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第9話 オーロラ
寄せては返す波を見ていると、無心になれた。特に、沈みかけの夕日が波の泡までをも紅に染め上げるこの時間帯は、世界が全部切なさに満ちていて、自分自身まで真っ赤に染め上げられるような気分がする。
少し重たくもったりとした空気は、シーズンから外れたこの時期特有の湿気の中に存在していた。
「やっぱ落ち着くー……」
ビーチへ降りる手前にあるウッドデッキに腰掛け、頬杖をつきつぶやいた言葉は、波に乗って揺れる。その感覚の心地よさが、わざわざ電車で一時間かけてこのビーチまで足を伸ばす理由だった。
「だーれも来ないしねー」
「本当にそう思います?」
突如隣から聞こえた声に、飛び跳ねてその人物を見上げた。
「あ、ごめんなさい、驚かせちゃった?」
白い歯を見せ、いたずらっぽく笑う。ふんわりとしたワンピースに身を包み、可憐な少女、といった雰囲気だが、実際は二十代後半だろうか。綺麗な人、と思いながら、つい見惚れる。
「今来たところだから、警戒しないでほしいんですけど……もしよかったら、うちの店、来てみません?」
お店……? 近くにこの時間まで開いているところがあっただろうか、と首をひねっていると、くすくすっと笑い声が。
「知る人ぞ知る、って感じの小さいところなんです。お腹がすく頃でしょう?」
返事も聞かず背中を向けて歩き出すその人に、わずかな緊張を覚えながらも、私は立ち上がっていた。
「突然声をかけてごめんなさい。紗凪 っていいます、よろしくね」
そよ風のようにふわりとさりげなく、声が届く。
「あ……藍です。紗凪さん、でいいですか?」
なんだかぎこちなく挨拶をして、他愛のない会話をする。数分歩いて少し打ち解けたところで、可愛らしいレンガの家が見えてきた。明るい茶の木のドアには、小窓がついている。同じく木製の看板が、風に揺れた。
「どうぞ、こちらです」
「わあ……素敵なお店ですね」
「ふふ、ありがとう。お母さん、お客さんだよ」
紗凪さんに続いて入ったそこは、ふんわりと木の香りに包まれたカフェ風の装い。低いカウンターに、ゆったりとした椅子が六つ並ぶ。テーブル席もぽつぽつ用意されており、人が揃うとかなり賑やかになりそうだ。
「また、無理やり引っ張ってきたの?」
「違うよ、ちゃんとお連れしたんだって。……どうぞ、種類は少ないですけど。お好きなものを選んでください」
奥から顔を出したお母様と会話しながら、メニューを差し出してくれる。見知らぬ人がいる前でも飾らない様子の二人に、自然とリラックスしていた。
「……メニューも、写真があっておしゃれですね」
「ああ、母の手作りなんですよ、写真も自分で撮って。文字だけ羅列されても、選びにくいでしょう?」
「そうですね、これならわかりやすい。……この、サラダ風ドライカレーは、ライスもついてくるんですか?」
「そうそう、なんと言えばいいか、サラダの上にドライカレーをまるごとトッピングした……みたいな?」
まるごとって。そう言って笑うと、紗凪さんは口を尖らせた。「ライスの量は少なめなので、選んでいただきやすいと思いますよ。たくさん食べたいのなら、プラス五十円です」
「じゃあ、普通の量でお願いします」
注文しながらも、笑った顔がなかなか戻らない。見た目からは想像できない、紗凪さんの大雑把さが心地よくて、それでも許してもらえると感じていた。
「かしこまりました」
ついには本人まで笑い出し、和やかな空気が広がる。奥へと姿を消す背中を目で追いながら、今日遠出して正解だったな、とあらためて感じた。
「そういえば……」
完成したサラダ風ドライカレーを運んでくれた紗凪さんが、思い出したように口を開く。
「このビーチへは、よくいらっしゃるんですか?」
「たまにですけれど。風に当たって、海を眺めるんです」
手を合わせると、スプーンを取った。スパイシーな香りに、お腹の虫がモゾモゾと動き始めるのを感じ、大きく口を開けて頬張る。
「……あ、思ったより辛い」
嚥下した直後から徐々に増す舌のしびれを感覚し、ぐいっと水を流し込んだ。辛味による熱さが和らいで、そしてまた少し戻ってくる。
「ごめんなさい、大丈夫でした?」
「苦手じゃないので。思ったより辛さが強かっただけで」
「ならよかった。……今日は、どうしてまた急に思い立って来てくださったんですか? 遠いのでしょう」
興味津々、といった顔をする紗凪さんに、口の中が辛かったのも忘れて苦笑してしまう。嘘はつきたくないが、現実逃避、とは言い難かった。
「まあ、ちょっと一人になりたくて。都会にいると、なかなか気が休まりませんから」
そうですよね、と心底納得しているように数度うなずく。「私も一度は都会に出たんですけど。肌に合わなかったというか」
「こちらへ戻ってこられたんですか」
「居心地もいいですし、何より、幼い頃からお世話になっていますから、地元の人は寛容なんですよね」
かんよう……?
耳慣れないせいか、脳内で漢字に変換できず、理解するのに時間がかかった。やっと理解すると、つい考え込んでしまう。一体何を周囲に受け入れてもらう必要があったのだろうか。寛容、ということは、大きな変化か、それとも何かがあったのだろう。
怪訝に思っているのが表情に出ていたのか、紗凪さんが口を開く。
「あれ……話していませんでしたっけ。私、男ですよ」
「…………」
「胸もないし」
「…………」
「証拠を見せるわけにはいきませんけど」
「? ……っそれは結構です」
なんでもないことのように話す紗凪さんに、つい顔を伏せた。
そんなことよりも、この美しい人物が男性であった、ということが衝撃である。女性よりも女性らしく、いい匂いまで漂ってきそうなものだから、不意には受け入れられない。
「向こうでも友人はできたんですけどね。表面的には受け入れてくれても、どこか気味悪がられていたんです。もちろん中には理解のある人もいたんですけれど、その人に、地元に戻ることを勧められて」
軽く目線を落とすと、憂いげに微笑んだ。「最初は嫌でしたねー、田舎で何もないでしょう? 賑やかで、キラキラしているところに憧れていたんです」
ふーん、と軽く相づちを打ちながらも、なんとなくぼんやりしてしまう。
「でも、なんだか、私が私らしくいられる場所に落ち着くのが一番かなって。そう思えるようになってからは、ここでの生活が楽しいです」
ふわっ、とやわらかい微笑みを浮かべる紗凪さんに、ふと見惚れた。この瞬間に、憧れたのかもしれない。身のこなしも、話し方も、醸す雰囲気も女性らしい気品が溢れるのに、頼もしいほどの自信に漲っていて、とても男性らしい……そんな一人の人間に。
「私にとっては十分すぎるくらい、素敵な場所ですよ。紗凪さんにお似合いです」
「そうかな……ふふっ、ありがとう。あ、もしよかったら、デザートか飲み物用意しますよ。半ば強引に連れてきてしまったので、サービスです」
……いや。きっと、自分らしさを見つけて、自分らしく生きている紗凪さんが、今の私にはとてもまぶしく映ったのだろう。きっと、それだけだ。
「いいんですか? じゃあ……紗凪さんのオススメで」
✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません)
オーロラ:偶然の出会い
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