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第13話

   * * *  プールサイドのビーチチェアに横になり、琉偉はプールの中の真理子を見つめていた。  四方を海に囲まれたプール、ということ自体をおもしろがっていた真理子は、船尾にしつらえられている巨大なウォータースライダーに、まるく開いた目をキラキラと輝かせた。 「行ってくるか?」 「えっ」 「上からのながめは、なかなかだ」  そう勧めれば、ひかえめに「それじゃあ」と言いながら、真理子はスライダーの階段に足をかけ、じつに楽しそうな歓声を上げて滑り降りた。  ずぶ濡れになった真理子が髪をかき上げながら、琉偉のもとへ戻ってくる。  オレンジの水着は彼女の白い肌をより明るく見せていた。黒を選ばなかったところに、彼女の愛らしい心根が透けて見えるようだ。  すこし惜しいな。だが、真理子の魅力を知っているのは、俺だけでいい。 「すごい迫力だったわ」  はしゃぐ真理子に、背を起こした琉偉は隣のビーチチェアに座るよう促した。 「景色は、どうだった」 「最高よ。遠くに島の影が見えたわ。あれ、日本のどのあたりなんだろう」 「さあ、どのあたりかな。……次の停泊予定地は神戸港だから、大阪かそのあたりじゃないか」 「大阪……。関西の陸地かぁ」 「関西に、なにか思い入れでも?」  ううん、と真理子は首を振る。 「修学旅行の思い出くらいよ」 「俺も、修学旅行で関西に来たことがある。――京都だ」 「私も」  共通の話題に、ふたりはニッコリした。 「でも、琉偉が日本人って、ちょっとやっぱり不思議な感じがするなぁ。――あ。気を悪くしないでね。深い意味はないの」  気を悪くなんてしていないと、琉偉はやわらかな表情で示した。 「それを不思議に思うってことは、まだ俺になじみきっていない、ということか」  残念だとつぶやけば、真理子はあいまいな困惑を浮かべた。 「ここって日本人……、というか、東洋人がすくない気がするの。それで、琉偉はそんな空間にすごくなじんでいるから、日本人って感じがしないのよ。目も青いし……。さっき見た島影が関西って言われたのも不思議なくらい、外国にいる気分だからなのかもしれないけれど」  言い訳じみた真理子の言葉に、琉偉は苦笑した。  そんなに気を使わなくてもいいのに。ハーフということで、イヤな思い出でもあるのかと危惧しているのか。それとも、優等生らしく分け隔てなく接さなければという、彼女が過去に培ってきた無意識の反応が出ているだけか。  まあ、どちらでもいいさ。  琉偉は真理子の濡れた頬に手を伸ばした。指が触れると、ほんのわずか真理子は緊張に硬くなる。あれほど情熱的に絡み合ったはずなのに、真理子はときどきこうして、なじんでいない気分にさせてくる。  琉偉は親指を動かして彼女の肌を撫でてほぐした。真理子は目じりを赤くして、まぶしそうに笑った。  ドキリと琉偉の心臓がわななく。  まぶしいのは君だよ、真理子。  心の中で告げて、琉偉は彼女の頬から肩へと手のひらを滑らせた。細い肩は軽く力を入れただけで砕けてしまいそうだ。肌を濡らす水滴が陽光を反射して、白い肌が光り輝いている。鎖骨からゆるやかなカーブを描き盛り上がっている乳房に、水が滑り落ちた。 「この船はどこの国でもない、自由な……、そう、だな。オアシス・ブルーバードという名の、ちいさな国と言ってもいい。だから、真理子が外国にいるようだと感じるのは当然なんだ。この船はそれを目的としているんだから。――最高の褒め言葉だよ」  言いながら、琉偉は真理子の夜空のような瞳を見つめた。 「俺にとっては、君の瞳が異国に感じる。――真理子のような女性に会ったのは、はじめてだ」  どういうこと? と小首をかしげた真理子の瞳が言っている。琉偉は意図せず、さみしさを瞳に浮かべて口の端を皮肉に持ち上げた。 「外見や金品の有無で男を判断しない女性、とでも言っておこうか」  真理子はポカンとした。 「そんな人としか、付き合ってこなかったの?」 「そんな連中しか、俺の周囲にはいなかったのさ」  軽く肩をすくめると、痛々しそうに真理子が目を細めた。 「その……、なんて言ったらいいのか…………」  曇った真理子の瞳に、琉偉の心が熱くうずいた。  こちらは弱味とも不幸とも考えていないが、それを気の毒だと感じる人間は多い。そこにつけこんで女性をモノにしようとする連中を琉偉は知っている。けれど自分はそんな下劣なまねはしないし、そんなことをしてなんになるとバカにしてきた。しかしいま、真理子の瞳の深い場所に琉偉を案じる光を見つけて、彼女の心の底に自分がいるよろこびを見いだしてしまった。  俺も連中と変わりない、あさましい考えの持ち主だったってことか。  事実ではあるが、それを利用する気になった自分に「ダメだ」と言い聞かせ、琉偉は同情を買う考えを押し流した。  そんなことをして、なんになる。あわれみを引き出して優しさを得ようとしなくとも、俺は真理子を手に入れられる。つけこむなんて卑怯なマネをする必要なんてない。 「そんな顔をしないでくれ、真理子。べつに俺はそれを不幸だなんて思っちゃいないんだ。むしろそういう部分がわかりやすい連中で、よかったと思っているよ。深い関係になってから相手の本性を知って愕然とするよりはずっといい」 「……強いんだね」 「強い?」  うん、と真理子はいまにも泣き出しそうな顔で、透明な笑みを浮かべた。 「そういうので自暴自棄になっちゃったりとか、しないから」    * * *  すごいなぁ、と真理子は琉偉をまぶしく見つめた。  外見や金品でしか判断されないことを淡々と受け止めて、それでも自分を腐らせないなんて、琉偉はなんて強いんだろう。  私だったら、イライラしたり落ち込んだり、どうせ私なんてと腐ってヤケになるだろう。  真理子はしっかりしていて当然という見方をされたときに、行動を制限されている気分になったことを思い出す。  そういう言動を求められているかのような、窮屈な空気を払しょくするのは大変な気力が必要で、反発するにしても納得をするにしても、モヤモヤとした気持ち悪さが胸のあたりにわだかまる。  どれほど経験しても慣れることはなく、遭遇するたびにちょっとした擦り傷に似た痛みやうずきを抱えて、どうせ私なんてそういう見方をされるんだからと、そぐわないものに興味を示したり憧れを抱いたときの、あきらめの言葉に変えていた。  その程度の出来事でもそんなふうに腐ってしまうのだから、外見や金品の有無のみで判断されるばかりで人格を見てもらえなければ女性不審に陥りそうだ。  期間限定の恋を提案したのは、そういう女性たちと駆け引きめいた恋愛しかしたことがないから――?  それは、強さと言えるのかな。  さきほど琉偉に「強い」と言っておきながら、真理子の思考は疑問に行きついた。  どうせ船を降りれば赤の他人となる相手。二度と会うことのない人だから、普段の自分をかなぐり捨てて楽しめばいいとは思うものの、ついつい相手のことを考えてしまう性分は、そう簡単に変わらない。  期間限定の恋人だからって、相手を軽く見て過ごすなんて失礼だよね。  たった数日だとしても、きちんと向き合うべきだと、真理子は生真面目に考えた。  なにより琉偉を、そんなふうに扱いたくない。つまり、外見や金銭目的のみで愛する、という扱いだ。  もとから、そういうの苦手だし。  真理子は肩に触れている琉偉の手に手のひらを重ねた。 「ねえ、琉偉」  彼の視線がまっすぐに真理子の瞳の奥に触れる。ゾクリと真理子は身を震わせた。ちいさな動きだったけれど、触れた肌から琉偉に伝わったはずだ。  視線が重なっただけで、心も体も震えてしまう。それは琉偉が琉偉だからだ。たしかに琉偉はとてもハンサムで、たくましくもセクシーな体つきをしている。けれどそれだけで、胸を熱くさせているわけではない。  私、それほどふしだらな女じゃないわ。  それなのに琉偉の情熱的な視線を受けると、肌身が熱くうずいてしまう。真摯な瞳に射抜かれれば、キスをしてほしくなる。女の本能をくすぐられて、情熱的な自分が現れる。  頬に触れられ、親指で撫でられただけで体の奥に熱が灯った。そんな反応をしてしまうのは、琉偉が琉偉だからだ。  見た目だけで胸をときめかせているわけじゃない。 「真理子は本当に、魅力的で不思議な人だ」  琉偉がつぶやく。肩に乗っていた彼の手が、重ねた真理子の手を握った。琉偉の温もりが繋がった手から流れてくる。  手首の内側を優しくさすられ、真理子はくすぐったさの中に甘美な刺激を覚えた。肌身が粟立ち、胸の先が軽くうずいて下肢がキュンとせつなさを訴える。  私、いつからこんな奔放な体になってしまったんだろう。  おそろしいくらい敏感な体だと琉偉に教えられた。女の性の荒々しい野性味と、本能の開放の心地よさも味わった。そのときの感覚がよみがえり、真理子の喉元に劣情の息が生まれる。それをそっと吐き出すと、琉偉の濡れた瞳にほほえまれた。  どうしよう。私、いますぐ琉偉が欲しい。  まだ午前中の、日の高いうちからそんなことを思うなんて、きっと呆れられてしまう。  真理子はグッとお腹に力を入れて自制した。彼の手を振りほどけば、ささやかな波に似た官能のいざないから逃れられるとわかっていても、それができないでいる。琉偉の温もりから離れるのは惜しかった。  葛藤を抱える真理子は、プールサイドを歩いているカフェ店員の姿を見つけ、素早く手を振った。 「喉、渇いたから。なにか飲もう」  琉偉に提案すると、彼はこだわりなく真理子から手を離して店員に英語で話しかける。 「真理子は、なにがいい?」 「ジンジャーエールかな。……もしもないなら、コーラで」 「わかった」  注文をした琉偉がさりげなくチップを渡すのを見て、真理子はあわててカバンに手を伸ばした。それを琉偉がやんわりと制する。 「デートのときは、すべて俺が払うから」 「飲みたいって言ったのは、私だし……」 「いつもそうなのか」 「え?」 「その、付き合った相手とはいつも、そんなふうにしていたのか」 「……え。えっと、それは」  割り勘の場合もあったけれど、大抵はおごってもらっていた。それを言ったら、さっき琉偉が言った「外見や金銭目的」の女性たちとおなじ立場になる気がして、口をモゴモゴさせていると、クスリと琉偉が鼻を鳴らした。 「真理子は真面目だな。もっと軽く答えればいいのに」  なぜか心がズキリと痛んだ。言われ慣れている言葉なのに、どうして――。  きっと琉偉の生きている世界と自分の生きている場所が、うんと遠いものに感じられたからだ。真面目でおとなしくて地味な私は、琉偉の世界にふさわしくないと言われている気がしたから、胸が痛んだ。  真理子はそっと息を吐いて、心の痛みを抜いた。  でもいまは、琉偉と私の世界は重なっている。だから気にする必要はない。 「だってさっき、琉偉が金銭目的の女性がどうのって言ったから」  ちょっと無理して軽口を叩いてみると、彼は快活な笑いで答えた。 「この程度で、金銭目的だって思うほど俺は金に苦労をしていない。きちんと働いて収入を得ているんだ。――この船のクルーは複数言語を操れることが条件だからな。そんじょそこらの会社員よりもずっと高給取りだ」  なるほど、と真理子はうなずく。この船のクルーというだけで高収入者と判断され、金銭目的の女性が来る、と彼は言っているのだろう。 「だから真理子は遠慮をせずに、俺にドリンクをおごられていればいい」 「そして昼食もそのつもりなんでしょう?」  もちろん、と琉偉が笑みを深めて示す。 「だったら、ここは私に出させてほしいの」 「どうして」 「昼食も……、もしかして夕食もごちそうしてくれるつもりなのだとしたら、ここのドリンク代くらい私が払わないと、なんだか居心地が悪いもの。――その、私、真面目で融通がきかないから」  自嘲気味に肩をすくめた真理子に、琉偉は吹き出した。 「っ、はは――。なるほど、わかった。真理子はさっきの俺の発言を気にして、俺と対等の立場でいると、ささやかながら宣言をしたいんだな。いいよ。そういうことなら、ここはおごってもらうとしよう。それで君の気持ちが収まるのなら」 「……うん。ありがとう」  セクシーな水着姿の女性店員が、極上の笑みを浮かべて注文したドリンクを運んできた。真理子が支払うと、女性店員はちょっと驚いた顔をして琉偉を見る。琉偉は楽しげにウインクをしながら、早口でなにかを言い、女性店員は大げさなくらいゆっくりとうなずくと、真理子からドリンク代とチップを受け取り去っていった。 「なんて言ったの?」 「ん? 真理子と俺はまったくのフラットな関係なのさと言っただけだ。真理子は俺に金銭的な期待を寄せているわけじゃない――、とね」  ニヤリとした琉偉に、真理子はいたずらっぽい笑みを向けた。 「それと、見た目だけを目当てにしているわけでもないわ」  どちらともなくグラスを持ち上げ、愉快な気分で乾杯をした。

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