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第10話 ホワイトレディ
カララン――
控えめに音を鳴らし、幼馴染みの経営するバーのドアを開く。道中何度もためらい迷いながらも、とうとう来てしまった。
ぐるりと店内を見渡して、いつも通りの光景にさざ波立っていた気持ちがなんとなく落ち着く。カウンターの向こうでは、りっくんが一人で、ちょっとだけ暇そうに接客とその他の業務をこなしていた。
「いらっしゃいませ、こちらどうぞ」
「りっくん、シャンディガフちょうだい」
「かしこまりました」
ぎこちなさがだいぶ抜けたりっくんからおしぼりを受け取って、ふぅっと息をつく。どうしたってこのあいだの出来事を意識せずにはいられないけれど、この調子ならあと数週間くらい放っておいても、まあ大丈夫かな。
「どうぞ、お通しのナッツと、シャンディガフです」
ありがとう、とつぶやくように言って、グラスを傾ける。きめ細かい泡が口の中に広がって、ふんわりと浮かぶような心地よさに目を閉じた。おいしいお酒を飲んでいる時間は、余計なことを考えたくはない。
カウンターに肘をついて、何気なく耳たぶに触れると、冷たい感触が。つっと指でなぞって、思い出す。そうだ、今日はイヤリングをしてきたんだ。
朝、支度をしていてふと目に入ったイヤリングを、気分でつけてきたのだ。おもむろに左側を外して、手の上に転がしてみる。自分の星座をかたどったイヤリング……雑貨屋さんでぱっと目に入ったから、買ってみただけだけれど。わりと気に入って、何度もこれをつけて出かけている。
ぼんやりとした明かりのもとへ差し出すと、キラキラと輝いた。繊細な輝きをそのまま飴色のカウンターへそっと置いて、細かい水滴で覆われたグラスをゆっくり持ち上げる。黄金色の液体が、にわかに揺らめいた。
……そういえば、このイヤリング、誠くんが褒めてくれたっけ。
あのときは、ちょうど洋服も新調したばかりで、浮かれているときだった。だからなのかな、妙に気に入って、ずっと手に取りやすい位置に置いてあるのは……
いやいや、まさかね。だって、それじゃあ単純すぎるし。
ぐいっとグラスを大きく傾けると、口の中がいっぱいになって、あわてて戻した。ちらちらっと周りを見て、注目されていないことにほっと息をつく。
おしぼりで念のため口元をおさえながら、誠くんがいなくてよかったと安堵する。こんなことをしているのがもし彼に見つかったら、また笑われてしまう。
でも……仕方ないなあって口では言いながらも、私を見る目はいつも優しい。ちょっとだけ、心配してもらいたかったかも。
「……ううん、見つからなくてよかったよ」
「藍さん……? ご注文ですか?」
「えっ? ああ、う、うん、そうだね……えっと」
しどろもどろになりながら、必死にひねり出したカクテルの名前を告げる。「グランマルニエトニックで」
「グランマルニエ……かしこまりました。めずらしいですね」
「そ、そうだね。初めて頼むかも」
小さく口角を上げて答えながら、鏡を見なくても自分がひどい表情をしていることを自覚して、隠れるようにうつむいた。
(ない……どこで落としたんだろう)
下を向いて、視線を素早く動かしながら駅からの道を戻る。バーを出て電車に乗って帰る途中、窓に映った自分を見て片方のイヤリングがないことに気がついたのだ。
(お店で一旦外して、それから……つけなおした記憶がない)
顔を上げてついたため息と、足を止めて大きく鳴ったパンプスの音が重なった。
「あそこに入らなきゃかー……」
夜もいい時間だから、きっと誠くんがカウンターに出てきている。できれば顔を合わせたくなかった。
明日あらためて取りに来る……? でも、もうここまで戻って来ちゃったし。それに、もしかしたらまだ裏にいるかもしれない。重たい足を引きずるようにしてお店の前まで来たところで、暗いガラスの中の様子をうかがってみる。
りっくんと誠くんがわずかな距離を置いて立っている……お客さんはいないようだった。ますます気まずさが募るけれど。意を決してドアに手をかけたところで、漏れ聞こえる声に気づいた。
「……藍ちゃんのこと、好きでしょ」
自分の名前が出て来たことに驚いて、薄く開きかけたドアをおさえてそのまま固まる。一体、なんて話を……
「藍ちゃん、すごく困ってるみたいだったよ」
冷静な誠くんの声。それに応えるりっくんは、少し大きな声で、照れている反面困っているような感じがした。
「いいじゃないですか、僕が誰を好きになろうと……」
「うん、そうなんだけどね、今回ばっかりは無視できなくて」
「無視できない……?」
りっくんが、訝しんで顔を歪める様子がはっきりと想像できた。おそらく、私も同じような顔をしていることだろう。このまま立ち聞きするのも良くない、と思って腕の力を緩めかけたところで、誠くんの声がはっきりと耳に届いた。
「そう。今藍ちゃんが困っているのってさ、僕のせいでもあるから」
(困らせている自覚あるんだ……)
そのことがわかっただけで十分だ、やっぱり閉めなきゃ、と良心がささやきかける。だが、もう少しだけなら、聞いていてもいいんじゃないか、次に何を言うのか気になる、そんな欲のほうが勝ってしまって、結局ドアの前でただ立ち止まっている変な格好のままその場に佇むことになってしまった。
「やっぱり……なんですか」
「うん」
りっくんの落胆したような声。『やっぱり』……?
「それじゃ、完全に勝ち目ないですね……わかってはいましたけど」
「どうだろう。藍ちゃん、結構りつきのこと気に入っているよ?」
「それはそれじゃないですか……」
りっくんが、ますます声を低くする。落ち込んでいるのか、しかし少し怒っているようにも聞こえる。
「オーナー、藍さんと幼馴染みですよね? それじゃきっとわからないんですよ」
「……?」
数秒の沈黙。りっくんがどんな言葉を続けようとしているのか、なんとなくわかって、ゆっくりとドアを押さえていた手を緩めた。
半ば走るようにして駅までの道を戻った。
もう、答えは出ているってこと……? それを、りっくんに教えてもらうなんて。
きっと勘違いだと、かすかな息苦しさの中で繰り返した。
✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません)
シャンディガフ:無駄なこと
グランマルニエ・トニック:自分の周りの環境を美しく変える改革者
ホワイトレディ:純真
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