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第21話

   * * * 「本当に、そんなにすくない荷物で大丈夫なの? 忘れ物は?」 「大丈夫だよ。忘れ物なんて、なんにもないから」  心配する母親に笑いかけ、真理子は実家からちいさなキャリーバッグを転がしつつ、駅へと向かった。  いよいよなんだ。  ドキドキが止まらない。  ちゃんと現実のことだってわかっているのに、それでもどこかで、まだ夢であるような気がしているのは、どうしてだろう。  足元がふわふわしている。  電車に乗って、港へ向かう。いつもの景色が、いつもとはまったく違って見えた。街の風景が、ちょっとおめかしをしているように感じられる。  景色がめかし込むはずはないので、気のせいだとはわかっている。なぜだか心がくすぐられて、口元がゆるんでしまった。  ニヤニヤしていたら、変な人だって思わちゃうなぁ。  そう思っても、唇は勝手に笑みの形にゆがんでしまう。  顔を見られないようにしようと、足元のキャリーバッグに目を落とす。これといったものは入っていない。中身は下着と、着替えが数着。それと化粧品くらいだ。  おかあさんが心配するのも無理ないな。1ヵ月の旅行に出かける人の荷物だなんて、思えないよね。  琉偉が真理子を追いかけて家に来た、その翌日。彼は真理子の母親と妹にまずあいさつをし、うろたえるふたりに真剣であることを訴え、仕事から帰宅した父親とも対面した。そのときの琉偉の真摯さを思い出し、真理子は幸福にほんのりと頬を赤らめる。  琉偉があの船のオーナー息子だったなんて、想像もつかなかったなぁ。  ちょうどいい機会だから、真理子も聞いてくれ。そう前置きをした琉偉は、自分の経歴を簡単に、けれど要点をしっかりまとめて、真理子と家族に教えてくれた。母親は苦労をしてきたのねと琉偉に同情を寄せ、妹はただニヤニヤしていた。なぜか混ざっていた義弟は、そんなことがあるなんて、さすがアメリカだと、琉偉の父親の転落と復活の話に羨望を向けていた。父親はムッツリとして、なんとも言えない顔で琉偉を見ていた。  琉偉はまっすぐに真理子の父親に向かって、お嬢さんを俺にください、と頭を下げた。そんなシーンはいまどき、ドラマくらいでしか見ないと思っていたのに、実際にやる人がいるんだなぁ、と真理子はぼんやりと琉偉の姿をながめていた。そして彫りの深い顔立ちと青い瞳の、見た目は日本人らしくない彼の根底には、しっかりと日本人の気質が備わっているんだな、とも感じた。  それは両親にも伝わったらしく、はじめは琉偉の顔立ちなどにとまどっていた母親は、それですっかり琉偉を受け入れ、父親もしぶしぶといった顔をしつつも顔を上げなさいと琉偉に言い、ビールを勧めた。  そこから琉偉は具体的に、なめらかに今後の予定や希望を説明した。  国籍は日本のままであること。翌日は自分の母親に真理子を紹介し、仕事に戻って父親にも報告をする。自分の気持ちとしては、いますぐに入籍だけでも済ませたいが、それではあまりにも失礼なので、まずは結納の品をこちらに届ける。それから、申し訳ないけれども結婚式の段取りは、そちらで行ってはもらえないだろうか。むろん真理子と相談をして決められるのがいちばんだが、これから船の上での仕事が待っており、アメリカに着いたあとは父親への報告や新婚旅行のための休日の手続きなどをしたい。そのため、国際電話であれこれと相談をしあうよりも、こちらの親族の招待や自分の母親、親戚の参加の問題などがあるので、双方の都合のいいように決めてもらうのが現実的でいい。  いつの間にそんなことを考えていたのかと、スラスラと段取りを説明されたので、真理子はあっけにとられた。 「結納とか、いいなぁ。私のときなんて、そんなのなかったし」  妹の朋美がプウッと頬を膨らませて、夫に甘える。腕の中ではスヤスヤと赤ちゃんが眠っていた。 「コイツができちゃったんだから、そんな余裕もなんにもなかっただろう。――なんつうか、コイツが結納の品になったってことでいいじゃん」  その返答に拗ねる朋美を、真理子は温かなまなざしで見つめた。以前のように、胸の奥にチリチリと弾けるちいさな痛みは感じなかった。両親から「あなたもはやく結婚を」という視線を、向けられることもない。  そういうものの積み重ねで、イライラしていたんだなぁ。  それが爆発して、いままでの自分を捨てたくなって、豪華客船に乗ると決めて、そして……、琉偉と出会った。  真理子の視線に気づいた琉偉にほほえまれて、抱きしめられた気分になった。心がふわりと浮き上がり、キスをしたくなったけれど、両親が見ているのでガマンする。 「でも。旅行先で知り合って結婚だなんて、超絶スピード婚だよね。おねえちゃんの、どこがよかったんですか」  琉偉はサラリと「すべて」と答え、朋美が「ひゃー」と悲鳴を上げた。 「どんな出会いだったのよ」 「ん? スロット・マシンで引き当てたの」  いよいよ来たな、と真理子は澄ました顔で答えた。 「どういうこと?」 「ジャックポットを引き当てたってこと」  あのときの、みんなのポカンとした顔は最高だったなぁ。  琉偉だけがニヤリとして、真理子を見ていた。  思い出し笑いをして、真理子はさらにその先の記憶もたどる。  詳しく、と聞かれても説明しづらい内容なので、はぐらかした。そしてその夜、琉偉は真理子の実家に泊まり、翌日は彼の母親に会いに行った。  やさしそうな人だった。彼の父親をまだ愛してはいるけれど、お金持ちになったからヨリを戻すなんて失礼だから、とさみしい笑みを浮かべて言った。父親はふたたび家族がひとつになることを望んでいるのに強情なんだよと、琉偉は母親を尊敬のまなざしで見つめていた。  自分を育て、守るために母親が父親との離婚を決意したのだと、真理子と出会ってからようやくわかったと琉偉は言った。気づかせてくれてありがとう、と――。  礼を言われるようなことは、なにもしていないと真理子は思う。けれど真理子のおかげで、愛するということを知ったから、両親の関係を理解できたんだと返された。 「金銭のために別れたんだと、ずっと思っていた。どんな言葉を並べても、恋愛は利害の上にしか成り立たない、打算的なものだって思っていたんだ。――愛を交わす、ということを、真理子と出会ってはじめて知った。いまではオフクロが、さっさと意地を捨ててオヤジとヨリを戻せばいいと考えているよ」  照れくさそうに告げられて、真理子は琉偉の純粋な部分にほほえんだ。  琉偉の父親がどんな人なのかはわからないが、彼の母親が元夫のことを、いまでも大切に想っていることは言葉の端々から伝わってきた。だからこそ、彼を捨てる形になった自分を許せないのだと、真理子は理解する。 「真理子と俺の結婚をきっかけにして、ふたりがまた結ばれればいい」  それはとてもステキな考えだと、真理子はうなずいた。  琉偉の父親は、どんな人なんだろう。  電車を降りて、タクシーに乗り、港へ向かう。  港にはオアシス・ブルーバードが停泊していた。  2度目の乗船だ。  この船に乗って、琉偉の父親に会いに行く。  真理子はドキドキと高まる心音を聞きながら、搭乗口へ向かった。琉偉の姿はない。彼は船の総責任者として、船内で仕事をしているのだろう。けれど空き時間はすべて、真理子にくれると約束をしてくれた。 「真理子の話をオヤジにしたら、次のクルーズでぜひ来てもらいたい、と言われたんだ。――会いに来てくれないか」  もちろん、と即答した真理子は、その日が来るのを待ち遠しく感じていた。  琉偉に会うのも久しぶりだ。  毎日電話はしていたけれど、触れ合えないのはとてもさみしい。 「明日からはずっと、真理子に触れていられるんだな」  昨夜、しみじみと電話口から漏れた琉偉のため息を思い出し、真理子は頬を赤くする。  はやく会いたい、と言った琉偉に、私もと答えて電話を切った。 「琉偉」  つぶやいて、巨大な船を見上げる。  この船の中で、新しい私が生まれた。――ううん。いままで無意識に抑え込んでいた私が解放された。それを見つけて、教えてくれた琉偉。そしていまから、その人の傍で新しい生活をはじめるんだ。  よろこびに胸を大きく膨らませ、背筋をうんと伸ばした真理子は、乗船手続きに向かった。    * * * 「いよいよですね」  いつもは生真面目な秘書のニックが、琉偉にニヤついた顔を向ける。昨夜からソワソワと落ち着かない琉偉は、そんな彼の軽口に軽いうなずきを幾度も返した。 「万事、予定通り進んでいるのか」 「進まなかったことのほうが、珍しいと記憶しています」 「ああ、そうだな。――そのとおりだ。間違いがあるはずはない」  大丈夫だ、と琉偉は口内でつぶやき、接岸完了の報告を受けた。  いよいよ真理子と会える。  この数か月間、どれほど彼女に会いたかったか。  毎日電話をし、声を聞いていた。そのたびに彼女の笑顔を思い浮かべ、髪の手ざわり、頬の艶、唇の感触を記憶から取り出してたしかめた。眠るときは無防備な彼女の寝顔を思い出し、官能に身をよじる彼女の姿が脳裏に浮かぶと、たまらない心地にさせられ苦悶した。  ぜったいに手に入れると決めて、性急に物事を運んだ。これ以上ないほど思考を回転させて、彼女の両親から結婚の承諾を得ると母親に会わせ、結納の段取りも決めてしまった。  結納の作法や品のことはわからないので、彼女の家族へのあいさつ品と、結婚式の費用として小切手を送った。結構な品をいただいた、と真理子の母親から琉偉の母親に丁寧な手紙が届いたらしい。真理子からも、家族が驚いていたと聞いている。  あれは彼女がほかの誰かにさらわれないための、言葉は悪いが手付金だと琉偉は考えている。真理子と離れている間に、別の誰かに奪われるのではないか。彼女がまた自分の前から姿を消すかもしれない、という不安がそういう行動を起こさせていた。  毎日電話をして、愛をささやきあっていても不安はぬぐえなかった。幸福だと感じれば感じるほど不安が大きくなっていく。  そんな琉偉を見たニックが、まるでマリッジブルーだと笑った。  ブルーにもなるさと、琉偉は苦笑した。  これほど強く誰かを愛するのは、はじめてなんだ。  必ず手に入れると決めた矢先に、目の前から忽然と姿を消された。  すぐに居場所を突き止められたが、彼女の姿を見て、気持ちを確認するまでは生きた心地がしなかった。あの時の不安が、琉偉の内側にわだかまっている。  だが、そんな不安に揺れるのもこれが最後だ。  彼女は俺の腕の中へと続くタラップを登ってくる。待ちに待った真理子との再会は、もう目の前だ。 「乗船者手続きが、まもなく開始されます」  時計を確認したニックに肩をたたかれた。 「どうぞ、いってらっしゃいませ。あとは、お任せください」 「ああ。――頼む」  琉偉は引き出しから指輪の箱を取り出し、ポケットに入れた。真理子と別れてすぐに、船内の宝石店に足を運んで相談をした。アメリカに着くまでにデザインを決めて、次の航海までに間に合わせてくれと注文をした婚約指輪だ。  真理子はどんな顔をするだろう。  乗船した真理子に、あらためてプロポーズをするつもりでいた。船内のクルーの誰もが、琉偉の心を射止めた女性が乗船すると知っている。琉偉の周囲では、真理子は愛のジャックッポットを引き当てた女性と言われていた。出会いの経緯と真理子が家族に言った文句とを聞いた連中が、まさにそのとおりだと面白がって広めたのだ。  だが、引き当てたのは俺の方だ。  琉偉はニヤリとする。  スロット・マシンをしていたのは真理子だが、声をかけたのは俺だ。彼女はずっと愛を内側にため込んでいた。――俺は俺の心をかけて、真理子の愛を引き当てたんだ。  彼女よりも先に、惚れたのは自分だと琉偉は思っている。だからこそ無意識の真心が彼女の気持ちを揺さぶり、自分に向かわせたのだと考えていた。  豪華客船を運営している会社の社長息子だと知ったときの、ポカンと口を開けた真理子を思い出して、琉偉はクックッと喉を鳴らした。とんでもない玉の輿だと、真理子の妹――朋美と言ったか――は目の色を変えたが、彼女は態度を変えなかった。多くの女性がそうであったように、目の中に欲のきらめきをチラつかせたりはしなかった。  俺の目は間違っていなかったんだと、琉偉はうれしくなった。これこそまさに、真実の愛だと確信をした。打算も利害もなく、ただ相手が相手であればいい。  単純で、けれど琉偉がいままで信じることができなかったもの。  それを真理子は教えてくれた。  琉偉の目に映る世界の色彩が、その瞬間にガラリと変わった。  父親を捨てておきながら、それでも愛しているのだと言い続けていた母親の気持ちが理解できた。それまでは「愛している」というのは口先だけで、金がないから愛想をつかしたのだと思っていた。――ふたりは琉偉の将来を考え、合意の上で離婚をしたのだ。  そんなことにも気づけない、子どもだった自分を琉偉は恥じた。そしてそれを教えてくれた真理子に感謝した。  さなぎから羽化をした気分だ。  本当の愛を知れば人は変わるというが、こういうことだったのか。  足早に進む琉偉に、クルーたちが祝福の視線を向けてくる。中には祝いの言葉をかけてくる者もあった。それらに軽く手を上げて応えつつ、琉偉は足を急がせる。  1秒でもはやく、真理子と会いたい。  日本からの搭乗者は、そう多くない。真理子の姿はすぐに見つけられる。  クルーが慇懃に乗船のあいさつをしている背後に、琉偉は立った。真理子の姿が見える。琉偉を見つけて、パッと顔を輝かせた真理子はマーガレットのようだ。  そう、彼女は純白のマーガレットだ。  過去に付き合った女性から、マーガレットの花言葉を聞いたことがある。  真実の愛。  まさに真理子にふさわしい花だ。 「ああ、すまない」  乗客の荷物を客室に運ぶため、待機しているボーイを呼び止める。 「マーガレットを用意してくれないか。……そうだな。レストランに届けてもらおうか」  ランチを予約しているレストランの名前を告げれば、訳知りのボーイが「お任せください」と力強い返事をして準備に向かった。 「琉偉」  傍に来た真理子がニッコリとし、すぐに不安そうに眉を下げた。 「荷物はなんにもいらないって言われたから、ちょっとしか持ってこなかったけど、大丈夫かな?」  真理子の視線がキャリーケースに落ちた。 「それもいらないくらいだ。この船にはあらゆる店がそろっているからな。――必要なものは、真理子だけだ」  そっと左手を取ると、真理子の頬が赤く染まる。はにかむ姿に胸をときめかせつつ、琉偉はポケットから指輪を取り出した。 「食事のときに、もっとロマンチックに渡すつもりでいたんだが……」  首をかしげた真理子に箱を見せる。 「開けてくれ」  繋いだ手はそのままに言えば、真理子は右手でふたを開け、目をまるくした。 「……これ」 「婚約指輪だ」  いったん手を離し、指輪を取って箱をポケットにしまう。ふたたび真理子の左手を取り、薬指にそっとはめた。  ダイヤで花を表現したプラチナの指輪は、真理子の可憐な指につつましやかに、けれどしっかりと存在を主張しておさまった。  真理子はまだ、呆然としている。 「真理子」  気に入らなかったのだろうかと、無言で指輪を見つめている真理子に不安を覚える。 「……ありがとう」  ポツリと言った真理子の声は、よろこびに湿っていた。 「真理子」  趣味に合わなかったわけではないと知って、ホッとした琉偉を真理子が見上げる。 「すごく、うれしい」  目に涙をためてほほえむ真理子に、琉偉はそっとキスを送った。
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