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第16話

   * * *  船上に吹く風に髪をなぶられながら、真理子は巨大な豪華客船をながめていた。  真理子が乗っているのは上陸をする客を乗せた連絡船だった。  連絡船とは言っても、簡素な造りの船ではない。食事を楽しむこともできる、観光客船だった。神戸の街に遊びに出ると決めた者たちは、景色をながめたりレストランでお茶をしたりしながら、着岸を待っている。着岸してもすぐに出られるわけではなく、パスポートや荷物の確認があるので、客たちはのんびりと過ごしていた。  琉偉――。  真理子は船尾に立って、離れていく豪華客船オアシス・ブルーバードを見つめていた。あそこには琉偉がいる。いまごろ、どんな仕事をしているのだろう。この船に乗り移るときに、琉偉の姿がなくてよかったと、真理子は思う。もしも彼の姿が見えたら、決心が鈍ってしまっただろうから。  胸元を強く握りしめ、真理子は心の痛みを堪えた。  もう、別れよう。  そう決めたのは、彼のやさしい言葉に胸を甘く切なく絞られたからだ。 ――もっと、身支度をする真理子を見つめていたかった。  それはなぜか、プロポーズの響きを持って、真理子の耳に触れた。そんなはずはないと、真理子は強く打ち消した。けれどそのあとに彼の口からこぼれた言葉やしぐさ、ほほえみが真理子に残酷な希望を抱かせる。 ――真理子が、俺のしあわせの形だということだ。  彼はきっと、映画のワンシーンのようなセリフを言いなれているのだろう。だから、すらすらと気負いもなく、簡単に言ってのけられた。あの物腰は、数々の女性を相手にしてきたからこそできるもの。酔っぱらった自分を介抱する方便で「恋人になる」と言ってくれた人。そんな発言があっさりできて、しかも本当にそんな態度を示すなんて、経験が豊富でなければできないはず。  そんな琉偉からすれば、真理子はちょっと毛色の変わっためずらしい相手、という程度にすぎないのだと、後ろ髪を引かれる自分に言い聞かせる。  私よりも、もっとずっと魅力的な人たちに囲まれてきたはずだから。だからきっと、すぐに私のことなんて忘れてしまう。  しばらくは、こんな女性がいたなと話題に上るかもしれないが、次の相手を見つけた瞬間、あっさりと思い出に変えられてしまうだろう。もしかしたら、思い出にすらならないかもしれない。  琉偉みたいにステキな人には、もっともっとステキでおしゃれでキレイな人が、いっぱい集まってくるだろうから。  ふたりで過ごしている間、チラチラと琉偉に注がれる女性の視線に真理子は気づいていた。真理子がいるのに、あからさまに琉偉に熱い視線を送る女性もいた。その女性は誰もがうらやむほどの美貌と、洗練された身ごなしから生まれる自信を身に着けていた。  真理子が気づくぐらいだから、琉偉もきっと誘いかける視線をわかっていたはずだ。それなのに意に介した様子も見せず、完全に黙殺をしていたのは、慣れているからとしか考えられない。  ああいう女性からの誘いの視線を浴びるのは、琉偉にとっては日常茶飯事なのだろう。真理子と出会う以前から、あんな視線で誘われていたに違いない。  比べるまでもなく、真理子よりもずっと魅力的な女性の視線を平然と受け流していた琉偉が、本気で相手をしてくれるなんてありえない。姿を見ているだけで、どんどん気持ちが膨らんで、もうこれ以上はないと思うのに、それよりもっと強い感情に引きずられてしまう。  あとすこし、もうすこしと関係を続けている間に、取り返しがつかなくなるほど愛してしまう。――もう、とっくに取り返しなんて、つかなくなっている。  だったら、きっぱりと別れてしまおう。もともと船旅の間だけ、という約束だったんだから。  真理子は唇を引き結び、琉偉の乗っている船から視線を引きはがした。  博多まで、と関係を伸ばすより、ここで別れてしまおうと食事の間に覚悟を決めた。それじゃあ仕事に行ってくる、とレストランの前で別れ、去っていく琉偉の背中を見つめながら、心の中で「バイバイ」と告げた。  決心が鈍らないように、いそいで客室に戻って荷造りをして、琉偉に見つかりませんようにと祈りながら下船の手続きをした。  まだ日程はありますよ、と言われて、急用ができたんですと返事をした。  琉偉との別れを噛みしめて、思い切り泣いて気持ちを落ち着かせ、もとの生活に戻るための時間を作るという急用が、できてしまった。  もちろん、そんなことは言わない。  手続きをしてくれた男性はにこやかに、けれど眉をちょっと下げて残念そうに、軽くうなずいて手続きをしてくれた。  着岸したらパスポートを見せて荷物のチェックを受けてください、と言われた。乗るときとおなじ手順。空港で海外に飛び立つときと、おなじ手続きをして日常に戻る。  そう。  私は外国に行っていたんだ。  真理子は胸の痛みに触発されて、ツンとしてきた鼻を落ち着かせるため、レストランで紅茶を注文した。着岸はもうすぐだけど、すぐに上がるわけじゃない。観光が目的の上陸ではないから、いそいで手続きをしなくてもいい。この船は夕方にあの船に戻るまで、ずっと停泊をしていると聞いたから、紅茶を味わう時間はたっぷりある。  油断をすると目尻に浮かびそうになる涙をこらえるために、真理子はゆったりした呼吸を意識した。  紅茶が運ばれる。その横にクッキーが2枚、添えられていた。 「ありがとう」  真理子がチップを渡すと、店員はニッコリとして去っていった。  ふうっと息を吐き出して、砂糖を入れてかき混ぜる。水面に映る真理子の顔が、クルクルとかき混ぜられる。私の心はこんなふうに、グルグル回って揺れている。入れた砂糖は紅茶になじんで、跡形もなく消え失せた。  スプーンを置いて紅茶に口をつける。ほんのりとした甘さの奥に、紅茶の苦味があった。まるで琉偉との甘い記憶と、別れの苦しみみたいだと真理子は唇をゆがめた。  だめだなぁ。  そっと自分にあきれてみせて、クッキーに手を伸ばした。サックリと簡単に割れてしまったクッキーは、未練なく喉を通って消えてしまう。味の余韻はあっけなく紅茶に押し流されてしまった。  このクッキーのように、きっぱりと割り切って飲み込んでしまわないと。  船の中での経験は、すべて幻。――日常とはまったく違った経験を求めた、夢の世界の出来事なんだと自分に言い聞かせる。  そんな世界で出会った琉偉は、真理子に用意されたステキな王子様というアトラクション。本物の王子様じゃなく、ただの船の従業員だったけれど、真理子にとっては充分すぎるほどの相手だった。  そう。  あれはそういうものだったんだ。  真実の恋愛をしたわけじゃない。あれは、ただのアトラクション。船上にあったカジノや劇場やウォータースライダーや、そのほかにもいろいろあった、日常では体験できない経験のなかのひとつ。豪華客船が見せる幻のうちのひとつ。  ……本当の恋じゃなかった。  ポツリと落ちたつぶやきは、紅茶に落ちて溶けてしまった。    * * *  無事に手続きが済んだと報告を受け、時間通りに仕事が終わったことに満足をした琉偉は、ご苦労だったと声をかけて陸地を見つめた。  上陸をしたのは乗客のおよそ2割程度。この船に乗るほどの経済力がある人間のほとんどは、観光をしたい土地にしっかりと根を張り隅々まで楽しもうとする。本気で観光を望んでいるのなら、はじめからその土地のホテルに長期滞在をして過ごすものだ。だから2割ほどだと聞いても、琉偉はすこしもおどろかなかった。まあ、いつもの割合と変わらない。  陸地と船をつなぐ移動用の船を、増やさずに済んでよかった。事前に希望者の人数を確認していたが、まれにグンと増えることもある。そういう場合の備えをしていなくはないが、当初の予定通りで終わるほうが望ましい。  とくにいまは、余計な仕事は増えないでほしかった。  真理子が待っているのだ。  琉偉は書類にサインをして、コーヒーカップに指を伸ばした。くゆる香りを胸深くに吸い込みながら、真理子の姿をまぶたに浮かべる。  もしも愛の神がいるのなら、感謝をしたい。  いままでの燃え上がってもどこかドライな恋愛たちは、真理子のすばらしさをより強く感じるための布石だったのではないか。真実の愛とはどういうものかを琉偉に教えるために、わざと欲を瞳に浮かべた女性ばかりを自分に近づけていたと言われれば、なるほどそうかと納得をする。  思えば、両親の離婚の原因は金銭が問題だった。身を持ち崩した父から逃れるために、母は琉偉の手を取って日本に来た。そして琉偉は、貧困に遭っても愛を絆として助け合う物語に幾度も触れた。それに感動をする人々も目にし続けた  あんなものは、ニセモノだ。  貧困に見舞われれば、愛は維持できない。それを琉偉は両親の姿から学んでいた。その経験のために、琉偉は愛を疑っていた。真実の愛など希望的まやかしだと、琉偉は自分に近づく女性たちの姿に確信をした。誰もが琉偉の人格ではなく、容姿から、あるいは背景に見える父の財産から、愛を感じていた。  それをとがめるつもりはない。琉偉自身も、近づく女性を見た目や所作で判断して受け入れた。しかし琉偉から声をかけたことはない。声をかけなくても、女性の方から近づいてきた。その中で興味を引かれる女性を相手にし、深みにはまらない関係を維持してきた。そうしているうちに、容姿に自信のある女性しか琉偉に声をかけてこなくなり、自然と琉偉の周囲には美女と呼ばれるたぐいの、美貌を武器に男と渡り合う女性しかいなくなった。  自分から愛を遠ざけていたのだと、いまならわかる。しかしそれを後悔する気持ちは微塵もない。――真理子と出会ったからだ。  琉偉はコーヒーに口をつけた。香ばしい香りが鼻孔を抜ける。真理子はいつも紅茶を注文する。それか、ジンジャーエール。コーヒーは飲めるけれど、苦味や酸味が舌に残るのはイヤだから、カフェオレにするのだと言っていた。そんなささいな情報がとてつもなく大切で、知られたことがうれしいと感じる。友人の好みを知ったときよりも、強い関心と感動が胸に生まれた。  たった、それだけのことなのに――。  すっかり彼女にまいってしまっている。困ったことに、それがちっとも残念ではない。むしろもっと、降参させてほしかった。――はにかむ姿。子どものようにはしゃぐ瞳。すぐに赤くなる純真さ。ふとした瞬間に見せる、さみしげな雰囲気。ガンコな一面も魅力的だ。  さまざまな真理子の姿を脳裏に浮かべて、琉偉はほほえむ。彼女との時間は、まったく退屈をしない。常に新たな刺激と興奮に満たされている。こうして離れている間でさえ、真理子に心を奪われている。  Love is blind.  琉偉は口の中でちいさくつぶやく。  愛は盲目と言うが、本当にそうだ。  俺はすこしでも真理子の傍にいようと、勤務時間を短くするため努力をしている。俺の手をわずらわせる案件はそうそうないが、それでも俺はこの船の責任者だ。俺がサインをしなければならない事案は消えたりしない。最低限の仕事をきっちりとこなし、真理子と過ごす時間を作る。  ずいぶんと真面目になられましたね、と書類を運んできた秘書に言われた。いつもなら持て余した時間を理由に、気の抜けた仕事をしていた。この船のクルーは優秀だ。琉偉がサインする書類に不備があったためしはない。むろん、万が一の見落としがないよう、しっかりと目は通しているけれど。  すべては真理子のせいだ。  彼女は仕事をきっちりとこなすタイプだろう。そして信頼され、頼りにされ、必要以上の仕事を任されているに違いない。そんな気がする。  俺がいままで、ダラダラと仕事をしていたと知ったら、真理子は眉をひそめるだろうか。あるいは、唇を尖らせて叱るかもしれない。  想像をして、クックッと喉を震わせる。  どちらにしても魅力的なことには違いない。こうしてジリジリと彼女に会えない時間を過ごすのも、悪くない。頭の中には常に真理子のことがある。このせいで書類や指示に見落としがあったとしたら、ぜひとも責任を取ってもらわなくてはならないな。 「ああ、そうだ」  控えていた秘書の視線が琉偉に向く。毛並みのいい愛玩犬のように、つやつやとした茶色の髪とおなじ色をした瞳が、琉偉の口から発せられる指示を待つ。 「ロマンチックなプロポーズの計画を立てたいんだが、なにかいい案はあるか」 「……は?」  秘書は間の抜けた声を出し、ちょっと考えてから答えた。 「どのようなお客様からの、ご要望でしょう」  よく通る彼の声に、琉偉は自分を指さして答えた。 「おまえの目の前にいる」  秘書は顔をしかめた。 「お遊びが過ぎるのではありませんか。相手の女性が本気にしたら、どうするつもりです」  彼は長年、琉偉の秘書を務めているので、女性関係を充分すぎるほどに把握していた。 「本気にさせるために、プロポーズをするんだ」  ますます顔を険しくした秘書に、琉偉は深いため息をついて両手を上げた。 「いままでの素行の悪さを思い出しているんだな。――無理もない。この俺が本気で誰かにプロポーズをする日が来るなどと、誰も信じやしないだろう」 「ご自身が女性に関して、どのような不名誉を築いてこられたのか、自覚はあるようですね」  チクリと刺さる言葉に、琉偉は肩をすくめる。 「それは俺だけが問題じゃないだろう」 「そうしないように、自制することもできたかと思いますが」  秘書は真面目に限ると雇った彼の批判に、琉偉は苦笑した。真理子も俺の女性遍歴を知れば、こんなふうに責めるだろうか。 「なにをニヤついておられるのですか」 「この俺が身を固める覚悟を持ったと知ったら、どれだけの人間が驚くだろうと想像をしていたんだ」 「――本気ですか」 「本気じゃなきゃ、こんな相談を持ちかけやしないさ」  秘書は深く重い息を吐いて、眉間にシワを寄せた。 「近ごろ、ウワサになっている東洋人の女性ですか」 「ほかに誰がいる? 俺が彼女以外の女性と、この船で楽しく過ごしている姿を見たやつがいたら、それはきっと幻影だろうな」 「悪い遊びがはじまったのだとばかり、思っていました」 「俺もはじめは、そのつもりだったさ。――それが、本気になった」 「まだ、たった数日のように見受けられますが」 「恋に落ちるのに、時間は関係ない」 「シェイクスピアあたりの作品なら、そのセリフはとても効果的に聞こえるのでしょうが」 「俺の口から出ると、ウソくさいか」 「ええ、とても」  辛辣な言葉を浴びせられても、怒りはすこしも起こらなかった。それほど意外なことなのだと、琉偉本人も感じている。  この俺が、恋に落ちる――、だって?  自分のセリフにクスクス笑い、時計を確認する。真理子との約束までには、まだまだ時間がある。 「それで? 相談に乗ってくれるのか、くれないのか」 「ロマンチックな演出、という部分でお役に立てる自信はございませんが、それでもよろしければ」  本気であると通じたようだ。  琉偉はニヤリとした。 「彼女はニックとおなじで、融通が利かない真面目なタイプらしい。だから、俺が計画をするよりも、地に足の着いたロマンチックな演出を思いつけそうなニックが、相談相手に最適だと思っているんだ」  おや、と秘書のニックが眉を持ち上げる。 「そういう女性だから、真面目に仕事をするようになられたのですね」 「まあ、そんなところだ。仕事をサボっていると知られたら、仕事が終わるまで会わないと言い出しかねない女性なんだ」 「いいお相手です」 「それはイヤミか?」  琉偉がおどけると、ニックがフフンと鼻を鳴らした。 「そう受け取られたということは、不真面目だと自覚なされておいでだったのですね」 「きちんと仕事はこなしていただろう」 「ええ。ですから、仕事をしろと文句を言ったことはありませんよ」  じゃれあいに似た応酬に吹き出して、真面目な表情に改める。 「とにかく、時間がないんだ。真理子は博多で下船する。その時に彼女の唇からイエスを引き出すプロポーズをしたい」 「なるほど。――では、その真理子という女性のことを、まずは教えていただけますか」 「もちろんだ。聞いてくれ、彼女がどれほど魅力的なのかを。――惚れるなよ?」  ニックが左手を持ち上げる。 「愛の誓いを立てているので。俺の心は妻ひとりのものですから」 「俺もはやく、そうやって指輪を自慢したいものだ」  ウキウキと座り直した琉偉は、真理子との出会いからいまの気持ちに至るまでを、手早くニックに説明した。

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