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第15話

   * * *  素肌に当たるシーツの感触が心地いい。ふんわりと温かな人肌に包まれて、真理子はまどろんでいた。  寝がえりを打つと、髪にやわらかくなにかが押しつけられる。薄く目を開けると鎖骨が見えて、さきほど髪に触れたのは琉偉の唇なのだとわかった。  見上げれば、琉偉のとろけた笑みがあった。真理子もおなじ笑顔を浮かべて、琉偉からの目覚めのキスを受け止める。 「おはよう、真理子」 「おはよう、琉偉」  体がひどく重い。けれど心はふわふわと浮かんでいた。  いったい、いつ寝入ってしまったのだろう。  自分がどんな格好をしているのか、わからなくなるほど彼と絡み合い、熱を重ねて快楽の悲鳴を上げた。喉がちょっとヒリヒリしているのは、叫びすぎたからか。  照れくさくなって、真理子は琉偉の肩に額を寄せた。琉偉がそっと抱きしめてくれる。髪に降る彼のキスを感じながら、真理子もそっと琉偉の喉にキスをした。  ずっと、こうしてまどろんでいたい。  ぬるま湯からなかなか出られないときと、似たような感覚に包まれている。あれよりももっと、心が幸福にたわんでいる。春の陽だまりで眠りに誘われ、うつらうつらとしているような、そんなしあわせに真理子は満たされていた。 「……真理子」  顔を上げれば、琉偉がすこし困った顔をしていた。 「ずっとこうしていたいんだが……、ひとり真理子をベッドに残しておきたくないんだ。――わがまま、かな」  どういうことかと瞳で問うと、琉偉はちらりと時計に目を向けた。真理子も琉偉の視線を追って時間を見る。午前七時をすこし回ったところだった。 「真理子が起きて、俺がベッドにいなかったらどんな気持ちがするだろうと……。それで、起こしてしまった。そのほうがいいかと思って」  覚醒しきっていない意識で真理子は思い出す。琉偉はこの船の従業員で、昨日は仕事を休めたけれど、今日は勤務に戻らなくてはならない。 「……起こさない方が、よかったかな」  不安げな琉偉に、ううんと真理子は首を振った。 「起こしてくれてよかった。目が覚めて琉偉がいなかったら、さみしいから」 「そうか」  ホッとした琉偉の唇に唇を重ねて、真理子は体を起こした。ベッドから伸びる見えない手が、真理子の体を引き止めているのではと感じるほど、体が重い。気だるさを深呼吸でなだめた真理子は、起き上がった琉偉に改めて「おはよう」と言った。 「朝ごはんを食べる時間はあるの?」 「ああ。――疲れているのなら、無理に付き合ってくれなくていい。職場に出てから、なにかつまむよ」 「すぐに準備をするから、ちょっとだけ待ってて。……今日でしょう? 停泊して観光をする日って。忙しくなるんだったら、ちゃんとご飯は食べておかなきゃ」  真理子はベッドから降りた。 「ああ。そうじゃなかったら、今日も休みが欲しいって申請をしていたのにな」 「仕事はきっちりしないとね」  クスクス笑いながら、真理子はシャワールームへ入った。琉偉の名残を惜しみながら、頭からシャワーを浴びて洗い流す。  今日は神戸港に停泊する。と言っても、この船が港に着岸するわけではない。街と言っても過言ではないほど巨大な船は、船上にそびえる建物を支えるために海面下の長さもある。海底がそれほど深くはない場所に行くと座礁をしてしまうので、沖合に停泊し、観光希望者は遊覧船として使用されている船に乗り換え、上陸する手はずになっていた。  その交通船の出発時刻は午前十時の一度だけ。  船上は異国扱いなので、入国手続きの関係上、行き帰りそれぞれ一便ずつしかなかった。  観光ツアー希望者や個人観光希望者への対応で、従業員は大忙しになるらしい。送り出した後は、手抜かりがないかチェックをし、船の出発時間までにきちんと乗客が帰ってくるよう気を配る。  大変だなぁ。  シャワーを止めた真理子は、そんな感想を浮かべつつ体を拭いてガウンを羽織った。部屋に戻ると、琉偉が着替えを済ませていた。 「琉偉は、シャワーはいいの?」 「せっかくの真理子の名残を洗い流すのは、惜しいからね」  おどけた琉偉に、真理子は赤くなる。そんな真理子に琉偉は快活な笑い声をあげた。 「冗談だよ。手早くシャワーを浴びてくる。真理子が髪を乾かし終わるころには出るよ」  すれ違いざまキスをされて、真理子は「もうっ」と照れを抑えた声で琉偉をとがめた。楽しそうに琉偉がシャワールームへ消える。  真理子は髪を拭いて、ドライヤーで乾かしながら、どうしようかと考える。  このまま船上で過ごすか、神戸へ上陸するための船に乗るか……。  もともと各所で観光をするつもりのなかった真理子は、下船予定地の博多まで船内で過ごす予定でいた。それなのに神戸に降り立つかどうかと迷っているのは、琉偉との時間があるからだった。  琉偉との関係は、船を降りるまで。  その事実が、彼と過ごす幸福を味わうごとに重く心にのしかかってくる。  会っている時間が長くなればなるほど、どんどん彼に惹かれていく。いろいろな彼を知るごとに、心に琉偉が刻まれていく幸福と同等の悲しみが、真理子を苦しめていた。  もっとずっと、琉偉といたい。  けれど琉偉は船の従業員で、この関係も乗船をしている間だけ。  こんなに琉偉を好きになってしまった。その気持ちがもっともっと大きくなるのが怖い。これ以上ないほど琉偉を好きになってしまっているのに、博多に着くまでの間に、もっともっと気持ちが膨らんでしまいそうだ。  さようなら、と彼は笑って私を見送るのかな。  髪を乾かしながら、そっと目尻に浮かんだ涙をぬぐう。  琉偉はきっと、こういう恋に慣れているよね。でないと、酔っぱらった私のたわごとを、あっさりと受けるわけないもんね。  これほど情熱的に愛してくれるのは、期間限定という制約があるからなんじゃないかな。障害があればあるほど、恋は燃えるって言うし。期限つきのドラマチックな恋を、全力で楽しんでいるだけなのかも。  きっとそうだ。  真理子は琉偉の気持ちをそう決めつけて、ずっと彼といっしょにいられるのでは、という幻想を必死に砕こうとした。  船の上での経験は、旅の恥は掻き捨て、じゃないけど……、そんな気持ちで過去の真面目な私を振り切って、思いっきり遊んで、その思い出を糧にまた日常に戻る、っていうのが当初の目的だったんだし。  だったら、もういいんじゃないかな……。  これ以上、琉偉といっしょに過ごして、もっともっと、どんどん好きになっちゃったら、後戻りできなくなる。  船上にいる間だけの恋なんだって、割り切れなくなっちゃう。  ううん。  もうすでに、そんなふうに思えなくなってる。  もともと、私にはそんな遊びの恋愛なんて、無理だったんだ。  ドライヤーのスイッチを切って髪を梳かし、着替えはじめると、琉偉がシャワールームから出てきた。きっちりと身なりを整えた琉偉が、まっすぐに真理子を見つめる。 「おまたせ、真理子。――朝食は、ルームサービスにする? それとも食べに出ようか」  やわらかな微笑で問われる。  ああ、好きだ。  真理子は胸がつぶれそうなほどの想いに、目の奥を熱くさせた。 「真理子?」  琉偉が不思議そうにまたたく。 「すぐに準備をするから、食べに行きましょう」 「わかった」  琉偉の手が伸びて、真理子の頬に触れる。そっとキスをされて、真理子は目を閉じた。  琉偉とずっと、いっしょにいたい――。    * * *  身支度をしている真理子をながめる琉偉は、しあわせを噛みしめていた。  なんて幸福なひとときなんだ。  こうして彼女が出かける準備をしている姿を、毎日でも見ていたい。  必ずそうなるさ、と琉偉は自信に満ちた笑みを浮かべる。  真理子はもうすっかり、俺に惚れてしまっている。彼女が下船をするときまでに、ロマンチックなプロポーズの計画を立てておこう。彼女は恋を遊びとして割り切れる人じゃない。きっともう、俺との将来を望んでいる。  昨夜の真理子の艶やかな肢体と、目覚めてからのひかえめな態度の落差に、琉偉は甘いめまいを覚えた。こんなにも魅力的な人が目の前にいるのだから、プロポーズをしない手はないだろう。  はにかむ真理子にキスをしながら、琉偉はその決心を固めていた。  朝食はルームサービスで、と真理子が答えるのではと予想したが、そうはならなかった。思うさま互いを求めて絡み合った記憶が、彼女を照れくさくさせているのだろうと予測する。  きっと、ふたりきりで朝食をとれば、その名残の甘やかな雰囲気にのまれて、部屋から出られなくなるに違いない。  そんな風に考えたのかもしれない。  それは、俺の問題か。  琉偉は苦笑した。ルームサービスを頼み、ふたりきりの時間を名残惜しむつもりでいたのは、琉偉だ。それなのに外に食べに行く、という選択肢を真理子に提示したのは、彼女におぼれて仕事に戻れないのではと、危惧したからだった。  それほど俺は、真理子に惹かれている。  彼女の生真面目さの奥に潜む、少女のような純朴さと、琉偉が引き出した艶麗な女の姿。  そのどれもが刺激的で、やわらかな魅力に満ちていた。  真理子ほどすばらしい女性はいないと、琉偉は確信していた。彼女ならば俺がこの船のオーナー息子であり、いずれ会社や財産を引き継ぐ男だと知っても、態度を豹変させたりはしない。  たかがドリンクの支払いを、かたくなに自分が払うと言い張った真理子なら、いままで言い寄ってきた女性たちのように、琉偉の姿に金銀宝石の類を脳裏にチラつかせたりはしない。真理子はきちんと、琉偉という人格を見つめて愛してくれている。そんな女性とはもう会うことはないだろう。  俺が真理子と結ばれれば、そんな女性を望む必要はなくなるからな。  ニヤリとした琉偉は、準備を終えた真理子がカバンに手を伸ばすのを見て、もたれていた壁を肩で蹴った。 「おまたせ、琉偉」 「ちっとも。――もっと、身支度をする真理子を見つめていたかった」  キョトンとする真理子の肩を引き寄せて、額に唇を軽く当てる。ふわりと浮かび上がった香りは、おなじシャンプーを使ったはずなのに、自分とは違った匂いがした。  とても甘く、けれどどこかさわやかな、春の花の香りを含んだ風のようだ。  きっと真理子自身の香りだろうと、琉偉はその匂いを胸の奥深くに吸い込んだ。 「琉偉?」  抱きしめたまま動かない琉偉を、真理子がとまどう顔で見上げる。腕の中にすっぽりと納まってしまう、ちいさくて可憐な真理子。なんて愛おしいのだろうと、琉偉は胸を熱くした。 「部屋から出るのが、惜しいな」 「ええっ? でも、仕事をしなくちゃいけないんでしょう」 「――サボってしまおうか」 「ダメ」  冗談半分、本気半分の琉偉を、真理子は優等生の顔をしてにらむ。そんな姿も可愛いなと、琉偉はほほえんだ。 「もう、なに?」 「ん? しあわせを噛みしめていたんだ」 「どういうこと?」 「真理子が、俺のしあわせの形だということさ」  みるみるうちに真理子が赤くなる。うつむいた真理子に「もうっ」と怒られ胸を軽く叩かれて、琉偉の体中に愛おしさが満ちた。 「真理子」  顎に手をかけ、上向かせる。真理子の瞳が切なくうるんでいた。まぶたにキスをして、頬に唇を移動させると、真理子の唇がわずかに開いた。キスを待つちいさな唇に、想いを乗せた唇を重ねる。  ついばむ以上のキスにならないよう、自制しながら幾度も重ねて、琉偉は彼女の気持ちが間違いなく自分に流れていることを確認した。  大丈夫だ。  いつになく不安になっている自分をなだめる。女性に関して不安を抱えたことなど、これまでなかった。琉偉の容姿と立場に、どんな女性も簡単になびいた。そして生涯の相手になることを願った。  俺の人格のみに惹かれてくれる人は、いなかった。  近づいてくる女性の誰もが、打算を顔に張りつけていた。父が成功し、連絡をくれるまでの間は、長身のハーフを彼氏にしている、というステータスのために、女性に声をかけられた。この会社に入り、父親の跡を継ぐと決まってからは、モデルと見まごう容姿と財産に目がくらんだ女性たちばかりが、琉偉の周囲に集まった。  そういう相手としか過ごしたことのない琉偉は、男女の関係は利害の一致で成り立つもので、恋愛とはそれを確かめる期間であると思うようになっていた。そうでありながら、自分自身を愛してくれる人の存在を求めていた。  だから、これまでの相手は遊びとして、踏み込むことなく一定の距離を取って付き合ってきた。  はじめは真理子とも、そんな関係になるだろうと考えていた。この船に乗れるほどの財力がある女性で、スロット・マシンにコインを乱暴につぎ込み酒におぼれていた真理子。その姿を見た瞬間、琉偉は彼女を金持ち連中の相手を商売にしている女性だと勘違いした。狙っていた相手が捕まえられず、むしゃくしゃしていたのか。それとも乱れた姿を演出し、裕福な男に声をかけられるのを待っているのか。  そのどちらにしても迷惑な話だと考え、琉偉は真理子に声をかけた。自分の容姿に絶対的な自信を持っていた琉偉は、柔和な態度で接すれば獲物でないと判断されても、この場では言うことを聞かせることが可能だと確信をして。  はたして真理子は多少ゴネながらも琉偉の思惑通りになった。体を繋げる結果になる可能性も、琉偉は考慮していた。  しかし。……あんな反応をされるとは思わなかったな。  真理子をはじめて抱いたときに覚えた胸のうずきは、こうなることを予感していたからだろうか。酔った彼女の「恋人でもない相手に」という誘い文句とおとなしめな真理子の外見のギャップに、すこし困惑しながらも「恋人になる」と宣言をした。あれは偶然ではなく、必然の会話だったのだと琉偉は思う。  この腕の中にある、かけがえのないものと繋がるための、運命的な出会いの演出だったのだと。  真実の愛――。  そんな、使い古されたバカバカしい言葉が琉偉の脳裏に浮かんだ。いままでは鼻先で笑い飛ばしていた、けれどどこかであこがれていたその言葉が、存在感を持って琉偉の心にのしかかっている。  なんてしあわせなのだろうと、琉偉は真理子の温もりを確かめる。腕の中にいる真理子は、耳まで赤くして琉偉の胸に額を乗せている。さらりと彼女の髪に指を這わせて、愛らしいつむじにキスをした。  こうしていると、ますます部屋から出たくなくなる。  気力を振り絞って、琉偉は真理子の肩を掴んだ。 「そろそろ行こうか。朝食の時間がなくなってしまう。――もっとも、なくなるのは俺の時間だけなんだが」  顔をしかめると、真理子がクスクス笑った。小鳥のさえずりのようだと、琉偉は愛おしさに目を細める。  ちいさく可憐な小鳥を守り、愛し抜こう。 「さあ、行こうか」  真理子の背中に手を添えて、琉偉は浮き立つ心そのものの軽快な足取りで、レストランへと向かった。

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