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第1話 シンデレラ
霞みがかってくる意識――人に裏切られ、不安に苛まれ、やけになっていた。
悲しみだとか、悔しさだとか、とにかく負の感情が溢れ、うねり、この身を闇へ引きずり込もうと専心している。自制なんて言葉を忘れた私は、幼馴染が経営するこぢんまりとしたバーで、もう何杯目かわからないアルコールを頼んでいた。
「藍 ちゃん、ちょっともうそろそろ……」
控えめな声とともに、軽く肩を揺すられる。アルバイトのバーテンさんが、この店のオーナーで幼馴染の誠 くんを、奥からわざわざ連れてきたらしい。……濡れた仔犬のような目で遠くからこちらを伺っているバイトくんに、非はない。にっこりと笑顔を向けると、ほっとしたように表情を緩めて接客に戻っていった。
「ねえ、藍ちゃん。飲みすぎだよ。何があったの」
「別に……」
そっけなく返し、バハマのグラスを傾ける。口に広がるのは、ただ冷たい温度だけ。すぐ隣で誠くんが、静かにため息をつくのが聞こえた。
「……『もう一度会いたい』?」
はたと私の手が止まる。どきっとして一気に覚めた酔いが、徐々に戻ってくるのを感覚しながら気まずくそっぽを向くと、先のバイトくんを呼び出している。
「りつき、藍ちゃん何飲んだ?」
バイトのりっくんは、ちらちらと私の方を気にかけつつ、オーナーには逆らえないのだ、口を開いた。
「えっと……まずシャンディガフを二杯、一気に。それからブラッド・アンド・サンド、セプテンバー・モーンを続けて、ブランデー・フリップ、そしてバハマです」
「……とんでもない酔っ払いだね」
「ええ……」
「藍ちゃん」
聞き慣れた声に目を向けると、一瞬の隙にグラスを奪われた。
「あっ、ちょっと! 何するの」
「飲み過ぎだよ。これはもらうから」
「やだ、まだ飲み足りないって」
「ダメ。ここは僕の店なんだから」
ピシャリと言い放たれ、むっとしながら睨むが、返してくれそうにない。ゆったりとした動きでグラスを口元へ運んでいる。
「……りっくん、これ最後。ブルームーン」
「まだ飲むの?」
「最後だって」
幼馴染の呆れ返った声に、吐き捨てるように答え、ふいと目をそらすと、二人が何やらこそこそと話している。聞き耳を立てるが、かすかにもれ聞こえるのは、息の音のみ。どうしようかと考え始めたところで、シェーカーを手にしたのを視界の隅に確認し、黙って待つことに。
感傷に浸ってカクテルを選んだのがまずかったかな、と手の爪を見つめながらふと冷静になって考える。一つひとつのカクテルに意味があるのだと教えてくれたのは、他でもない誠くんだった。
(ううん……どうせ勘づかれることだし)
うな垂れてため息をひとつ。
「……藍さん」
か細い声とともに置かれたグラスには、申し訳程度のカクテル。幼馴染を振り返ったところで、グラスを満たす美しい液体に口をつけているだけだった。
ため息をこぼし、本来ならば淡いブルーであるはずの液体を、ぐっと飲み干す。大量の酒を流し込んだあとで、ふわりと広がる甘い香りを楽しむ余裕はない。
顔をうつむけて再三のため息。
もう、帰る気力も湧かなかった。タクシーでも呼べぼうか、そうすれば帰るしかなくなるし、と思いついたそのとき、頭上にコトン、と明るい音が。
ふと顔を上げると、気遣うような表情で、グラスを差し出すりっくんがいた。
「……素敵な夜を」
やわらかな笑みとともにそう残し、もう終了の時間なのか、奥へと姿を消した。背中を目で追ってから、カウンターの上へ視線を落とす。
イエローのカクテル……落ち着いた雰囲気のライトにかざしてみれば、ゴールドにもうつる、不思議な一杯だった。
そっと口をつけ、喉へと流し込む。
(甘い……)
もう一口含めば、すっと頭が冴えて身体が軽くなった。
「……『シンデレラ』」
誠くんの声に、はっと顔を上げる。薄明るいライトの影に、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「今宵の主役は、君だよ」
次の瞬間、私は涙を零していた。
なぜだかわからない。アルコールのせいで涙腺が弱っていたことにしよう。だってこんなの、いくらこの空間には幼馴染しかいないとは言っても、恥ずかしくてたまらない。
誠くんの胸を借りて、誰もいなくなった終業後のカクテルバー、気が済むまで静かに泣き続けた。
グラスに残ったシンデレラ。その魔法はまだまだ解けない。
✳︎今回登場したカクテル(すべてのカクテルにこれらの意味がふくまれているわけではありません)
バハマ:もう一度会いたい
シャンディガフ:無駄なこと
ブラッド・アンド・サンド:切なさが止まらない
セプテンバー・モーン:あなたの心はどこに
ブランデー・フリップ:あなたを想う切なさ
ブルームーン:長い別れ・叶わぬ恋・出来ない相談・奇跡の予感
シンデレラ:夢見る少女
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