って思ったんだ。もちろん、わかっていながら選んだけど……でも、そんなつもりじゃなくて。まあ、ちょっとは期待してもいいかなって思った部分もあるけれど。あとは、もし酔っ払って我慢できなくなっちゃったときの、言い訳……?」  っていうのは冗談だけど。  頭を掻いて誤魔化すように笑う。とんでもないほど不器用な笑い顔。  そんな表情にも、呼応するようにぎゅっと動く心臓。とうに緊張で麻痺しかかっている脳に代わり、身体の中心が叫んでいる。  目を閉じて、ゆっくりと呼吸する。再度目を開くとそこには、誠くんの心を代弁する液体が、グラスの中で上品にきらめいていた。  綺麗。あらためて思うとそのまま、吸い寄せられるようにしてグラスに口をつけた。唇に冷たさを感じると同時に、鼻を、爽やかな香りが通る。口の中に奥深い味わいが広がって、そして、すっと消えてゆく。ほのかに感じられる余韻にひたりながら、受け入れた、ということをあらためて自覚した。  小さく息を吐いて。グラスを置いた瞬間、右頬に何かが触れる感覚。羽が触れるのと同じように優しく、頬をなぞると、その手は耳元まで滑って、そして……  ふわ、とあたたかな感触が唇に。  焦点の合わない視界にも、それが彼のものであるとわかる睫毛が見えて、全身の血流が少し加速するようだった。  呼吸が止まる。彼の熱さが唇から直に伝わって、じんわりと頭の内側まで浸透する。 「…………」  熱い。  熱すぎて、訳がわからない。  流れ込んでくる感情を受け止められず、ただされるがままに注がれた。 ✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません) ピンクスクアーレル:見つめていたい ブルームーン:長い別れ・叶わぬ恋・出来ない相談・奇跡の予感 メキシカン:噂になりたい シェリー:今夜はあなたにすべてを捧げます・今夜は離さない ブルーラグーン:誠実な愛
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