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第2話

彼はそこでぶつりと言葉を止めると、眉間を寄せてごしごしと頭を掻いた。 「おかしいな」 「僕は?」 「名前を言おうと思ったのに思い出せないんだ。変だな。さっきまでは自分が誰か分かっていたはずなのに」 名前……私も自分の名前を思い出そうとしてみた。けれども彼が言うように私の頭の中からも自分が誰なのかという情報は消え失せてしまったらしい。 「私も思い出せないみたい。でも、不思議だけど特に不安は感じない」 「実は僕もそうなんだ。ここでは名前は必要ないのかもしれない。ここには君と僕しかいないみたいだし」 「私とあなただけ?」 そう言われてみれば、列車に乗っている時から誰にも会っていない。 「ミルクはいる?」 私はこくりと頷く。彼はがたっと椅子の音をさせて立ち上がると、小さなキッチンカウンターの上に置いてあった白い陶器のミルクピッチャーを取って戻ってきた。 「君が会う予定だった人物が僕だとしても、君は思い出せない。そして僕も誰を待っていたのか思い出せない」 彼は珈琲を一口飲んでから、マグカップをことりと机の上に置く。 それから「困ったね」と机の上に肘をついたまま腕組みをして私の顔を見た。 でも彼はそれほど困っているようには見えない。 「思い出せないけれど、私はここにいて他にどこか行くべき場所も思いつかない。ここはとても暖かくて居心地がいいし、それにあなたと話しているとなんだか心が温かくなる。 その為にここに来たんじゃないかって思うくらいに。だから、やっぱり私が会いに来たのはあなたなんじゃないかしら」 「それは奇遇だ。僕も待っていたのは君なんじゃないかって思っていたから。 初めて会ったはずなのに君を呼び止めてしまったのは、このまま行かせてしまってはいけないような気がしたからなんだ」 「そうだったの。私は引き止めて欲しいなって思ってた。お互いに知らないのに不思議ね」 「知らないのかどうかも分からない」 「確かに。本当はよく知っているのかもしれないけれど……」 私たちは顔を見合わせてくすりと笑った。 「ねえ、手を見せて」 「手?」 彼はきょとんとした表情をしながらそろっと私の前に手を出した。 「ううん、そっちじゃなくて。手のひら」 「ああ、こっち」 彼の手のひらの上に私の手のひらを重ねると、少し手荒れしているのかカサカサとしていた。けれども温かい手のひらの感覚がとても心地良い。 「この手をどこかで見たことがあるような気がするの。あなたが手を差し出してくれた時、ずっと触れてみたいって思っていた気がした」 「僕の事は覚えていないけれど、手のひらの事は覚えている。ふむ。それは僕は手のひらに対して嫉妬でもするべきなんだろうか」 そう言って彼は、私の手に自分の指を絡めた。絡んだ指の感覚に私は鼓動が速くなるのを感じる。私はこうやってしたかったんだ、そう強く思った。 「ねえ、もっと近くに寄ってみてもいい?」 「え?」 彼はびっくりしたように繋いだ手を離した。 「おかしなこと言ってるよね。でも、そうしたら何かを思い出しそうな気がするの。ねえ、私だっていつもこんな事はしない。こんな事言うの本当は恥ずかしいと思ってる。だからそんなにびっくりしないでくれる?」 「嫌なんじゃないよ。僕も近づきたいと思っていたけど嫌がられるだろうと思っていたからびっくりしただけ」 「本当?」 「うん、本当に」 私は椅子から立ち上がって彼の後ろに立つと、背もたれを挟んだまま彼の首に手を回す。 「なんか緊張するな」 指先が緊張からか、ピリピリとしびれていた。彼の髪が鼻先に触れて、くんとその匂いを嗅ぐと甘ったるいような気持ちが心の中に溢れる。 彼に体を預けるようにして、もっと強く抱きしめると目じりにじわっと涙が浮かぶ。 そのままじっとしている私の方を体を捩るようにして振り返った彼は、はっと小さく口を開けた。 「泣いているの?」 「うん、でもなんで泣いているのか分からないの。ただなんか温かくて」 ポタポタと落ちるほどではないけれど、拭っても拭ってもじわっと涙が滲んでくる。 彼は目じりを擦ろうとする私の手首を優しく掴むと、体の向きを変えて反対の手でぎゅっと抱き寄せた。多分涙は僅かなシミを残して彼の服に吸い込まれてしまうだろう。 「よしよし、目を擦っちゃだめだよ。擦ると目が腫れちゃうって……」 「誰かが言ってたの?」 「そう、誰かに聞いた気がするんだけど、思い出せそうにない」 思い出せない事ばかりだ。でも、その方がいいのかもしれない。 「やっぱり僕もこうしたいって思っていた気がするよ」 彼は私の体を起こすと、少し顔を傾けてそっと唇に親指で触れる。 私も手を伸ばして彼の頬に触れた。 どちらからともなく近づく距離にそっと目を閉じるとやわらかな感触が頭の中にじんわりと心地良い麻酔をかける。 パチパチと爆ぜる薪の音を耳にしながら、私と彼は何度も唇を合わせる。 さっきまで飲んでいた珈琲の香りが時々した。 息を吸うタイミングに合わせて口内に入り込んできた舌が私の舌先に触れると、眩暈がするような感覚に襲われて、そのくらくらとする感覚を更に求めるように私は舌を絡めた。 一度絡み合ったそれはもう離れてしまうのを嫌がるみたいに、どこかが触れあったまままた新たな場所へと進んでいく。 互いに漏れる息が部屋の温度を上昇させているような気がした。 窓はすっかり白く曇っていて、窓枠を伝って水滴が垂れている。 でも目に映った白いちらちらとしたものに私は目を奪われてしまった。
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