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第12話
* * *
船のどこに案内しても、真理子は目をまんまるにして感動していた。琉偉からすれば見慣れた船内だが、彼女にとっては別世界だったようだ。
もっとも、そういう客の反応には慣れている。彼女が驚くだろうことは想定していたが、その表情やしぐさが世の中に出る前の純真な少女としか思えないものだったので、琉偉は得意になって彼女をあちらこちらへと連れまわした。
あんなに愛らしい表情ではしゃがれれば、離れがたくもなる。
明日の休みを手に入れるために、琉偉は夕食前には名残を惜しみつつ彼女と別れて事務室へ入った。
「なにも問題はないようだな」
机の上に書類も手紙もないことを確認した琉偉は、引き出しを開けてファイルを取り出し、旅程表を確認した。滞りなく船は進み、どこからも琉偉の机に乗るほどのクレームは出ていない。いつもなら冗談まじりに、なにか事件でも起きはしないかと思うのに、いまはなにもかもが順調に進んでいることに満足をする。
このぶんなら、朝からずっと真理子と過ごしても問題はなさそうだ。
あちこち連れまわすだけで、別れの時間になってしまった。なにせ、この船は広い。散歩と言っても、けっこうな距離がある。ましてやあれこれと簡単な説明をしながらなので、ただ歩くよりもずっと時間がかかってしまう。
船の隅々までとはいかなかったが、だいたいのところは案内し終えた。プールは明日でいいだろうと後回しにし、水着を買う時間をもうけるつもりだったのだが、かなわなかった。歩き疲れた真理子が、水着は自分で選んでおくわと約束をしてくれた。
「琉偉が無事に、明日の休みを取れることを願って」
そう言って別れ、彼女はショッピングモールへと向かった。去っていく真理子の足元に絡みつくスカートの裾と、しゃっきりと伸びた背筋を思い出し、琉偉は口の端を愉快にゆがませる。
真理子はどんな水着を選ぶのだろう。若者から年寄まで、あらゆる人間の好みに合うよう、水着のラインナップは豊富なはずだ。その中から、真面目に生きてきた女性が選ぶなら、やはり地味な色味とデザインのものだろうか。それとも男心をそそる大胆なものだろうか。
どちらでも魅力的に決まっている。
水着が問題なのではなく、着る人間が重要なのだ。真理子ならどんな水着だったとしても、俺の目には途方もなく魅力的に映るだろう。そう確信ができるほど、琉偉は真理子に熱を上げていた。
まったく。俺がこんなふうに夢中になる女性が現れるなんて、な。
過去に付き合ってきた女性や、琉偉の恋愛遍歴を知っている友人が聞けば、耳を疑うだろう。あるいは冗談だと受け取るかもしれない。
あの琉偉が本気になって女性を追いかけている、だって?
そんな幻の声が聞こえて、琉偉は苦笑する。
俺だって信じられない気分だ。追いかけまわされる側の俺が、追いかける側になるなんて夢にも思わなかった。
まあでも、追いかける、という表現は適切ではないか。
琉偉は旅程表を指でなぞり、残された日数を確かめる。
真理子は俺に惹かれている。それは間違いない。でなければキスもそれ以上も、あんなにおとなしく受け入れるはずはないし、くだけた態度ではしゃいでみせたりはしないだろう。
俺たちはとっくに恋人だ。
ただし、この船の上でだけ……、という条件を真理子が意識しているかどうか。それが琉偉には気がかりだった。
もしも彼女が琉偉の存在すらも、旅の思い出とするつもりでいたら?
下船をしてから恋人気取りで彼女に声をかけ、もう終わった関係だからと軽くあしらわれたらプライドに傷がつく。
いや。プライドなんて、どうでもいい。それよりも彼女がそう割り切って付き合っていたという事実に、心がうんと痛むだろう。
そうはさせない。
期限付きの恋人はイヤだと、彼女の唇から愛らしい懇願を引き出すんだ。そうして俺は彼女に、おなじ気持ちだとプロポーズする。真理子は大きく開いた目を輝かせてよろこぶはずだ。
近い将来の夢想を浮かべて、琉偉は彼女と過ごした時間を噛みしめた。いままで付き合ってきた誰もが、琉偉の財布を目当てにしているのではと思うほど、ねだる視線をなにかの店の前を通るたびに送ってきた。あけすけな場合もあれば、ひかえめで、それとなく感ずる程度のものもあったが、甘えれば買ってもらえるものだと決めてかかっていた。そんな女性の態度を当たり前としていた琉偉は、商品には目もくれず船内の細やかな装飾や草花に意識を向けて、休憩のカフェでは自分のぶんは自分で支払おうとさえした真理子の態度に好感を深めていた。
真理子は琉偉をこの船のオーナー息子ではなく、ただの従業員だと思っているから、物をねだらないのかもしれない。それでも飲み物すらも自分で払おうとしたのには驚かされた。真理子はデートのときにはいつも、自分のものは自分で支払ってきたのだろうか。
エスコートされる、という経験がないのかもしれない。
抱いたとき、彼女は未経験者ではなかった。とすれば、かつての相手はデートの時にさりげなくリードをする男ではなかったのだろう。あるいは琉偉を恋人として認めてはいないか。
ばかな。
琉偉は首を振った。
認めていないのなら、肌身をゆだねはしないはずだ。
まさか、彼女は琉偉の誘いも船旅のサービスの一環だとでも考えているのか? ひとり旅の女性の気を紛らわせるため、さりげなく現れた恋人の代役サービス。そんなものまで完備しているのかと、琉偉の行動を受け止めているとしたら――。
思考が飛躍しすぎている。
琉偉は苦笑した。いったいどうして、そんな突飛な考えを浮かべたのか。それほど真理子に参っているということか。
どうかしている。
本当に。
そう自分にあきれる琉偉は、まんざらでもなかった。
* * *
琉偉と別れた真理子は、約束通りに水着を購入した。せっかくなのだから、大胆なものを選んでみようと思っても、目につき手を伸ばすのは地味なものばかりだった。真理子がウンウン悩んでいると、妙齢の女性が金色の布地面積のすくない水着を手に取って、なにやら楽しそうに、けれど語気は鋭く店員にアレコレ言いながら試着室に入っていった。
そのちぐはぐさと水着の派手さにポカンとしていると、日本語のできるスタッフがほほえみながら真理子に声をかけた。
「恋人が別の女性に目を奪われていたので、あの水着で自分の魅力を再確認させるのだそうですよ」
えっ、と振り向けば、スタッフが「どのような水着をお探しですか」と問う。
「どのような、と言われても……」
こだわりがあるわけではない真理子は困った。
「水着の目的は、泳ぐことですか。それともあの女性のように、恋人に魅力を感じてもらうためでしょうか」
「いえ、……ええと、その」
恋人という単語に、真理子はドギマギした。たしかに琉偉は恋人だ。――いまは。
期間限定の恋人なら、うんと魅力的に見てもらえたほうがいいよね。
「――恋人に、魅力的に見られたいです。でも、あんまり派手なのは、ちょっと……」
おずおず言うと、たのもしく「承りました」と請け負った店員が、水着を手早く見繕う。
「さあ、どうぞ」
「えっ。……あ、はい」
促されるまま試着室に入って、あれこれと身に着けてみた。
どれもこれも刺激的で、普段ならば選びそうにないものばかりだ。その中で、これならまだ平気そうだと選んだのは、オレンジのクロスカシュクールビキニだった。これならしっかりしているので、プールのアトラクションで遊んでも、水着が取れてしまう心配もないと勧められた。
水着用の上着やショートパンツもあればと思ったが、それだと大胆な水着を選んだ意味はなくなってしまう。
購入を済ませた真理子は、エステがあったと思い出して足早に向かった。たった一度のエステで大きくなにかが変わるとは思わないが、なにもしないよりはいい。ただの気休めだとわかっていても、自分ひとりならば選びそうもない、大胆な水着を身に着ける気持ちの後押しが欲しかった。
エステは日本のそれよりも、ずっとリーズナブルだった。全身コースを頼んだ真理子は、いい香りのするアロマオイルで全身をほぐされ、すっかりリラックスした。
心地いい香りに包まれ、丁寧に体の隅々までをほぐされて、最高に贅沢な心地を味わう。仕事の合間に肩こり解消をしようと、整骨院で施術を受けたり街中のマッサージ屋に入るのとはわけがちがう。
エステにハマる人の気持ち、わかっちゃったかも。
取り除かれる老廃物や角質などとともに、疲れも気負いもなにもかも、ポロポロとはがされていくようだ。
ああ、最高。
うっとりと目を閉じた真理子は、いつの間にか意識を眠りに落とし、軽く肩を叩かれてコース終了だと教えられた。
「あっ、すみません。私、寝ちゃって」
あわてて起きようとすると、アロマオイルで滑るのでゆっくりでいいですよと、まるみのある声音で言われる。どこにもとげのないまろやかな口調に、ほぐされた体同様、心の緊張もすっかり消えていた。
なんて単純なんだろうと思いつつ、シャワーを浴びる。
あんな感じの声で話しかけられるなんて、なかったなぁ。
あったとしても、うんと幼い子ども時代くらいではないか。幼稚園の先生とか、近所の親しい大人とか……。そういう相手からなら、あったかもしれない。けれど、当然のこととして、スタッフの声は子どもを相手にしているような気配はない。きちんと大人の女性として、遇してくれている。それなのに、あれほどまるみのある、なめらかな声音や態度でいられるのは、どうしてだろう。
きっと、余裕があるからだ。
はたと気づいて、真理子は自分の来し方に思いをはせた。
親の気に入るように、教師の気に入るように、世間の気に入るように、上司の気に入るように。
無意識に、そんなことばかりを意識して過ごしていたのだと、唐突に真理子は理解した。だから口調にも態度にも余裕がなくて、生真面目な女だと言われていたのだ。きっちりしている、しっかりしている、と言われる原因は言動や雰囲気にまるみを帯びた余裕がなく、四角四面だったからだろう。
褒め言葉であったそれは、ひどくつまらないものだった。悪いことではない。ずっと褒められ、頼りにされてきたのだから、いいことだった……、はずだ。
ただ、人間として隙がない、と言われたことがある。それはきっと、心のどこかに余裕がなく、奔放な妹を反面教師として自戒し続けていたせいだ。自分で自分を窮屈にしていた。だから褒められてもどこかしっくりこずに、それがこじれて無意識のコンプレックスとなり、妹を敵視する態度になっていった。
妹とケンカをしたとき、いつも私を見下しているくせに、と言われたことがある。見下しているのはそっちでしょう、と憤った。
あの食い違いの原因は、ここにあったんだ。
まさかエステでそんな悟りを得られるとは予想もしていなかった。心の澱までほぐされるなんて。
そこに意識を向けられる余裕が、私にできたってことなのかな。
真理子は軽い足取りでカジノスペースを通り抜ける途中、スロット・マシンのエリアの上にある巨大な電光掲示板の数字を見た。その数字は確実に、止まることなく増えていく。スロット・マシンの大当たり――ジャックポットを引けば、その数字の掲示板が止まり、運営している会社のネットワークで繋がっている、全世界のおなじスロット・マシンが機能を停止して、電光掲示板の四方に配されているライオンが輝く。……らしい。
金額はドル表示だ。日本円にして、いったいいくらになるのか。
テクニックや知識などはなにもいらず、誰でも手軽にできるミリオネアへの運試し。
乗船したときはそれに貯金をつぎ込んで、自分の人生をうらなうつもりでいたけれど、いまはそんな気分がすこしもない。
それもこれも、自暴自棄というにはおとなしく、けれど真理子にとっては大胆で乱暴な行動を、琉偉があのとき止めてくれたからだ。
私にとっては、ジャックポットを引き当てたに等しい出会いだわ。
たとえそれが、期間限定の恋だったとしても。
真理子はほほえみ、増え続ける数字から目を離した。
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